[エピローグ] 聴いて! あたしの本当のソプラノ!

「いまのところ、目立った後遺症はないみたい」

「よかったぁ」

 あの嵐の夜から一か月。

 すっかり夏になって、見上げると空は一面、ソーダ水みたいな素敵なブルー。

 病室の窓から見上げる空も、もう明日で終わり。

 お母さん、やっと退院できるって。

 あの夜、聖弥くんのお母さんは、ハウスの補強を終えて戻ってきたお父さんに肩を抱かれて、うなだれたまま帰っていった。

 ちょっとかわいそうだったけど、でも、負けてらんないもん。

 あたしが淹れた熱いお茶を飲んで、「いいお茶」って小さく言ってたな。

 一緒に、自慢の特製ジャムをクラッカーに乗せて「どうぞ」って差し出したら、ちょっとあたしを睨んだあと無言で口に運んで、それからなぜか急に泣きそうな顔になってた。

 結局、聖弥くんは、またあのアパートで暮らすことになった。

 でも今度は、寝泊り以外はほとんど我が家に居るんだけどね。

「お母さん、田中さんとこのイチジクが売店に出てたよ? 買ってきたけど、食べる?」

「いいね。もらおうかなぁ」

 翌日、翔太のお父さんがいろいろ話してくれた。

『ノブちゃんが聖弥くんのお母さんだったなんて、まったく知らなかった』

『ノブちゃんは、俺の同級生だ。もちろん日向ちゃんのお母さんとも。まぁ、みんなこの田舎町で生まれ育った、幼馴染みってやつだな』

『宝満農園の隣、聖弥くんが住んでたアパートがあるあの敷地は、ノブちゃんの実家だったんだ。母屋はもうないけど、残っているあのアパートがもともとは離れでな。一階が納屋で、二階が子ども部屋だったんだよ』

『ノブちゃんとこは稲作農家で、宝満農園はまだそのころは養鶏場だった。とても仲がよかったらしい』

『俺たちは高校を卒業しても地元に残ったけど、ノブちゃんはすぐに都会へ出て行ってしまった。よほどこの田舎が嫌だったんだろう。だから、その後の彼女のことはまったく知らなかったんだよ』

『三条社長が、少しだけ彼女のことを教えてくれた』

『彼女、三条社長とは東京の職場で出会ったみたいだな。彼は隣の政令市に本社がある「三条建設」の御曹司で、当時は次期社長としての武者修行中だったそうだ』

『そこでふたりは結婚して、三条社長が社長職を継ぐタイミングで地元へ戻って来て』

『ノブちゃんは、本当は戻って来たくなかったみたいだな。でも、三条社長はどうしても社長を継がなきゃいけない』

『そこで三条社長は、すでに一部の計画が始まっていた住宅地開発計画を拡大して、ノブちゃんが気に入る街を作って、そこに新居を構えるってノブちゃんに約束したらしいんだ』

『そして、そのときノブちゃんが言った願いは、この街を東京の高級住宅街のような上品で華やかな街にして、自分の過去をぜんぶ消し去ってほしいってことだった』

『それが、この街で突然起こった、「星降が丘」の造成計画だったんだ。町議会まで巻き込んで、三条建設がこの街をまったく違う街に変えようとしたんだ』

『でも、そうはならなかった。宝満農園が頑張ったからな』

『それから、ノブちゃんの不完全燃焼は、ひとり息子の聖弥くんへと向いていったってわけだ』

『聖弥くんをスターにして、ステージに立つ彼の隣にその母親として立つ……、それが彼女の夢になっていったらしい』

『それがエスカレートして、彼女、ちょっと病んでしまったみたいで。それがいろんなトラブルを生んで……』

『あの、聖弥くんが使っていた部屋、実はノブちゃんの部屋だったんだよ。彼女、あそこから毎日、宝満養鶏場の庭を眺めていたんだ』

『いや、俺、高校入る前まで、ほとんど毎日、宝満家へ遊びに来てたからな。だから知ってるんだ』

『俺が日向ちゃんのお母さんと縁側でスイカ食ってたり、庭でキャッチボールしてたりすると、すごく恨めしそうに見下ろしててな』

『まぁ、もしかしたら、ちょっと寂しかったのかもしれんな』

 そうだったんだ……。

 聖弥くんのお母さん、もしかしたらあたしと同じように、自分のことがすごく嫌いだったのかもしれない。

 農家で育った自分の過去を消して、家も納屋も街ごと消して、新しい自分になりたかったのかもしれない。

 それにしても、翔太のお父さん、毎日、お母さんに会いに来てたんだね。

 縁側でスイカ食べたり、庭でキャッチボールしたり。

 もしかしたら、お母さんのこと好きだったのかな。

 でも、お母さんがお父さんと出会って、お父さんが養鶏場を継いでからも、翔太のお父さんはずっとお母さんのいいお友だちで居てくれたんだ。

 なんか、とっても素敵。

 あ、ひょっとして、翔太もあたしのこと……、いや、ないな。

 もう完全に小夜ちゃんと付き合ってる感じだし。

「どう? おいしい?」

「うん。イチジクなんて久しぶりに食べたわ。すごく甘くて美味しいね」

「よかった。田中さん、それ聞いたら喜ぶね」

「そういえば、今日は、三条さんは?」

「聖弥くん? もうすぐ来るよ」

 病室の窓の下、さっきから小さく聞こえている、ガタゴトという音。

 今日は、お母さんの夢をちょっとだけ叶えるんだって、聖弥くんがいろいろ張り切ってくれてて。

 窓を開けて、そっと下を覗く。

 うわ、そんなにたくさん?

 しかもジャガイモだらけじゃない。

「お母さん、ここ、椅子置いておくから、あたしが呼んだらここに座って窓の下を見て」

「窓の下? なに?」

「いいから。まだ見ちゃだめだからね? あたし、行ってくる」

「あっ、ちょっと――」

 お母さんの病室を出て、階段をパタパタと駆け下りた。

 通用口を飛び出して、お母さんの病室の真下の駐車場へと走る。

 見えた。

 聖弥くん。

 今日も素敵な笑顔。

 やっぱり、背が高くてカッコいい。

 あたしを見つけて手を振ってくれている。

「聖弥くんっ!」

「こら、あんまり息を上げるな。もう準備できてるから、いつでもいいぞ。ほーら、深呼吸して整えて」

 ちょこんと頭に乗せられた、聖弥くんの手。

 もう、未来の奥さんを子ども扱いしないで。

 すると、聖弥くんの向こうから聞こえたのは、聞き慣れたアニメ声。

「翔太っ! アタシの頭もなでなでしなさいっ!」

「なんでだよっ!」

「じゃ、アタシがするわっ! ジャガイモっ、よしよしっ」

「うわ、やめろっ!」

 そのやり取りを、さらにその向こうのジャガイモの集団がゲラゲラ笑って眺めている。

 駐車場に置かれているのは、ビールケースとベニヤ板で作られた簡易ステージ。

 ステージの前は、観客役の野球部員たちでいっぱい。

 駐車場で車を降りた人も、なん人か立ち止まって見ている。

 ステージの横には、我が家から運んできたアップライトピアノ。

 ピアノには、聖弥くんのお父さんがスタンバイしていた。

 聖弥くんのお父さん、すっごくピアノが上手なんだよ?

「日向ちゃん、もういつでもいいよ」

「ありがとうございまーすっ! お義父さんっ!」

「ううー、俺、娘が欲しかったんだ……。いいもんだなぁ、娘から『お父さん』って呼ばれるの」

 うわ、聖弥くんのお父さん、顔が真っ赤。

「さぁ、ひなっ! お母さまを呼びなさいっ!」

「うんっ」

 大きく息を吸って、二階のお母さんの病室へ向かって思いきり声を張り上げる。

「おかぁーさぁーんっ! もう、見ていいよぉー!」

 あたしの声を聞いて、窓からひょこっとお母さんが顔を出した。

 目をぱちぱちさせて、すっごくビックリしているみたい。

 いつか、聖弥くんがお母さんから聞いたって言う、お母さんの夢。

『お母さんの夢は、合唱のステージで一生懸命歌う日向を、客席から応援することだってさ』

 それを、どうしても叶えてあげたいって、聖弥くんが先週言い出して。

 それに翔太も小夜ちゃんも手伝うって名乗りをあげて、ついには聖弥くんのお父さんまで。

「ひなのお母さまーっ、アタシたちがお母さまの夢を叶えますわーっ! さっ、コンサートを始めるわよっ! ジャガイモーズっ、拍手っ!」

 応援用のメガホンで司会を始めた小夜ちゃん。

 ワーッという声とともに、野球部員たちが叩く拍手がバチバチと辺りに響く。

 うわ、一年生だけかと思ったら、上級生も来てるじゃない。

 マネージャー小夜ちゃん、意外に人気なのかも。

「日向、行こう」

「うん」

 聖弥くんがあたしの手を引いて、優しくステージへ上らせてくれた。

 足元には、野球部のみんな。

 右には、メガホンを持った小夜ちゃんと、その隣で心配そうに彼女を見ている翔太。

 左には、我が家のアップライトピアノに向かう、聖弥くんのお父さん。

 その向こうには、翔太のお父さんと、水城先生の姿も見える。

 そして、すっと上げた視線の先には……、窓から見下ろす、満面の笑みのお母さん。

「お母さん、笑ってる。あー、でも聖弥くんのお母さん、やっぱり来てないね。何度も誘ったのに」

「ありがとな。気を遣ってくれて。しかし日向、よく平気で俺の母親に電話できるな」

「いろいろ話して分かったの。お母さん、たぶん、寂しいんだと思うよ? あ、今度ね? 小夜ちゃんちで、聖弥くんのお母さんと小夜ちゃんと一緒にジャム作りやるの。お母さんが教えて欲しいって」

「ふうん。あのとき食ったジャムがよほど美味かったんだろうな」

 ちょっと苦笑いした聖弥くん。

 大丈夫。

 聖弥くんのお母さんも、あたしのお母さんと同じようにきっと元気になるから。

 そうやってふたりでちょっとコソコソ話していると、突然、青空をつんざくような大音量のアニメ声が響き渡った。

「ひなっ! コンサートを始める前に、あんたへのサプライズよっ!」

「えっ?」

 いや、サプライズって、普通は言わないもんじゃ……。

 なんなんだって思いながら小夜ちゃんを見ると、小夜ちゃんがあたしの視線とは反対のほうをちょいちょいと指さした。

 振り向くと見えたのは、列になって行進してくる我が最愛の弟たち。

 さらに、なんだなんだと思いながら見ていると、三人はステージ下のジャガイモたちの前に並んで、ビシッとキヲツケした。

 右から、晃、陽介、光輝。

 晃の手には、なにやら白い手提げビニール袋がぶら下がっている。

「コンサート頑張ってっ!」

 そう言って一歩踏み出した晃がビニール袋をスッと差し出すと、すぐに陽介と光輝がササッと晃の両側に付いた。

「姉ちゃんっ、これは俺たちからのプレゼントだっ!」

「ぷれぜんとだっ!」

「ぷれじぇんとだっ!」

 えっ?

 プレゼント?

 ゆらゆらと揺れているビニール袋の中には、なにか円筒形のものが透けて見えている。

 ゆっくりとそれを受け取って、そっとその中を覗いた。

「あ……」

 すると、そこにあったのは、白いプラスチック鉢に植わった、ちっちゃなイチゴの株。

 ハッとした。

「えっと……、晃、これ、イチゴ?」

「おうっ! でも、ただのイチゴじゃないっ!」

 すぐに聖弥くんを見上げた。

 聖弥くんが、とっても優しい瞳であたしを見下ろす。

「日向、分からないか? あのガラス混じりの土の中から、みんなで助け出したんだぞ?」

 弟たちが声を張り上げる。

「お父さんのイチゴだっ! みんなで助け出した、本物だ!」

「ほんものだっ」

「ほんもにょだっ」

 てっきり、あの嵐の夜にぜんぶダメになってしまったって思っていたのに。

 思わず、袋ごとその鉢をグッと抱き寄せた。

 嬉しい……。

「姉ちゃんが毎日、歌を聴かせて可愛がったイチゴだ。そう簡単に死んじまわないぜ。この株を増やして、また姉ちゃんの歌を毎日聴かせてやってくれ」

「やってくれ」

「やってきゅれ」  

 晃……、陽介……、光輝……、本当にありがとう。

 そうお礼を言おうとした瞬間、今度は突然、聖弥くんがピョンとステージから飛び下りた。

 弟たちの前に立って、それからゆっくりと振り返る。

 え? なに?

「次は俺からだ。あのときのお返し」

 あたしを見上げる聖弥くん。

 聖弥くんを見下ろすあたし。

「えっと……、お返し?」

「うん。この前、日向のお母さんから聞いてな。日向が保育園のとき、教会の聖歌隊に花束を渡したって話。日向は覚えてるか?」

「え? えっと、うん」

「俺、思い出したんだ。あのときの、日向の笑顔」

 なに?

 どういうこと?

 聖弥くんがちょっと真面目な顔をして、ポケットからなにかを取り出すと、一歩近づいてあたしにそれをすっと差し出した。

「花束をもらったとき、俺、日向の笑顔を見て、なんて可愛いんだって、そう思ったんだ」

 え?

 えええ?

 もしかして、あのときの、あたしが花束を渡した聖歌隊の男の子って……。

「俺は、あのときからずっと、日向を捜していたのかもしれない。これは、あのときのお返しだ」

 うそ。

 信じられない。

 あのときの男の子が、聖弥くんだったなんて……。

 これ以上ないくらいの、聖弥くんの笑顔。

 ハッと我に返って、彼が差し出したその手を見る。

 その手のひらにあったのは、イチゴ色のフェルトが貼られた、小さな箱。

 え? まさか……。

「また、俺の前に戻って来てくれて、本当に嬉しい」

 まさか、まさか、まさか。

 その小さな箱のフタが、彼のキレイな指でそっと開けられる。

 すると、そこにあったのは、可愛らしい指輪。

 銀色のリングの上に、イチゴをかたどった赤い石が輝いている。

「婚約指輪だぞ? オモチャだけどな。本物は、ちゃんと自分で働いた金で買うから、ちょっと待っとけ」

 ダメだ。

 泣きそう。

 もう……、言葉が出ない。

「これでもう逃げられないぞ? 覚悟しとけよ?」

 そう言いながらそっとあたしの左手を取って、その薬指に指輪を滑り込ませる聖弥くん。

 思わず上を向いて、トンとかかとを鳴らした。

「なっ、なにそれ、そっちこそどっか行ったら許さないんだから」

 ワーッと起こる拍手。

 もう、恥ずかしいっ!

 ううう……と唸って固まっていると、聖弥くんがジャンプして、またステージの上のあたしの横に並んだ。

 そして、指輪が光るあたしの手に握られた、ビニール袋の鉢を覗く。

「お父さんのイチゴ、よかったな」

「うん」

 お父さんが、あたしのために植えてくれたイチゴ。

 お母さんのことが大好きなお父さんが、お母さんに残した命のイチゴ。

 そして、あたしと聖弥くんを引き合わせてくれた、あたしの歌をずっと聴いてくれていたイチゴ。

 見上げると、窓から覗くお母さんが、目じりにそっと指をあてながら、うんうんと頷いていた。

「さぁ、ひなっ、聖弥くん、歌うのよっ! オジサマっ、伴奏をっ」

「よしっ!」

「お母さまっ、お聴きになってっ! ふたりのっ、『翼をください』をっ!」

 しなやかなピアノ。

 聖弥くんの手が、ギュッとあたしの手を包む。

 そしてその指が、トントンと小さくリズムを刻んだ。

 温かい、彼の手。

 あたしが、ちゃんとあたしで居られるように、ぜんぶあたしのせいだって言わせないように、いつもふんわり包み込んでくれる、優しい手。

 あたし、もう、自分のことが嫌いだなんて言わない。

 あたしなんて生まれてこなければよかったなんて、絶対に言わない。

 お母さん、あたしを産んでくれてありがとう。

 素敵な夢をくれてありがとう。

 お父さんの夢は、お母さんの夢になって、そして、あたしと聖弥くんの夢になった。

 あたし、イチゴが大好き。

 聖弥くんと出会わせてくれた、お父さんのイチゴが大好き。

 そっと聖弥くんを見上げた。

「聖弥くんの歌、毎日このイチゴに聴かせてね?」

 彼も、すっとあたしを見下ろす。

「日向も一緒にな」

「うんっ。あたし、イチゴ大好き。聖弥くんは?」

「もちろん。特に……、透き通った歌声が素敵な、可愛いちっちゃなイチゴが大好きだな」

「あはは」

 聴いて、お母さん。

 聴いて、お父さん。

 あたしの本当の歌声、あたしの本当の『ソプラノ』。 

 まっすぐ前を向いて、大きく息を吸った。 

 ふたりで奏でる主旋律が、この大空のずっとずっと向こうまで届くように。


             おわり

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ちっちゃなイチゴの恋はソプラノ 聖いつき @studiotateiwa

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