最終話 さようなら、〈いばら姫〉

 そこは、ベルフォートとエレオノラの二人が幼少期を過ごした子ども部屋だった。

 床から天井までの大きな窓にかわいらしいカーテンがかけられて、小さなベッドが二つ、行儀よく並んでいる。今は使われていないためか、マットやシーツは敷かれていない。いくつかに区切られた棚には、おもちゃの入った籠や絵本、それに勉強のための本も置かれていて、傍には小さな机と椅子が二揃え、服をしまうワードローブも二揃え、それぞれ並んで置かれていた。


 その部屋の中央で、クリスハルト王とドロテア王妃が、幼い姿のエリーと連れ添うようにして佇んでいた。


「おねえちゃん!」


 部屋に入って来たキリルを見るなり、エリーはパッと顔を輝かせた。キリルも口の端を上げてそれに応える。


「エリー。久しぶりだな。いい子にしてたか?」

「父様と母様とも、たくさんお話できたのよ。もちろんベルともね」

「そりゃあよかった」


 抱き着いてきたエリーを受け止め、キリルは王と王妃の二人を見た。


「心の準備は出来てるな」

「ああ。……抱きしめることは叶わなかったが、それでも、もう一度会って言葉を交わせただけで奇跡だ」

「娘にまた会えるなんて……本当に、何とお礼を申し上げればよいか……」


 ドロテア王妃は目を真っ赤に泣きはらして、上品なハンカチでしきりに目元を押さえていた。それでも綺麗な人は綺麗だな、とキリルは口に出さずに思った。

 エレオノラの姿をとってはいても、あくまで魔法である彼女は実体がない。触れられるのは魂を知覚できるキリルや、強力な魔法を操る魔女や賢者くらいで、たとえ実の両親でも王や王妃はエリーに触れられないのだ。


「そろそろ眠ろう、エリー。こっち来い」


 キリルは小さなベッドに腰かけて、エリーを誘った。エリーは駆け寄ってキリルの膝に乗ると、くたっとその身をキリルに預けた。

 ベッドの前に膝をついて見守る両親と双子の兄を、エリーはガラス細工のような綺麗な目で見上げた。


「おやすみなさい、父様、母様」

「……ああ、ゆっくりお休み」

「疲れたわね。あなたは自慢の娘よ。……安らかにお眠り、私のかわいい子」

「うふふ」


 嬉しそうに笑って、エリーは最後にベルを見た。


「おやすみ、ベル」

「うん。おやすみ、エリー」


 最期にとびきりの笑顔を見せて、エリーは目を閉じた。それに合わせてキリルも目を瞑って、眠りの世界に落ちていった。

 しばらく二人はすやすやと寝息を立てていたが、やがてエリーの姿がしゅるしゅると茨に変わっていき、こぶし一つくらいの大きさの塊になって、ぽとりとキリルの膝の間に落ちた。エリーの魂が旅だったことを悟った三人は互いに肩を寄せてすすり泣いた。

 涙を袖で拭ったベルは、優しい声で呟いた。


「……さようなら、エレオノラ。おやすみなさい、いばら姫」


 それは、この世で一番美しい響きをもって、星の輝く夜空に届いた。






  * * *






『――……ごきげんよう。午後三時のニュースのお時間が参りました。当ラジオ局パーソナリティのイーヴォ・クラウスナーが、皆さまにホットなニュースをお届けします』


「三時? もうそんな時間か」


 棚に置かれた木製のラジオから軽快な音楽が流れ、作業台で乾燥させた薬草を束ねていた男がハッと顔を上げた。緩く波を描く灰色の髪を蔦やヒイラギの葉を絡めてまとめ、髪のあちこちに白い小花を散らし、齢は三十半ばを超えた程に見える。男はうーんと伸びをして凝り固まった肩をほぐし、出来上がった分を薬棚に仕舞っていった。


『――……それでは次のニュースです。旧アイゼンブルク帝国の崩壊から二百年を記念して行われる式典に、ザイツ国のラングハイム首相が出席の意向を示しました……――』


「帝国崩壊から二百年ってことは……たしかアウレリアの件から五十年ぐらいでクーデターが起こったんだから……そっか、あれからもう三百年も経つのか」


 最後の分を納めた引き出しをカタンと閉めて、男がぽつりと独り言ちた時、不意にガチャリと戸口が開いて、温かい家の中に冷たい空気が入り込んだ。

 男は振り返ってしかめっ面を作った。


「遅いじゃないかよ。ったく、自分で指定しといて遅れるとはどういう了見だ!」

「遅れてねえだろ。……三日ぐらいしか」

「それは遅れたって言うんだよ! 相変わらず常識のない奴め!」


 叫ばなければ耳に優しい滑らかな声を持つ男は、罵りながらも家の中へ女を案内して卓に座らせた。何なら淹れたてのお茶を出してやるほどの面倒見の良さだ。


「ユルギスなんかはちゃんと時間通りに来たぞ。お前がまだ来ないって言ったら『やっぱりな』って笑ってたけど」

「あいつはあたしのことをよく分かってるね。お、この茶美味いなスヴェン」


 そうだろうと口の端を上げると、翠色の目がすうっと細くなった。細い金縁の眼鏡は目の色によく似合っている。四十近い年の頃に見える彼が、実は四百歳近い魔女だと知る者は少ない。


 その数少ない一人である女は切れ長の目を部屋中に巡らせた。丸太で出来た家はあちこちから薬草がぶら下がり、窓の外では屋根から溶けた雪がぽたぽた垂れ落ちて、春の訪れを知らせている。熱々のストーブでは薬缶から湯気が絶えず立ち昇る。ストーブ近くに作られた薬師の作業場には、乾燥した薬草のぎっしり詰まった薬棚と、作りかけの軟膏が置かれた作業台、資料が整然と並ぶ書棚が置かれていて、書棚には様々な国の言葉で書かれた医学書の他に、何故か古い旅行記シリーズも混ざっていた。


「へえ、懐かしいな。ベルの書いた本じゃねえか」


 旅行記を手に取って、懐かしそうに表紙を撫でる。本を開くと最初の一頁に著者のサインと「永遠の友、スヴェンへ」という綺麗な字のあて名書きが記されている。三百年近く前に数十年にもわたって続けられたこのシリーズは、世界中の国や土地の様子が両親や友に宛てた手紙形式で綴られた旅行記で、作者の嘘か本当か分からない不思議な出自も相まって、現在も広く人々に親しまれている。


「へへ。何回かあたしも出演してんだぜ。たまに一緒に旅したからな」

「謎の友人“キリル”が出る章は何故か毎回作風変わっちまって、旅行記っつーより“冒険活劇”になってるって評判だぜ。コアなファンがいるらしいけど」

「なに。あたしのファンが世界中に?」

「馬鹿。一部だ、一部」


 ケラケラと可笑しそうに笑いながら本を棚に戻してテーブルに戻り、女はもう一度部屋の中を見回した。


「そんで? ユルギスの姿が見えねえんだが」

「庭に埋めた“欠片”を掘り出しに行ってくれてる。すぐ来るさ」

「なんだい、待たせるねえ」


 自分のことを大いに棚に上げておきながら、女は愉快そうに両耳にぶら下げた真っ青な鱗の耳飾りを揺らして笑った。頬杖をつく手には、銀の台座に綺麗な蒼い石の嵌まった指輪が光る。女ながらに引き締まった顔つきで、目元の皺や筋張った喉元がスヴェンよりも年齢を感じさせる。

 スヴェンがラジオのスイッチを切り、女が熱い茶をぐいっと飲み干したと同時、家の扉が開いて三人目が入って来た。黒髪に白いものが混じるが、深く蒼い目と右目下に連なる二つぼくろが知性を感じさせる、初老の男だ。彼は女を視界に捉えるや、嬉しそうに顔を柔らかくした。


「キリル。元気そうだな」

「お陰さんでね。おおっと、ハグはナシだ、そこの魔女の坊やがたじたじンなっちまうだろ」

「坊やって歳じゃないぞ……まあたしかに、キリルの言う通り、イチャイチャするのは他所よそでやってくれ、ユルギス。とにかくさっさと終わらせようぜ。何せかかった大仕事だ」


 頷いたユルギスは、上着を戸口横の釘に引掛けて自分も卓につき、庭から掘り出してきた瓶を木製のテーブルの中央に置いた。その中では、かつてはこぶし大だった茨の塊が、小さな草きれ一つになって、瓶の底で転がっていた。




 〈茨の魔法〉に閉じ込められていた魂たちをすべて解放した後も、魔法そのものは消えなかった。茨の塊はそのものに膨大な魔力が込められていて、依然強力な“拒絶”の力を発揮していたのだった。

 「元は賢者の魔法だ」と、正式に賢者となったユルギスが吸収しようとしたのだが、長い時間を経て変質してしまった〈茨の魔法〉は元の主ですらも拒絶してしまった。そこで、魔法やまじないに深く関わる賢者と魔女たちの間で議論した末、竜人であるキリルに任せるのが良い、ということになった。


「軽いはずみでベルを連れ出したつもりが、まさかこんなに長く付き合うことになるとは思わなかったぜ」


 お茶のおかわりを啜りながら、キリルが感慨深げに言う。


「茨の塊をちょっとずつほぐして、ほぐれた欠片を世界のあっちこっちに埋めに行ってさ。飽き性のあたしがよくここまで続いたもんだ」

「その間、結構好き放題やってたろ。冒険家として一躍有名になってみたり、かと思えば借金取りに追われてたり……せっかくベルと王様から報酬二重取りに成功して、向こう百年は遊んで暮らせるくらいだったっていうのに、どうやったら借金なんか作れるんだよ」

「あたしほどの女になれば、それくらい訳ないのさ」


 手を洗って戻ったスヴェンが呆れつつ、テーブルについたのを見計らって、キリルは瓶を手に取って蓋を回し開けた。キリルの怪力でもって十二分に密封された瓶が、同じ人物の手によって、再び封を解かれる。


 魔法を無効化するキリルの力で、ゆっくりと時間をかけて〈茨の魔法〉の拒絶を解き、世界中に魔法をちりばめて、世界そのものに魔法を吸収させる計画。その最終段階は、残った魔法の残滓をキリルが飲み込んで消すことだ。

 前例のないことで他に方法が見つからなかった。各地に埋めた茨の欠片が特に異変を起こしていないところを見るに、賢者と魔女たちの思惑は上手くいったと捉えて差し支えなかろうというのが、最後の魔女スヴェン最後の賢者ユルギスの共通見解だ。


 そして、「これが“理の調停者”としての最後の仕事だろう」と三人は考えていた。竜はまだどこかで生きているが、その数は減り、力を振るうこともなくなった。かつてはどこにでも溢れていた精霊たちは魔女の前からすら姿を消した。世界の中に溶け込んだのだろうとスヴェンは考えている。科学を発展させた人間たちの魔法は廃れ、今では魔法を使える者を奇異な目で見るようにさえなった。


 もう世界は調律者を必要としていない。世界は調律者の手を離れ、自分で回り出した。これが終われば本当に、三人は“竜”“魔女”“賢者”という役割を果たしきることになるのだ。


 瓶を逆さまにして、残った最後の茨の欠片を取り出す。短く細い茨ながら、ちゃんと二本生えている棘が、残る拒絶の力を感じさせる。

 やや緊張したような、神妙な面持ちでそれを手のひらに乗せて、キリルはスヴェンとユルギスを見た。同じ表情を浮かべる二人が揃って頷いたのを見て、キリルも頷き返した。

 ストーブの中で火が爆ぜる音が、薬缶がシュンシュンと湯を沸かす音が、窓の外で雪解け水が落ちる音までが、耳にハッキリと届く中、キリルは手のひらを口へ持っていって、茨の欠片を放り込んだ。喉をチクリと棘が刺す、その痛みごとキリルは飲み込んだ。


 目を閉じる。世にも美しい金の髪の王子が、キリルに笑いかけてくる。

 忘れっぽいキリルは、もうほとんどベルの顔を思い出せない。ただ、キリルが出会った中で一番美しい青年だったことだけは覚えている。まるで本物の金を細く梳いたような髪はよく光を集めて、ガラス玉のような淡いブルーの目玉はキラキラと光を反射させる。ベルの周りはいつも光って見えたなと、時々キリルは思い出す。


「――……あんたの望み通り、これでようやく殺せたぜ、ベル」


 時の彼方に消えゆくばかりの友に向かって、キリルも笑い返した。











* * *



「さようなら、いばら姫」


 完

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さようなら、いばら姫 奥山柚惟 @uino-okuyama

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