月に葬る

夢見里 龍

月に葬る

 星のない晩だった。

 雲が細く流れる紺青の帳に月ばかりがこうこうと輝いていた。

 透きとおるような月あかりだけを頼りにわたしは荷車を押し転がす。緩い坂が続く山間の道に車輪の音が響いた。ふるびた荷車はそれだけでも重い。それがいまは何十倍もの重さになって、わたしのからだを押しかえしてくる。黒いパンプスのつまさきを踏ん張りながら草の根に車輪を取られないよう、神経をとがらせる。つまづいて、荷車が横倒しにでもなったら取りかえしがつかない。

 森はうっそうと静まりかえっている。いつもならば騒がしい蛙も木葉梟もいまは呼吸をひそめていた。

 段々と心細くなってきて、息ぎれのあいまで細く歌いだす。


「笹の、葉……さぁら、さら」


 とっくに夏だというのに、指の先端が凍えていた。重苦しい黒一色の服は見かけほどには暑くはない。汗ばむとおもって、ジャケットを脱いできたのは失敗だった。


「軒端に、ゆぅれ、る」


 七夕は二週間も前に終わってしまった。そもそもおとなになったら七夕なんかそれほど気に掛けない。せいぜい町の飾りつけをみて、そっか、もうそんな時期かと思いだすくらいだ。

 短冊に願いごとはこどもの特権だった。


「お、ほし、さま……きぃら、きら」


 小学生の頃に願いごとを書いた。双子の姉と一緒に。

 双子といっても二卵生だから似てない。姉はわたしなんかと違って頭がよくて、はきはきと喋り、背もすらりとしていて、とても素敵なひとだった。肌なんかはなにもしなくても白木蓮のはなびらみたいにしっとりとしていて、あわい頬紅がぱっと映えるのだ。睫毛はちょっとばかりみじかくて、けれど眠っているときに覗きこむと絡まらずに重なった睫毛のかたちがとても奇麗だった。

 それに姉は、きちんとなにかを決められるひとだった。これがいい、これにするというときの唇の動きがなめらかで敏捷だったのを、わたしはいつも憧れのまなざしで眺めていた。

 わたしは昔からなにかを択ぶのがにがてだった。決めるのも、にがて。択んでしまった後のことを考えると択ぶそばから、そわそわしてしまうのだった。

 だっていったん択んでしまったら他のものに択びなおすことはできない。いちごに決めてしまった後でやっぱりみかんがよかった。というわけにはいかないけれど、なやんでいるうちはどちらもわたしのものなのだ。

 ひとつを選ることは、もうひとつを潰してしまうことだ。

 それは、とてもこわいことで、いつまでも択ばないほうがわたしにとっては幸せなのだった。たとえどちらも得られないままだとしても。


「きんぎん、すな、ご」


 だから、小学生のときに教室で書いた七夕の願いごとも、姉は迷わずにすぐ書き終えた。わたしはなやんで、なやんで、予備の短冊までつかって、やっとのことでペンに蓋をした。

 姉の願いごとはこうだった。


 妹とずっとなかよく一緒にいられますように。


「あなたはなんて書いたの、いっぱいなやんでいたみたいだけれど」とたずねられて、わたしはおずおずと短冊を差しだした。


 姉とずっとなかよく一緒にいられますように。


「なんだ、おんなじじゃない」と姉がわらった。「双子だもの」とわたしもはにかんだ。もうひとつの願いごとを後ろに隠して、静かに握りつぶしながら。


 あれから十五年経った。わたしも姉も笹に願いごとを飾る年齢ではなくなってしまった。願いごとがかなわないことも知ってしまった。

 荷車を押して、最後の坂をのぼり終えた。

 割るように森が拓ける。つゆ草の咲き群れる野原に月がまぶしいほどに明るかった。ところどころに揺れるのは月見草だ。月の光をたっぷり吸って咲いた月見草は花そのものがぼんやりとひかっている。一輪摘めば、きまぐれに雲が月を隠しても帰り道にはこまらないくらいには。

 野にひとつ踏みだせば、足頚にさわさわと野草が触れた。馨りたつような月影を頬に享けながら、わたしは細く安堵の息を洩らす。

 ああ、今晩が満月でよかった。

 野の中程に荷車をとめて、荷台に掛けられた蓋いをいっきに剥がす。なかには円形のおおきな木桶と、そこに膝をまるめて横たえられた――――


「姉さん」


 奇麗な、姉の死体があった。

 無垢な経帷子をまとい、まるで静かに眠っているかのように睫毛をそろえている。けれども冷えた指でその頬に触れても、暖かみは感じられない。唇が動くことも、ない。


「姉さん、ずっと一緒にいられるようにってお願いしたのにね。いつも姉さんがわたしをおいていっちゃうんだね」


 細く、細く、糸を垂らすように語りかける。責めるようにいいながらも声は穏やかだ。だってわたしは怒っていない。姉のすがたを映す瞳は、悲しいほどに乾いている。

 ずっと一緒にいるのだとおもった姉が、離れていったのは五年前のことだ。姉は親に相談することもなく都会の大学に進学を決めた。当然まわりは反対した。けれど彼女はひと度決めたことは決して譲らない。

 そうして彼女は都会にいき、わたしだけがここに残された。

 わたしは親の勧めもあって大学にはいかず、ふたりの経営する料理屋で働いている。

 姉が帰ってきたのは今年の春のことだった。都会の洗練されたふんいきをしゃなりと纏い、ますますに美しくなった姉は、ひとりではなかった。腕に赤ん坊を抱き締め、隣には見知らぬ男を連れていた。

 結婚したのと、姉はいった。

 わたしはそのとき、彼女の唇だけをみていた。うす紅に縁どられた唇が軽やかにまわる。

 けっこんしたの、ケッコンしたの、結婚したの……両親や昔ながらの知りあいのひとたちが怒るやら喜ぶやらで大騒ぎする様子を、遠巻きにぼうと眺めながらわたしは、握りつぶした紙の感触を想いだしていた。硬い紙の折れ目がてのひらの柔らかなところに刺さる、鈍い痛み。傷にもならない、痛み。


「ねえ、なんで姉さんはいつも、そんなふうにかんたんに択べたの。択ばれなかったほうがどんな想いをしていたのか、考えたこと、あった?」


 沈黙。沈黙。わかっている。


「……いいの、訊きたかっただけだから。それにもう、いまはふたりきりなんだもの。ここにはわたしと、姉さんのふたりだけ」


 死んだ姉の髪を梳き、頬に散らばったそれを耳の縁に掛けてやる。左前の衿が悲しい。彼女は遠い都会にいき、今度はもっとずっと遠いところにいってしまった。


 姉は一昨日の晩に亡くなった。帰郷してから約一週間余り。急死だった。

 わんわんと泣き続ける赤ん坊を抱き呆然とする、姉の連れてきた男の顔はあんまり憶えていない。脳梗塞だとか心筋梗塞だとか、医者はいっていたが、それも憶えていない。どちらもどうでもいいことだった。

 姉は死んだ。それがすべてだ。

 あとは彼女をどう葬るか、だった。

 親族はもちろん実家の墓にいれるといった。このあたりは昔ながらの土葬だ。棺桶にいれて、土に埋める。後は腐るに任す。男は火葬にして都会にある彼の実家の墓にいれるといった。そのほうが赤ん坊がおおきくなったときにも墓に参りやすいからと。

 みなが雑然と言い争うなか、だめですと声をあげたのはわたしだった。その声は異様なほどに徹った。鼓膜に触れたそれは、姉の声と聞き紛うくらいだった。


 姉を、勝手につれて、いかないでください。


 日頃からおとなしくて主張のないわたしがはっきりと拒絶を表すとはおもわなかったまわりのひとびとは驚いていたが、すぐにそうだそうだと騒ぎだした。姉はこの土地の人間だ、だからここに埋めるべきだと。

 死んでしまったとはいえ、姉がまた都会にいくなんてぜったいに嫌だ。けれどわたしは、ここに彼女を縛りつけたかったわけでもない。こんな寂れた町は姉にはふさわしくないことも知っていたから。だから都会にいくといったあなたを、わたしだけは喜んで送りだしたのだ。 

 姉さん。あなたの翼を折らないから、誰にも折らせないで。

 ずっと、そう、願っていた。

 だからこそ結婚したといわれたときにがく然とした。姉の翼を折ったのはいったい、誰なのか。姉は誰に、その捷い翼を折らせたのか。例えばそれが、恐ろしく凶悪なものならば、わたしは許せたかもしれなかった。荒れた海のように激しく、うねり、猛るものならば。

 なのに、姉の隣にいたのは冴えないただの男だった。眼鏡をかけて、ちょっとばかり猫背で、全然都会らしくもない。けれど男、だ。男だったのだ。


 だから、わたしは決めた。

 姉を月葬げっそうにすると。


 土葬がはじまるまでは、このあたりではずっと月葬だったという。いまではもう月葬を望むひとはめったにいない。みんな故人の骨やら墓やらを遺したがるから。

 月葬はなにも遺さない葬式だ。だから廃れた。

 けれどもわたしの祖母がこの月葬を希望したから、一度だけみたことがあるのだ。どうすればいいのかも、そのときにちゃんと調べた。 

 姉の葬式がはじまって、わたしが夜伽をするといった。夜伽とはいわゆる、寝ずに故人の側につき添うことだ。寝ずの番ともいう。みんな疲れていたし、わたしが姉を慕っていたことは知っていたので易く承諾してくれた。みなが寝静まったのを確かめてから、わたしは姉の死体を持ちだした。

 これまで悪いことなんかしたことのなかったわたしは、背徳感にぎゅっと胸が縮んだ。フランス映画の禁じられた遊びは埋葬ごっこだった。あのオルゴールの旋律が頭のなかに溢れた。けれども背筋が痺れるような快感もあった。ずっと誰かに決められて、そのとおりにしてきた。

 だけれどこれは、わたしが決めたのだ。


「ね、ふたりだけのお葬式をはじめようか、姉さん」


 姉が横たえられた円い桶のなかにとぽとぽと水をそそいでいく。喪服の袖がちょっとだけ濡れた。白木の桶がぬるい水で満ちる。髪がぶわあとうねりながら浮かびあがって、白紙にうす墨を流したような観世水模様を画いた。最後の雫が拡げたさざなみが落ちついて、水の表が鏡のように静かになると。

 月が降りてきた。

 ぽっかりと桶に収まった月は遠い空で輝いていたときよりもやわらかく、青かった。

 月は動かぬままに女のまるい額をなぜて睫毛の先端に接吻をする。頬をなぐさめ、呼吸のない鼻さきを愛おしむ。濡れた経帷子が張りついた肩さきに掛かり、わき腹をたどりながら腰に。あたかも峰々の緩い稜線を夜毎になぞっていくように。

 月が姉を擁いた。


 あ、はじまった、とおもった。


 姉の肌に月が宿ったみたいに濡れた絹の張りついた細い身体の輪郭が、ぼうと果敢なく輝きはじめた。青白い光が経帷子の白絹を透かし、素脚の緩い曲線を際だたせる。成熟した女のからだ。けれどもまるまった膝頭の幼けなさはその昔、母親に叱られて押入れに閉じこめられたときと変わらない。わたしだけが知っている。

 幼い頃から母に叱られるのはいつだって姉だった。門限を破った。自転車のふたり乗りをしていた。郭公の雛を拾ってきた。けれども怒られるときにはいつだって、わたしも一緒だった。唇をとがらせて、姉は最後の最後まで「でも」「だって」と勇ましく反論したが、けっきょくは押し入れに閉じこめられて終わる。

 あなたは関係ないじゃない。黙っていれば怒られたりしなかったのに、なんで。と暗がりのなかで非難めいたまなざしをむけてくる姉に、わたしはまだ泣きやまずに嗚咽を溢しながら「だって」といった。


 だって、姉さんが好きなんだもの。

 怒られるのだって一緒がいい。


 そういうと姉は急に黙ってしまった。眠っちゃったのかなと思いはじめた頃になって、姉はぽつんといった。


 私も好きだよ。


 真横からするりと華奢な腕が伸びてきて、やさしく、頭をなぜてくれた。髪を梳いてくれる指がとても暖かかったのを憶えている。嬉しくて、嬉しくて、きゅうと胸のあたりが傷んだ。わたしの「好き」と姉さんの「好き」がまったく違うものだったなんて、きっと、思いもしなかったのでしょう。

 だからあんなに遠くまでいってしまったのでしょう。それとも知っていたの。わかっていて、距離を取ったの。

 触れることはできないから視線でゆっくりと、その曲線をなぞる。水底に横たわるしなやかな脚。ひき締まっているのに張りのあるふくらはぎの力強さと、きゅうと締めあげられたような足頚の頼りなさ。こんなにも細い脚で、彼女は何処までもいってしまった。

 吸い寄せられるように水鏡に人差し指を浸けかけて。


「あ……」


 光が。

 姉を擁する光がひとつ、ふたつと、みなもから舞いあがる。ほたるが燃えたつように。あるいは燃えつきるみたいに、妙なる光の群はゆらゆらと月に昇っていく。

 つられて振り仰げば、青くさえ渡る満月に眩んだ。

 地上の死をことごとく吸いあげてきたかのような静謐な光が巡り巡っていま、わたしの額にそそがれる。香油を施すように。月のまわりには縹渺ひょうびょうたる光のが架かり、細く刷毛でなぜたような雲にうす紫がかった虹を映していた。

 雲のかなたまで光の群は舞いあがる。

 その度に姉のからだはほろほろと端から順に崩れていった。土に腐ることもなく、火に焼かれることもなく、姉は月に融ける。


 これが月葬だ。

 

 脚はすでになくなっていた。絹の裾だけが所在なさげに水際を漂っている。まるで人魚の尾鰭だ。白い人魚。続けて奇麗に切り揃えられた爪が崩れ、腕が透きとおる。髪の掛かっていた耳の縁がほろほろと融けて、水際に拡がった髪が端から燃えるように青く光りだす。雪原に咲き誇るさざんかのように気高い姉の唇だけは、水底にあってもまだ、うす紅だった。けれども時が経つにつれて紅は崩れ、月影に蕩けだす。

 ぽっかりと、呼吸をやめた姉の唇から光のたまが浮かびあがった。あでやかに綻んだその青ざめた光にわたしは、そぅと唇を寄せる。

 一瞬の、接吻。

 感触はない。熱もない。それでもわたしの唇は歓喜する。ほんとうはずっと、こうしたかった。敏捷なこの唇を塞いでしまいたかったのだ。


「ねぇ、姉さん。あのとき、わたしが七夕の願いごとにほんとうはなんて書いてたか、知らないでしょ」


 択ばずに握りつぶしたもうひとつの願いごとを十五年の時を経て、披こう。


「わたしね、姉さんのお嫁さんになりたいって書いたんだよ……」


 言葉にすればいまさら、泪が溢れた。

 こぼれた雫が水鏡を乱すことのないように喪服の袖でふき取り、泪をとめるために空を仰ぐ。指を組んで、瞳を瞑り、星ではなく月に願いを掛ける。産まれかわったら、なんて言わない。そんな叶わないことを望んだりはしない。


 だからどうか、もっと遠くにいって。せめて、ずっとずっと、遠くに。

 側にいてくれないのなら誰も追い掛けられないところまで。


「好きだったよ、姉さん」


 おんなとして愛していた。

 

 最後に残っていた薬指が、月に融ける。

 姉は青く燃えながら昇っていった。後には白無垢のような帷子がゆらゆらと淪に漂うばかり。

 

 ……そのはずだったのに、水桶の底にからんとなにかが、落ちた。

 驚いて視線を落とせば、それは結婚指輪、だった。月蝕の環みたいな銀の指輪が空っぽになった水桶の底できらきらと輝いている。ぜんぶ棄てて、いってくれたのか。ひとつだけ、遺していったのか。

 わからない。ただ、こらえたはずの泪がとめどなく溢れてきた。ほたほたと顎から滴る雫が水鏡を砕いていく


「あ」


 割れないでと、縋るように指を差せば、そこに映る月はこなごなに壊れた。

 

 わたしが月に葬りたかったのは姉ではなく、きっと――――……


 ひと際強い風が吹きつけてきた。月見草がそよいで草の海に浪が渡る。砕けた月から視線をあげて頭上を仰げばまた、月。青ざめてまばゆい、久遠の白は死んだ愛の素肌に似る。決して触れられない。水鏡に映したとしても。

 遠くからざわざわと、潮騒が押し寄せてきた。いたぞ、なんてことを――透きとおる静寂を踏み荒らして声のかたちをした怒涛が迫ってきても。


 わたしはいつまでも、いつまでも。

 月を仰いでいた。

 

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