第5話

 厳しかった冬が北へと去っていき、日本列島は西から少しずつ桜前線が北上してきた。ここ鎌倉の地にも桜咲く季節が到来した。

 目白やうぐいすすずめ達が、我先にと花の蜜を競うように奪い合う光景は、春の澄み渡った青空の下で、ピーチクパーチクと血気盛んな小鳥達の一足早い運動会を眺めているようだった。


 隣に腰かける彼女も同じく桜の木を見上げている。肩と肩が触れあう距離で彼女の匂いを感じ横顔をちらりと盗み見ると、桜の花弁はなびらにも負けないその可憐さにおかしなことだとわかっていても胸が高鳴ってしまう。

女の子に対して抱く気持ちじゃないのに。

 うららかな春の陽射しを一身に浴び、まぶたを閉じてもまだ暖かさを感じる陽気に、つい先程まで何を思っていたかなど些末な問題だとそう思わなくもなかったけれど、彼女の横顔を隠れて眺めていると存外悪い気分でもなかった。

 死を願っていても『花』の美しさには勝てないものなのだろうか。


 私が通う鎌倉女学園かまじょでは、春になると鎌倉山に遠足へ出掛けるのが恒例行事となっている。

 だけどこの遠足に、私は全くと言っていいほど良い思い出がない。苦行とさえ思っている。

 苛められている人間が、団体行動が常の遠足に参加させられるとどうなるかなんて、愚かな大人は考えもしていないのだろう。

 クラスメイトは桜の木の下、楽しげに会話に花を咲かせ各々おのおの楽しんでいる中、私は人気ひとけの無いところでひっそりと咲いているうら寂しそうな桜を一人で眺めていることしか出来なかった。


 きっとその時の私は、悲しそうな花弁はなびらを見て思っていたに違いない――せっかく厳しい冬に耐えて、一年という歳月をかけてまで春に花を咲かせたというのに、誰にも見てもらえず散っていくなんて、どこかの誰かさんみたい――と。

 でも、今考えるとそれは花に失礼だと思う。私の人生は、花の一つだって咲かせてはいないのだから。



「それではこれから班行動になりますので、集合時間まで自由に行動してください」

 教師の掛け声で、待ってましたと言わんばかりに、クラスメイト達が方々ほうぼうに散っていく。

 私はというと、やはりぽつんと一人佇むしかなかった。わかってはいたけど、やはり辛いものがある。

「やっぱ遠足なんて来なきゃ良かった。どうせなら黒澤さんと一緒にいる方が楽しいのに……」と、ぼそっと漏れでた自分の思考が、なにやらおかしな方向に向かいそうだったことに内心焦った。

(ちょっと待って。なんでここで黒澤さんが出てくるのよ。彼女はただの顔見知りでしょ)


 頭では否定しつつも、無意識にその視線は誰かさんを探していた――あの一際美しい女性を。

そして見つけた。

 彼女の周囲だけ光輝いているかのように黒澤さんは見知らぬ女性徒達と楽しそうに話をしているのを――その光景を目の当たりにすると、どうしてだか胸がちくりと、針を刺されたように痛んだ。

(私以外の人にもあんな顔見せるんだ……)

 何故だかその場にいることが辛くなり、私はその場を離れた。走って走って、息が荒れても足を止めることなく、ただ遮二無二走った。何も考えたくなかった。

 彼女に、私以外の知り合いがたくさんいたって何もおかしいことはない。

 その事実から目を背け、私なんてあくまでそのなかの一人だということに何故気が付かなかったのか。

 彼女のことをよく知ろうともせず、死にたがりの私は愚かにも、『私だけを見て欲しい』なんて浅ましい願望を持ってしまったのがいけなかったんだ。

 これは罰なんだ。

さっさと死のうとしなかった私に対する天罰なんだ。



 なまっていた心肺機能が限界を迎え、息も絶え絶えにようやく目的地に辿り着くと、そこには去年と同じくひっそりと桜が咲いていた。

 誰も見てくれないところで見事に咲き誇っている花弁はなびらを目にした私は、ざわつく心を抑え込んであることを心に決めた。


(今日こそ死んでやろう)


 結局、私は独りなんだと改めて自覚させられた今日こそ、死ぬには相応ふさわしい日じゃないかと思えたから。

 最後の思い出に、この美しい桜を目に焼き付けてから逝こうと眺めていると、背後からここにいるはずのない女性が声をかけてきた。

「やっと見つけたわ。こんなとこにいたのね」

私は咄嗟に振り向いた。だってここにいるはずの無い人の声だったから。今頃友達と楽しんでいるはずの人の声だったから。

 当の彼女はあっけらかんと訊ねてくる。


「どうしたの?また一人で泣いてたのかしら」

「べ、別に泣いてなんかいないわよ」

「嘘。ほら目が赤くなってるわよ」


 そう言って私の目元優しく撫でると、その細い指先には透明のしずくが見えた。

「ごめんなさい。本当はすぐにでも富江ちゃんのもとに行きたかったんだけど、クラスメイトが離してくれなくて。寂しい想いさせちゃったかしら?」

 なんだ……私の事忘れてた訳じゃないんだ。

ほっとしたのも束の間、どうしようもない怒りが私の体を乗っ取った。

「私……黒澤さんに見離されて、また一人になってしまったと思ったんですよ!この冷たい世界にまた独り残されたって、もう死んでやるって思ったんですよ!」

 砂浜で泣いてしまった時と同様に、私は自らの感情を抑えることが出来ず、彼女の胸に飛び込んでは感情の赴くまままくし立てた。

控えめなその柔らかい膨らみが、私の押し付けた頭で形を歪める。


「あらあら、涙で顔がぐちゃぐちゃね」

 涙で不細工になった顔を優しく拭いてくれると、何やらしっとりとした柔らかい感触が頬に伝わってきた。

「え?今なにかしましたか?」

「さぁ……何かしらね?」

 小さく微笑む彼女は、それだけで充分魅力的であった。

「ねぇ富江ちゃん」

「なんですか?」

「まだ死にたいと思ってる?」

「正直言って、自分でもよくわかりません。突然死にたいと思う夜もあれば、でもこうして黒澤さんといると落ち着くし……ってこんなこと可笑しいですよね」

「そんなこと無いわよ。私だって富江ちゃんといると落ち着くし」


 その言葉はとても嬉しかった反面、どうしても私と彼女とでは釣り合わないという負い目を感じてしまう自分がいた。

「で、でも、やっぱり苛められっ子と一緒にいると黒澤さんにも迷惑がかかると思います……」

「そんな連中は放っておけばいい。私がどうかではなくて、富江ちゃん。貴女はどうしたいの?」

「わ、わたしは……」


(一緒にいたい)


 そう言えたらどれだけ楽になれるか。

生と死――その狭間で揺れている私は、なんて返事をすればよいかわからなくなっていた。

 そんな優柔不断な私を見るに見かねた彼女は、なんと突然私を芝生の上に押し倒してきたのだ。

 つまり私が仰向けになり、覆い被さるような形で黒澤さんに見下ろされているという摩訶不思議な状況に陥ってしまったわけで……。


 あまりに急転直下な状況の変化に、頭が状況をのみ込めない。

「え?えぇ!??」と意味を為さない言葉を吐くしかできなかった私に、「ちゃんとはっきり言うまで退いてあげない」と、真剣な表情で問い詰めてきた。

 その時間はほんの数分にも満たなかっただろうけど、じっと見つめられた私の体温はどこまでも上がってしまい、心臓が破裂しそうなほど緊張していた。


「一緒にいたい……」


顔を熱くして言うしか、私には選択肢は無かった。

 きっと彼女は私にその一言を言わせたかったんだと後になって思う。


「もう!いきなり驚くじゃないですか!」

 ギャンギャン吠える私の小言をさらりと受け流す彼女は、桜の木の下のベンチに腰かけ隣に来るよう私をいざなう。

 それから何を語るでもなく、桜を見上げてはゆっくりと流れる時間の流れに身を任せた。


「さっきみたいに、富江ちゃんが素直になってくれたら嬉しいな」

 少し低い私の肩にもたれかかってくる彼女の体重は子猫のように軽く、だけどその重さは私が欲していたものだった。

 春の青空は何処までも高く突き抜け、木の枝に留まっていた小鳥達が澄みきった青空に羽ばたいていく。


 私が返事をしようと隣を見ると、いつの間にかスゥスゥと仔猫のように可愛らしい寝息をたてている少女に、決して口にできないけど確かに密かな想いを抱きつつ、私の心は久方ぶりの平穏を取り戻すことができた。




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