第2話
お父様、お母さま、私はこの世にほとほと疲れてしまいました。
先立つ不幸をどうか御許しください。
昭和三十五年 二月 十二日 小倉富江
几帳面に揃えた上履の横に、この世を去る非礼を侘びた遺書と、咲き始めたばかりの梅の花を添えてセーラー服姿の私は屋上から眼下を見下ろす。
三階建ての木造校舎――忍び込んだ屋上から眺める湘南の海は冬の太陽の陽光を照り返し、万華鏡のように波間が光輝いていた。
その様子は、これから天国へ旅立つ私の為の道標にも見えた。
だけど、私が今から落ちるのは湘南の海上ではなく、眼下の木枯らし吹く校庭だ。果たしてこの高さから落ちて、無事天国に旅たてるだろうか……。
失敗だけはしたくはなかった。東京ではもっと高いところから落ちて助かってしまった人がいる話を新聞で目にしたことがある。
その当人は運が良かったのか悪かったのか知るよしはないけれど、この世の不運を集めて出来上がったような私なら、きっと一度で死ねるだろう。そう祈る。
実際落ちてみないことにはわからないけれど、それでも私はこれから飛び降りなくてはならない。
この苦しみに満ちた世界から開放される為に――
自殺を決心し遺書をしたため、いざこの屋上の縁に立ってみると、長年受け続けてきた数々の苛めが頭をよぎる。
あの生きていくだけで精一杯だった日々が――私の周囲には味方はおらず、誰にも理解してもらえず、誰にも救ってもらえず、覚悟を決めて相談した教師からは、お前が甘いと叱責を受け、泣きついた両親からは、身内の恥だと口汚く罵られ、頬を張られ、身も心もボロボロだったこれまでの日々……。
こんな辛い世界に神なんているはずがない。あるのは辛い現実と血の通っていない人間だけ。
そんな世界から逃げ出すために、これまで私は何度か自殺を試みたが、結局死にきれなかった。
(どうしてこんなに苦しんでる私を死なせてくれないの)
何度そう自らを責めたことか。そんな壊れそうだった私にも、かつて唯一といえる親友がいた。
誰からも手を差し伸べて貰えなかった私が、いつも自分から寄り添ってくれたあの子にどれだけ助けられたことか……。
でも、どれだけ懐かしんだところであの子はもうこの世にはいない。
それなら、地獄のようなこの世界に生きる意味ももはや存在しない。
死んであの子がいる世界に旅立とう――
そして今、この場に立っている。
短い人生を振り返り、気持ちを整理した。
「ごめんね。ミーちゃん。私も逝くね」
――――?
飛び降りようとしたその時、私の頬を何かが撫でていった。冬の寒風だろうか。
頬を指の腹でなぞると、これからこの苦界から解き放たれるというのに、私の両目から一筋の涙が流れているのに気付いた。
どんな苛めに遭おうとも、涙することなかった私が泣いている……。
その事実は、これまでの苦しかった人生から解き放たれる解放感から流した歓喜の涙なのか、それとも死にたくないと思って流した悲しみの涙なのか、判断がつかなかった。
(せめて、死ぬときくらいは笑って逝こう)
私は制服の袖でごしごし涙を拭くと、無理矢理口角を上げ、天国への一歩を踏み出そうとした――
「ねえ。飛び降りるのかしら」
突如背後から声を掛けられた私は、酷く動揺し、慌てて振り向いた。
まさか飛び降りようとした瞬間を見られているとは思わなかったから。
(屋上に人はいなかったはずなのに)
そうだ。確かに誰もいないのは確認したはず……。
立て付けの悪い扉は、開けば黒板を引っ掻いたような音が鳴るし、そんな音がすれば気が付かない筈がない。
「落ちるの?落ちないの?」
声の主は、私の背後三メートルほど後ろに立っていて、風にたなびく黒髪を抑えながら私に訊ねてきた。
私を見つめる無表情なその顔だちは、何処か西洋人形のような無機質な美を感じさせ、同じ制服を着ているはずがどこか人間離れした雰囲気を漂わせ、思わず足を踏み外しそうになった。
よくよく見ても、やはり記憶にない無い女の子だ。
その美しい顔に
さっさと何処かに行って欲しい。そう毒を吐いた――心の内で。
「どうでも良いけど、もうすぐお昼休みも終わるからね」
そう言い残すと、謎の女の子は屋上から去っていった。
不思議な女の子の背中を視線で追っていくと、いつの間にかお昼休みの終了を告げるチャイムが校舎に響いていた。
階下の教室からは、慌ただしい声が聞こえてくる。午後の授業が直に始まる。
飛び降りるつもりでいたはずが、まさか見知らぬ女の子に邪魔をされるとは思わず、予定が狂った私はどうやら気が抜けて飛び降りる機会を失してしまったらしい。
(飛び降りる機会を逃したのは残念だけど、別にいつだって死ねるよね)
そう――死ぬ日が変わるだけだ。今日が明日に変わっただけで、遺書の日付を書き直せば済むこと。
気持ちを切り替えた私は、二度と降りることのないはずだった階段を下っていった。
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