第4話

 「富江ちゃん。貴女の顔には死にたいって書いてるわよ。どうしてそんなに死に急ごうとするのかしら」


 私は今、お昼休みの時間を黒澤さんと共に過ごしている。

いや、過ごしているというのは少し違うか。先日のをしようとした私を見つけた彼女が、勝手に話しかけてきたのだから。

 どうして私を一人にしてくれないのだろう――


「あの……黒澤さんってどうして私に付きまとうんですか?」

 彼女のような美人が、どうして私のようないじめられっ子に関わろうとするのかが私には理解できなかった。

 もしかして興味本位なのか――いじめられてる人間がどういう奴なのか確認しておこうという魂胆なのか、いずれにしろ私には理解しかねる思考回路なのは間違いない。

 それに私も彼女の事はよく知らないし、ただの顔見知り程度の関係――深く付き合いたいとも思わない。


「そうね。富江ちゃんが『好き』だからかな」

 これから飛び降りようと思っていた私の耳に、とんでもない言葉が飛び込んできた。

 あまりの驚きにバランスを崩し、無様な格好で校庭に落下するところだった。せめて落ちるときは自分のタイミングで落ちたい。

「黒澤さん……悪い冗談にも程があるでしょう」

 その『好き』という言葉がどんな意味を含んでるのか知らないけれど、生まれてこの方正面から好きと言われた経験など皆無の私は、よりにもよってその初めてがよく知らぬ女性からということもあり平静を保つので一苦労であった。


「冗談ではないわ。それより見て。海ってあんなに大きくて綺麗なのね」

「はぁ……別にいつもと変わらないと思いますけど」

 海沿いに住んでないとはいえ、私は藤沢市民だ。海の潮風も穏やかななぎも荒れ狂う高波も飽きるほど見てきた。なので私にとってはごくごく当たり前の風景だけど、彼女はそうではないのか。

 隣にはいつのまにか柵を乗り越えた彼女が、目を輝かせ私とくっつくように立っていた。


「私は海って見たことなかったから、これでも感激してるのよ」

「黒澤さんは生まれは湘南ではないのですか?」

 遠く水平線の彼方を見つめる彼女の横顔と、海風がはこぶ潮風に揺れる黒髪につい見惚れてしまう――

「私も昔はこの街に住んでいたわ。でも訳あってお外に出られなくてね。だからこうして他人と海を眺めるのは初めてなの。その初めてが富江ちゃんで良かったわ」

 そんな恥ずかしい発言をさらりと言えてしまう彼女は、やはり美しかった。


 そうこうしてると、またお昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。

今日もまた飛び降りる機会を逃したと残念がっていると、黒澤さんは梅の花のように可憐な笑顔で「学校抜け出そっか」と、誘ってきた。

「いや、先生に怒られますよ?」

ついさっきまで飛び降りようとしている人間が言うにはいささか滑稽な指摘だが、小悪魔のような笑顔で私の手を取ると、勢いよく柵を飛び越えた。


 鎌倉女学園かまじょから海岸までは、歩いて十分ほどで到着する。勾配の厳しい坂を真っ直ぐに下っていくと、国道一号線を挟んで目の前に湘南の海が広がる。

 春が近いとはいえ、まだ北から運んでくる海風は冷気を帯びていて、私の頬から徐々に熱を奪い去っていった。

 だと言うのに、彼女は寒さを感じる素振りなど見せず目の前の海に静かに興奮していた。


「近くで見ると、海ってすごい大きいのね。ビックリしちゃった」

 私を半ば強引に連れてきたにも関わらず、彼女は一人で波打ち際に寄せる細波さざなみと戯れている。

 制服姿で波打ち際に近寄っていく彼女は、ともすれば海に消えていってしまいそうな御伽噺おとぎばなしの人魚にも見えなくはなかった。


「黒澤さん。さっき屋上でどうして死に急いでるかって聞いたよね」

「うん。聞いたわ」

 どうしてだろう。黒澤さんの姿を見ていると私の心が微かに震えるのは――もう何があっても動かないと思っていたのに。

「実はね……私昔っからいじめられっ子で、いつも死にたい死にたいって悩んでいたの」

 自らの保身に走る教師や、くだらない価値観で罵る親以外に初めて語る真実を、名前くらいしか知らない女の子に話すことになるとは思わなかった。

だけど一度口から出た言葉は二度と戻ることはなく、淀んだおりは底から撹拌かくはんされ、次から次へと溢れ出てくる。

 彼女は足元が海水で濡れることも気にせず、私をじっと見つめ、ただ聞いていた。


「そうだったんだ。苦しかったよね、辛かったよね、でも大丈夫よ。私が貴女を守ってあげるから……」

 そう言うと、彼女は私の小さな体をそっと抱き締めた。女の子同士の抱擁とはいえ、それにしては生々しく、あまりの衝撃に私の体は固まってしまった。

(えっ!?なんで私抱かれてるの!?)


 彼女がどうしてここまで私に近づいてくるのか全くわからない――赤の他人なのに、どうしてそこまで面倒を見る必要があるのか。

 私だって離れようと思えば離れられたはず、彼女も強引に抱きついているわけではないのに――そうさせなかったのは、彼女からどこか懐かしい香りがしたからか。

 石鹸の香り、お日様の香り、春の日差しを一身に浴びたような、あの楽しかった頃の香りが――


過去と現在の様々な思い出が頭を駆け巡り、 気が付くと私は人目もはばからず、嗚咽を漏らしながら彼女の細い体をひしっと抱き締め泣いていた。

 彼女は何も言わず、その暖かい手で私の頭を優しく撫でてくれた。

 撫でる度に、吹雪の中をさ迷い歩いていたように冷えた体がゆっくりと温められていく――

じんわりじんわりと火鉢で溶かされていくようなその初めての心地好さに、私はそれまで抱いていた疑問を棚上げし、ただ身を任せることにした。

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