エピローグ


 不眠の夜を超えて――。


 昨日の今日であるというのに須崎は、パラドの作業場へ足を運んでいた。

 長い夜が明けると、陽が中天に達しないうちに家を出た。体内に滞る熱を吐き出すことができず、気が付いたらここへ来ていたのである。


「あんたは何者だ?」この問いかけは無益だった。


 パラドは占術家であると同時に剥製職人で、それ以上でも以下でもない。本人がそう任じているのなら、きっとそうなのだろう。


「あんたが奴らを操っているのか、それとも奴らに利用されているのか」


 珍しくパラドは剥製の仕事をしていない。デッキチェアに腰かけて、マグカップから立ち上る湯気に薄っすらと眼鏡を曇らせている。いつもの作業台は、半透明のビニールカーテンに覆われており、血染めのエプロンもステンレス製の消毒盤上に畳まれていた。


「パラドのペンダントが役に立ったろう?」


 ああ、と須崎は控え目に頷く。それは間違いなかったが、しかし――


「彼はそれを捨てたんだ。神聖なるパラドの霊験を信じなかった」


 パラドとは男の名であり、銀と水銀との霊妙なる合金のことでもある。占術師の語る内容が事実ならば、パラドは野地をも救おうとしたことになる。だが、愚かにも野地は救済の糸を振り払った。


「水銀は水星の象徴であり、昨夜は水星と冥王星の邂逅の刻でもあった。水星は知性を表し、一方、冥王星は死と再生のカリスマだ。根源的変容という象意もある。さらに水銀は錬金術には欠かせぬマテリアルでもある」


 むっとする血の臭いに慣れ始めたのに須崎は気付かなかった。この作業場を見下ろす六道輪廻の天井画にも恐ろしさを感じなくなった。


「水星と冥王星のコンジャクションによって、この街は変容した」

「どんなふうに?」

「この街の暗部の勢力図は一夜にして塗り替えられた」

「それは恐ろしいことなのか?」

「あのクラブの名前はカリフラワーだってね」


 悠然とパラドは須崎の問いを黙殺する。その催眠的な語り口は、苛立ちよりも不穏な心地よさをもたらすが、その先にある暗がりに須崎は近づきたくはなかった。


「締まらない名前だよな」須崎は言った。


「野菜なんかじゃないよ。カリとはサンスクリット語で『悪徳』や『不和』を意味する。カリ・ユガとは仏教の末法の世のごとく、正しい教えが廃れ、悪徳が支配する時代のことを言う」


 この街には悪徳が蔓延る、そう言いたいのか。それが変容の結果なのか。

 パラドは一口コーヒーをすすってから、厳かに続けた。


「カリフラワーとはむしろ『不和の華』あるいは『悪徳の荘厳』と解釈すべきだと思うのだけれど、どうだろう? あのクラブは、ヘルメスとハデスの新たな邂逅にふさわしい場所だった」


「俺はここで生きていかなきゃいけない」


 妻や娘、それに店のことが案じられた。パラドのこじつけめいた博学に感心している場合ではない。ようやく穏やかな日常を手にいれたばかりなのだ。小さな幸福を育てていく喜びを須崎は知り始めた。


「パラドが、あなたを守るだろう」


 それは、このペンダントに守られるという意味なのか、それともこの男が庇護するということなのか。どちらとも取れる曖昧さを、しかし須崎は追求しなかった。パラドは須崎を危地に連れ出すこともあるが、そこから救い出しもする。何もかもが玄妙怪奇でありながら凄惨でおどろおどろしい。ここは須崎が見知った世界ではなかった。


「知りたいことは知ったかな。こうして星々は北落師門のもとに統べられる」


 それは南の空に輝く戦の星である。みなみのうお座のアルファ星。全天にわずか二十一個しかない一等星のひとつ。あの二人、砂山と刑部のかつて属していたチームがそれを名乗っていた。またの名をフォーマルハウト。


「そろそろ仕事にかかろう。お引き取り願えるかな?」


 言い知れぬ違和感がある。この部屋は、いつもと何かが違う。重要なものを見落としているような。それはなんだ? カーテンに妨げられて作業台に横たわる獣の姿が見えないことか? いや、それだけじゃない。それはもっと――


「――その時計は?」須崎はステンレスの消毒盤台カートに視線を向けた。


 ガラスの割れた腕時計がある。それを須崎は知っている気がした。


「これはヴァシュロン。スイスの最も信頼の置ける時計メーカーのひとつ。創業者のジャン・マルク・ヴァシュロンは時計職人でありながら天文学にも秀でていた」


 またもや星か。違う。認識を眩まされるな。こいつは人間を剥製にできない代わりに、ホロスコープを作るのだと言っていた。その生の躍動を封じ込めた星図を。


「それはあんたのか?」


「いいや――」パラドは優雅な笑みをそのまま凍りつかせた。


 そうだ。これはパラドのものじゃない。なぜなら――


「野地。そいつは昨日の男のものだ。それがなぜここにある? あいつはどうなった? そのカーテンの向こうには何がある?!」

「……剥製の動物さ。少しばかり損傷が激しいけれどね」


 須崎は、つかつかと作業台に歩み寄ってヴェールに手を掛ける。が、その手をパラドに掴まれた。反対の手に掲げたマグカップから黒い液体が波打ち、溢れ出す。半透明のカーテンの向こうには褪めた肉色が見える。


「やめておけ」きっぱりと冷厳にパラドは告げた。


 それは砂山がまとっていたものとも違う寒気だった。砂山の寒々しさが北方の刺々しいブリザードだとするならば、こちらは真空宇宙の絶対零度と形容できそうだ。須崎の衝動は一気に失速し、萎えていった。


 ――俺は何をしようとしていたのだ? そんなものを見てしまったなら、もう二度と……二度と立ち戻れなくなるだろう。


「ああ、よかった。踏み止まってくれた」


 詠うようにパラドは美声で囁く。あるいは囁くように詠う。


「おまえは……おまえは」それ以上は嗚咽となって言葉にならない。この男は何者なのだ? すべての元凶なのか。それとも星辰の迷い子なのか。問答は堂々巡りする。


「ただの占い師さ。星の盤面に従う地上の駒。ヴァシュロンはこう考えたのじゃなかろうか。星々の精密な運動。つまり宇宙の機構ムーヴメントそのものを歯車と螺子とベアリングでできた小さな世界に実現しようと。ほら」

 とパラドは天井を指さす。六道輪廻図は円盤の形で表される。それは輪廻の刻を示す時計の文字盤のように見えた。あるいはどこまでも不条理なルーレット盤に。


 ――ああ、ああ。


 見慣れたと思ったはずの無常大鬼が須崎の脆弱な心を鷲掴みにする。精神の虚空と向き合って須崎は発狂の恐怖に囚われる。聴こえるはずのない秒針の刻む音が聴こえた。須崎は思わず耳を塞いだが、その荘厳なリズムを鼓膜から締め出すことはできない。


 星々の刻むコズミック・ビート。それは無慈悲な生々流転の音楽だった。


 須崎は、あたかも一体の剥製のように固まったまま、白々とした永遠を想う。煉獄たる白夜。内臓を抜かれた獣と同じく、がらんどうの瞳に星明りを映すのだ。


 

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白夜のフォーマルハウト 十三不塔 @hridayam

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ