第7話

「あの人……噂の」

「ええ……喧嘩をしたんですって」


 ヒソヒソ、ヒソヒソと、校舎内ではとある噂話で持ちきりだった。

 何処へ行っても必ず誰かの視線が私を追ってくる。そんな日々が続き、独りを好む私にとっては神経をすり減らす毎日を過ごす羽目になっていた。


 その噂話とはもちろん私のことであって、田所さんに傷を負わせたとか、田所さんを泣かせたなど、何故か私が一方的に悪いといった内容のカゼネタがほとんどだった。

(多少は引っ掻き傷ができたかもしれないけど、それはお互い様なはずだ)

 女性徒から人気の高い田所さんの裏の顔なんて、取り繕った表の顔しか知らないフアンに取っては知るよしもないだろう。

 清廉潔白なお嬢様の田所さんがそんなことするはずない。だからアイツが悪いーーそんな予定調和とも言える構図が出来上がってるのだ。


 こんな物静かな人間を掴まえて、怒らせたら怖い女なんて不名誉な称号までいただいている訳であって、これまで少なからず苛めに加担していた同級生達は遠巻きにこちらの様子を伺っている。

 田所さんは、あれから私に話しかけてくることはなくなった。どうやら無視に徹することにしたらしい。

 小判鮫コザンザメ達も同様に私を空気のように扱っているが、私にとっては直接的な暴力が無くなっただけで万々歳の気分だった。

 むしろ私に手を出せなくなって無視をせざるを得ないのなら、それはなかなかどうしていい気分じゃないか。


 廊下を歩いていても誰も絡んでこない。教室にいても誰も嫌がらせをしてこないというのは、こんなに素晴らしいものなのか。

 入学以来の清々しさに、私は空も飛べるような気分だった。

 そんな浮かれた気分でいたある日、不幸は突然訪れた。


「なぁ。こいつでいいのかい?」

「ええ。さっさと懲らしめてやってちょうだい」

「お前が小倉ってやつか?お前に恨みはねぇが、ちっと面貸してもらうぜ」

 いつものように黒澤さんと帰宅していると、鎌倉女学園かまじょでは見ないような、典型的な不良達に絡まれてしまった。

 その不良達の後ろには、身を隠すように彼らに指示を出す女性――田所さんも控えていたことに気がついた。


 恐らくお礼参りのつもりで待ち伏せていたのだろう。それほどまでしで私に絡んでくる意味がわからなかった。

 向こうは全員で5人。男二人に女三人――それぞれから今まで感じたことのない鋭利な刃物を喉に突きつけられたような、そんな鋭い視線で睨みつけられた私の膝は誤作動でも起こしたように震えが止まらなかった。

 いつのまにか周囲を包囲され、逃げ場を無くした私はこの場に関係の無さそうな黒澤さんだけでもこの場から逃がしたく、彼女の前に立った。

 本当は怖いけど、恥ずかしい格好は見せたくなかった。

 それに、私が原因で彼女にまで迷惑をかけたくなかったから。


「あ、あの、彼女だけは帰してやってください」

「うっせぇんだよ。口開くな」


 バチン


 全く面識もなければ、恨みを買った覚えもない女に鋭いビンタを貰った。

「そんなの小倉さんに言われなくてもわかってますわよ。最初からあなただけが目標なんですから」


 ああ、きっと調子に乗っていた罰があたったんだ……。

日陰者が調子に乗って、黒澤さんという太陽を目指して飛ぼうとしたから、羽が溶けて落ちていくんだ。

 何処かで聞いたような陳腐な終わりかただなと思って、そんな自分がおかしく笑ってしまった。


 ――はは。


「なにがおかしいのかしら?本当に気持ち悪い人ね」

 彼女を帰らせてあげなさい。と、声をかけられた一番の大男が黒澤さんの腕を掴んでその場を離れさせようとしたその時――

 大男の体はぐるりと回転し、黒澤さんの足元に頭から崩れ落ちた。

 華奢な女性の妙技に、その場に居合わせた全員は何が起きたかすぐに理解できず、数秒は時間が止まったように誰も声を発することが出来なかった。

 投げ飛ばされた大男は、哀れにもなすすべなく気絶しているように見えた。


「ちょ、ちょっと黒澤さん。あなた何してますの」

 やっと事態を飲み込めた田所さんは、目の前で起きた現実場馴れした光景に声を裏返す。私も何が起きたのかわからなかった。

「だって、富江を傷付けようとしてるんでしょ?なら、許せるわけないじゃない」

 いつもと口調は変わらないはずなのに、黒澤さんの声は辺り一帯が真冬に戻ったと勘違いさせるほどの冷たさで、その目は鼠を狙う猫のように研ぎ澄まされていた。


「コイツ、調子に乗りやがって」

「ちょっと可愛いからって舐めてんじゃないわよ!」

 目の前の少女が驚異だと感じた男二人は、私から黒澤さんに敵意を向け二人同時に飛びかかったが、まるで赤子の手をひねるかのようにひょいひょいと投げ飛ばされてしまった。

 残った女二人は、何も出来ずに地面に突っ伏している仲間を見るなり、顔面を青くして立ち去っていった。

 かくいう私も、その異様な光景には信じられないという気持ちが沸いていたけれど、それ以上に優雅な舞を目の前で見たような、何処かふわふわとした気持ちで彼女を見ていた。

はっきりと彼女に心を奪われたと自覚してしまった。


 胸が熱く、鼓動がうるさく、自分が自分ではないみたいな――何事もなかったように、熱気を帯びた風にたなびく黒髪を抑える彼女は、「起きないうちに帰りましょう」と、私の手を引いて眩しい太陽に向かって歩き出した。


「あの、黒澤さん」

「美知子」

「え?」

「富江って呼ぶから美知子って呼んでよ」

「え?え??」

 先程の一件で聞きたいことがあったのに、まさか呼び捨てで名前を呼んでくれなんて強要をされてしまった。

 確かにさっき呼び捨てにされたのは、嬉しかったけど……私から美智子なんて呼ぶのは恥ずかしすぎて、顔から火が出そうだった。

 でも、彼女が珍しく求めてきたんだから応えたい。なけなしの根性を振り絞って、私は彼女の名を呼んだ。


「み、みち、みちこ……」


 あはっ。

 彼女は満足したらしく、夏の草花も霞むような、何処までも透き通った笑顔を私に見せ、何度も何度も、飽きることなく「とみえ」「とみえ」と繰返し私を呼んだ。

 それはほんの些細な、だけど、とてもキラキラした時間だった。

 こんな時間がいつまでも続けば良いのに――私がそんな願いを抱いてることに、貴女は気づいていますか?


「あら、血が出ているわよ」

「えっ?どこ?」

 ひとしきり笑った彼女は、私の顔を見て傷を負っていることに気付き、そっと手を伸ばす。

 さっきビンタされたときに引っ掻かれたのだろうか、手で確認しようとすると、その手を握りしめられ、なんでもないかのように自らの舌でペロっと舐めてきたのだ。

 舌の吸い付くようなざらつく感触に、私の体には未知の刺激が走った。


(な、な、な、なにされたの??)


 突然すぎる黒澤さんの行為に、まるで金魚のように口をぱくぱくさせるしかなかった私に、「ごちそうさま」と言い残してその場を去っていく彼女の後ろ姿は、どんなに追っても手に入らないような太陽のように見えた。


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