第9話

「わたしはみちこが大好きだよ」


「ありがとう」


 たったその一言だった。

肯定でも否定でもない。それ以上の答えなど求めるべきではないけれど、なんと答えようか戸惑っている彼女の顔を私は見てられなかった。

 花火がすべて打ち終わるとそれまで熱気を帯びていた会場はじょじょに落ち着きを取り戻し、観客はみなぞろぞろと帰っていく。

 私たちも、沖へ沖へと引き波に流されていくように、その流れに逆らうことは敵わなかった。


 立ち並ぶ民家の光に淡く照らされた夜道を歩いていると、彼女の寂しげな声が漏れ聴こえた。

「そろそろ、お盆も終わるわね」

「うん。お盆も過ぎればじきに夏は終わるね」

 それだけ話すと、彼女らしくない重い沈黙が闇夜のような密度で辺りを漂う。

「それがどうしたの?」

 沈黙に耐えきれなくなった私は、咄嗟に訊ねた。何か話したいことでもあるんじゃないかと予感して、それが悪い方向の予感であったことが大きかったからかもしれない。


「私たちが初めてあった日のこと、覚えてる?」

「え?もちろん覚えてるよ。飛び降りそうだった私をじっと見つめてたんだもん」

「そうね。でも、あの日屋上で会えなかったらこうして一緒に花火も見ることができなかったんだよね」

 どこか、遠くを見つめる彼女の眼には、闇夜に浮かぶ星の他になにが見えているのだろうか。


「うん。今では死ななくて本当に良かったと思ってるよ」

 死ななくて本当に良かった――それは偽りのない本心だった。彼女を、みちこと出逢えて、好きになれて、人生が変わったと言ってもいい。

 これから先も彼女といれたらと、そう思う反面何故だか無性にみちこが消えていなくなりそうな、そんな不安に私は襲われた。

 なんだか頭がぼうっとする。なんでだろう。真夏の暑さにあてられたのだろうか――

 隣にいるはずのみちこの顔が、急にボヤけて見えた。


「あのね!わたし、みちこと一緒にいたい!」

 みちこの色白で華奢な腕を掴んだ私は、まるで駄々をこねる子供のように、無茶を言った。

何故だかわからない。ただ、本能が彼女の腕を離すなと叫んでいる。ここで離したら何処か遠くへ行ってしまう、そんな気がしてならなかった。


 駄々をこねる赤ん坊をあやすようにすがりつく私の頭を撫でると、雲のようにするりと腕から抜け出し去っていった。

寂しそうな顔で「またね」と言い残して、暗い夜道に消えてしまった。


 いなくなった彼女の代わりなのか、悲しそうに猫が何処かで鳴いていた。



 何故あのとき告白なんてしてしまったんだ……。

 あの日あった出来事を思い出しては、溜め息をつくばかりの日々を無為に過ごし、日がな一日中彼女との想い出を反芻はんすうしていた。

 結果的に受け入れられなくても、募っていくばかりの恋心がせきから溢れ、溜め息となって漏れていく。

その繰り返しでもう我慢できる範疇はとうに越えていた。こんな苦しいのなら、いっそ知らない方が良かったかもしれない――

 だけど、それはみちこに対して失礼ではないだろうか。この苦しみと喜びを知ったからこそこうして生きていられるんだ。

 両手で頬を張ると、それまでだらだらと過ごしていた自分に喝を入れ、適当な服に着替え家を飛び出した。


 確か、この辺りだったはずだけど――。

 同級生の連絡先に書いてあった住所だと、確かこの辺りにみちこの実家があるはずはのだが――

 みちこと直接話がしたくて家に訪れたというのに、なかなか目的の家が見つからない。

坂を上っては下り、上っては下り、やっと「黒澤」という表札を見つけることができたのだが――目の前に建つのはかつてはごうていだったであろう廃虚だった。


 そんな馬鹿なと、おおよそ住所を勘違いしたんだろうと思い、隣家の住人に訊ねることにした。


「すみませーん!お尋ねしたいことがあるんですけど!」

 暫くすると引き戸が開き、薄暗い屋内か気難しそうな老婦人が顔を覗かせた。

「うるさいねぇ。おたくはどちらさんだい」

「あの、私この辺りに住んでいる女の子の同級生なんですけど――」


 それから事情を説明すると、老婦人はしわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにさせて答えた。

「あんたぁ。その住所は確かに隣で間違いないよ。だけどもう何年もあのザマさね。見ての通り今は誰も住んじゃあいないよ」

「お婆ちゃん、それほんと?」

「ああ。天地神明に誓って嘘はついとらんよ」


 お婆ちゃんに挨拶を済ませると、私はいてもたってもいられず、その足で先生や同級生の家を片っ端らから訪ねていった。

 急に訪れた同級生が血相を変えて訪ねてくるもんだから一応は話を聞いてはくれるものの、みちこの事を誰一人覚えてる者はおらず、皆一様に彼女の記憶だけがぽっかりと抜け落ちていた。

 最後は怪訝な顔をされるだけで、得られた情報は鎌倉女学園に黒澤美智子という生徒は存在しなかったいう事実だけ。


 何が起こってるのか理解できず、一人途方にくれた私は小高い丘の上へとやって来た。

 小さな鎌倉の町を見渡せるこの場所は、幼少の頃、共に育ったミーちゃんが眠っている場所でもある。

 黒く艶やかな毛色で、撫でるとさらさらとした手触りが気持ちよくて、私が泣いているとすかさずすり寄って慰めてくれて、私がどれだけ泣き言を言っても文句の一つも言わずに小さい体で私を暖めてくれて、最後の時までずっと一緒にいたみーちゃん。

 昔は辛いことがあるとよくこの丘に来ていたけど、最近は引きこもりっぱなしで足が遠退いていたことに今更気付いた。


「みーちゃん……私、また一人になっちゃったよ」

 今はもう、土の下で静かに眠っている彼女に、子供の頃のような弱音を吐く。


「みーちゃんみたいな真っ黒が似合う女の子で、みーちゃんみたいなまんまるで綺麗な目をした、みーちゃんみたいに心配すると顔を舐めてくる……私の大好きな女の子が、夢から醒めたみたいにいなくなっちゃった……」


「私ならここにいるわよ」


 背後から急に声をかけられびっくりして振り向くと、あの日と同じように綺麗な女の子がそこに立っていた。


「みちこちゃん!?」

「ええそうよ。でもこう言った方がわかりやすいかしら。私はみーちゃんよ」


 みーちゃん?あの?だってみーちゃんはとっくに死んじゃってるし、それにみーちゃんは……


「そんな冗談やめてよ!姿を消したと思ったら急に現れて、そしたらバカみたいなこと言って!言って良い冗談と悪い冗談があるんだからね!」

「そうだよ。私がのみーちゃん。貴方の命を救うために生まれ変わったの」

「急に現れて何を言い出すと思ったら、黒猫の生まれ変わりで私を助けるために生まれ変わった?そんな出来の悪い話聞きたくない!」

「本当よ。私が寿命で死ぬまで、とみえの事がずっと心配だったの。ずっと苛められていたとみえが、私が死んだあと無事にやっていけるかってね。それで死ぬときに願ったのよ。『どうかとみえを助けさせてください』ってね。そうしたら神様がお盆までって条件で許してくれたんだ」


「そんな、そんなこと信じられるわけ」

「信じなくてもいい、でもあなたが苛めを乗り越えたことも、生きたいと思えたことも本当よ。それだけで私は短い間だけど生き返れて良かったと思ってるわ」


 そういえば、部屋から出たこともなければ、海も見たことないって言ってたけど、みーちゃんも正にその通りの生活だった。両親が家に帰れなくなったら危ないって、外に出さなかったんだ。

 それに、今思い返すと手すりを軽く飛び越える運動神経だって、襲いかかってくる不良を軽くいなした反射神経だって、花火の音にびっくりしちゃうって言ってたことだって、どれも猫に当てはまりそうではあった。



「なんで……そんなに優しいの」

「言ったじゃない。あなたが好きだからって。でも、ごめんね……とみえの好きには応えられない。だからその気持ちは、いつか出会う大事な人の為にとっておいてちょうだい」


 彼女の話を信じた訳じゃないのに、何故だか涙が止まらない。止めどなく溢れてくる感情の奔流は、わたしの視界を歪ませていくには充分過ぎた。

 ああそうだ。あの花火大会の帰り道に感じた嫌な予感は、このことだったのかと、今更ながら気づいた。


 大事な人なんて、あなたしかいない。そう言おうと口を開くが、「大事なのは……あれ?名前は?」

 私は愕然とした。目の前に立っている彼女の名前を口にしようとすると、名前が一切思い出せないのだ。


「どうして――」

「そろそろお別れの時間かな」

「やだ、お別れなんてしたくない!」


 肌で感じる――彼女が消えていくという恐ろしい現実に、自分が何歳なのかも忘れ、恥も外聞もかなぐり捨てて、名前を思い出せない彼女にすがり付く。

 どこにも行かせやしない。

その一心で抱きついた。


「大丈夫。今は辛くても、私が消えたら記憶の中の私も消えるから、辛いのは今だけだよ」

 あれほど大好きだったというのに、名前はおろか、彼女との思い出が砂時計のように記憶の深淵へと流れ落ちていく。

 止められない喪失感。

その喪失感すらも、次第に消えていく。

 私が抱いていた感情も、少しずつ少しずつ、記憶の海の中へと融けてなくなっていく――


「あの頃のとみえとは違う。もう私を必要としなくても前を向いて生きていける。私が保証するよ」


 何処かから聞こえてくる懐かしい声――


「やだ、やだ、やだ……」


「思い出すことはないけど、貴方が精一杯生ききったら、また会いに行くわね」


 すると、唇に何か柔らかいものが触れたような――

 消え行く世界で最後に目にしたのは、最後の最後まで恋い焦がれた、黒髪の女の子の顔だった。






 ずいぶん長い時間、夢を見ていたようだ。

 いや、ほんの一時だったかもしれない。

 どちらでもいいか、甘酸っぱい夢には違わない。


 外ではチチチと小鳥達がさえずり、鳴き声がする方へ首を動かすと、真っ白な梅花が満開に咲き誇っていた。

 主張しすぎず、だけど精一杯、白無垢の花を咲かせている。


 まったく……まるで淡い恋心のようではないか――

 それにしても、今日はいい天気だ……このまま眠っていたいくらいに心地好い。



「あら、もう寝ちゃうの?」



 おやおや、懐かしい顔だね。今日はまた随分と可愛らしい姿じゃないか。



「最後に、約束、守ってくれたんだねぇ」



「当たり前じゃない。大好きなとみえの為だもの」



「嬉しいこと言ってくれるじゃない。そうそう、話したいことがたくさんあるのよ」



「ええ、聞かせて。時間はたっぷりあるんだから」


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死にたがりの私はあなたを求める きょんきょん @kyosuke11920212

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