第5話
「
日本語のものではない掛け声に続いて、ガシャリと金属の音がする。
暗がりの中、獣の唸り声が聴こえた。
――なんだよ、いまの声は?!――誰だ? 俺を小突いたやつは?!――ひぃ! な、何かいる!――おめえ誰だっての――聞いてねえし。眠みぃ――痛てぇ、やられた! 助けて、助けてくれ!
様々な声が飛び交うが、視界を奪われた混乱はやすやすとは収まらない。
最初の声には聞き覚えがあるような気がした。それにこの部屋には得体の知れない生き物がいるらしい。獣の生臭い息と不気味な外国語。
それを耳にしたのは、須崎だけではないはずだ。怯えて混乱した男たちの喚き声や不安の吐息で部屋はいっぱいになった。疑心暗鬼になりめったやたらに武器を振り回せば、同士討ちになるのがオチである。統制の取れていない寄せ集めの集団が、あっという間に混乱の淵に突き落とされるのに時間はかからない。
金属が肉を打つ鈍い音。悲鳴と怒号。冷め始めた肉とスープの匂い。
須崎は出口の方向へと走り出したが、同じく殺到した人間たちとぶつかって転倒してしまう。何か毛のようなものが頬を撫でる。やはり人間以外の生き物がいるのだ。闇の中で想像が膨らんでいく。それは恐ろしいモンスターとなって須崎の心を圧し拉いだ。
「てめえら下手に動くな!」
野地の指示は届かない。所詮はこの日のためにかき集めた烏合の衆であった。互いへの信頼も結束もない。ようやくドアを探り当てたひとりが外に転び出ると他の連中も脱兎のごとくそれに続いたらしい。やがて足音が遠ざかる。
「よくやった。
明かりが灯った。VIPルームは凄まじい有様である。眼出し帽の男たちの半数は逃げ出していたが、残りは倒れているか、床を這っている。痛みに呻く者、気絶する者と様々だが、おしなべて戦意を喪失していることだけが共通している。仔細に見れば、多くに出血と噛傷が見られる。
二頭の犬が居た。
いつどこから現れたのだ? それに刑部はどこにいった? 混乱に巻き込まれて負傷したのか、それともどこかに拉致されたのか。
「ここだよん」テーブルの下から刑部の小柄な身体が這い出してくる。「いやぁ、楽しかったね。一瞬のスリルだった」
「ちょ、ちょっとなんなんですか。その犬は?!」
「ロシアのスリモヴ種。種や亜種の壁を超えて交配させたカニド・ハイブリッドってやつさ。彼らにはジャッカルの血が入ってる」
暗闇で想像したよりもずっと愛らしい生き物がそこにいた。動物園でしかジャッカルを見たことのない須崎は狐を連想した。細身のボディラインにやや尖った耳。茶褐色の毛並みは寒さに強そうではある。掛布のあった正体不明の箱。あそこに入っていたに違いない。その証拠に布をどけたらケージの中身は空っぽだった。まるで気配を感じさせずに格子の内側に身をひそめていたのだ。高度に訓練されたハイブリッド。襲撃者らは闇の中でこの勇猛果敢な犬たちの牙に肉をこそげ取られたのだった。
「空港の麻薬検査なんかにも活躍してるんだ」
「お、襲い掛かってこないんですか?」
「へっちゃらへっちゃら。もう待機モードだかんね。それよりも――あそこに蹲ってる筋肉ダルマを見てよ。ウケる! さっきまでデカ口叩いてやがったのに、いまじゃマジでダルマみたいに丸まってますよ!」
見れば、野地という男は部屋の隅に蹲っていた。嵐が過ぎるのを待つように必死に身を固めて耐えていたのだろう。衣服があちこちで破れ、全身に無数の傷がある。眼出し帽はめくれ上がって、いかつい頬骨が露出している。右耳は完全に千切れてしまっているし、左手の薬指は半ば千切れかかっている。高級腕時計のサファイアガラスには亀裂が走る。倒れ伏す他の連中も多かれ少なかれ似たようなものだ。たった十数秒の間に形勢は逆転した。これはどんな手品なのか。そして何故須崎は無事なのか?
「にゃはは。へいへい野地ちゃんよぉ。ボクの迫真の演技どーだった? なかなかどうして役者っしょ」
「テメエ、ハメたのか」獰猛に野地が唸る。
「もちもちもちもちもっちろん」満面の笑みで刑部は首肯した。再開したDJのプレイに合わせて、妙ちくりんな振付けまで加えて、どこまでも楽しそうに踊っている。左右に控えた犬たちも心なしかリズムに乗って尾を振っていた。刑部は、歯噛みする野地を傲然と見下ろして、
「野地ちゃんはうん、その馬鹿さ加減だったらここで死んだ方が幸せじゃん。ええと、いまなら豚かミジンコに生まれ変われるんだっけ?」
「クソが」屈辱の極みであろう、芸のない悪罵。
「ったく面白いように誘い込まれてくれたねぇ。ボクが占いにハマってるなんてまことしやかな噂に君が飛びつくなんてさ、あんまし期待してなかったけれど、案外すんなりいったよね」
「じゃ、あの水星と冥王星がどうたらって話も?」
すると、おちゃらけていた刑部がだしぬけに神妙になって、星空を透かし見るようにして天井を眺めた。
「ううん、それは本当。夜空の果てでは、
そこへ別の声がかかる。先程犬たちに指示を出した声である。
「相変わらずだな、迅」
「銀ちゃんこそ、元気そうじゃん」
――
その名に誘われたがごとく不吉な人影が立ち現れた。日本人にしては髪の色も瞳の色も淡い。肌は焼きを入れた鉄のような印象である。そして須崎はこの男を知っていた。
「ロシアはどーだったん?」
「それなりさ。随分ご無沙汰だったな。迅。それに野地」
なんだろう。久闊を叙す旧知の者同士の会話であるはずなのに、妙な寒気がする。須崎は場違いな自分をようやく省みた。何か異変が起きている。あの豪胆な野地という男が、新たな登場人物を眼にした途端に歯の根が合わぬほどに震えているのだ。
「砂山銀吾。あ、あんた帰ってたのか?」
「ああ、おまえと菱沼、それに伏見とで楽しいことをしてくれたよな。そんな愉快な
感情のこもらない述懐だった。その言葉の裏には言い知れぬ冷たさがある。まるでロシアの寒気をそのまま運んできたかのようだ。犬たちは、刑部よりもむしろこの男を主人と見做しているようになついている。
「すまなかった」
いきなり土下座となって野地は詫びた。
出来心とはいえ、とんでもない思い違いをしてしまった、これからは同列でなく、格下の使い走りとして扱ってくれればいい云々。そんな口上を、砂山はあくまで無表情に聞き流す。
「おまえタイ料理屋じゃないか。なーにやってんだ?」
問われて須崎はあらためて思い出した。この男はたまに『サイヤム』に顔を出す客なのだ。ロシアのテロのニュース番組をいっしょに観たのがはじめての出会いであった。犬たちをけしかける先程の声もこの男のものだった。きっと部屋のスピーカーを通じて号令がかけられたに違いない。
「よく、こいつらに噛み殺されなかったな」
「だって見てよ、銀ちゃん、こいつパラドを持ってるんだ」
「へぇ」と片方を口角を吊り上げて砂山は笑った。
刑部が胸元から引っぱり出したのは、今朝、占い師に押し付けられたあのペンダントと同じものだった。
「ど、どうして?!」須崎は思わず二人を見回す。
「運命かもね」「バーカ」
北落師門のトップ2として恐れられた二人の男はまるでブランクを感じさせない気安いやり取りをするが、これは久方ぶりの再会なのだった。もちろん須崎にはそんなことはわからない。
「このパラドってのは、銀と水銀の合金だ。ここからはあの野郎の受け売りだが、ふたつの物質を混ぜ合わせるためには秘伝のつなぎがあるそうだ。それは何種類かの香料らしい」
「もうわかったっしょ?」
わからなかった。まるで物分かりの悪い子供になった気分だった。
「本当にお守りの効力が? スピリチュアルなパワーが宿ってるとか」
「こいつ馬鹿だな」と砂山が断じる。「匂いだ。この犬たちには、特定の
「っていうことはつまり――」
特定の匂いを嗅ぎ分け、選別された片方のグループを襲え。そう命令されていたことになる。うすら寒い真実。そう、どちらにしろ、須崎がこのペンダントに守られたことに違いはないのだ。三万円なら安い買い物である。いや、安価で押し付けられていたら、あの場で捨てていたかもしれない。この怪しいペンダントがなければ、獣たちの牙に喉笛を引き裂かれ、ここに横たわるゴロツキたちの仲間となるはずだった。パラド。あの男には本当に何かが見えているのだろうか。
「銀ちゃん、さっすが完璧なタイミングだったよ。打ち合わせもそこそこだったのになぁ」
「ふん」と砂山は鼻を鳴らした。示し合わせたタイミングで砂山がフロアのブレーカーを落としたのだろう。そして闇の中で刑部が犬たちを放つ。その計略の結果は見ての通りだ。
須崎はもう一秒だってここに居たくはない。しかし黙って帰してくれるだろうか。テーブルの紙幣は散り散りになってしまった。野戦病院のような有様のVIPルームには誰ひとり近寄ってこない。遅かれ早かれ警察沙汰になることは間違いない。
「迅。おまえの悪知恵も錆びてないようだな」
そう言うと砂山はポケットから煙草を取り出してみせるが、中身が切れている。刑部迅はいきなり野地の顔面を蹴りあげて、仰向けに倒し、その懐を物色し、シガレットケースを見つけ出す。野地の前歯が須崎の頬に飛んできた。須崎は代金の回収をとうとう諦めた。高級な葉巻に火をつけると、砂山はたっぷりと煙を吸い込んで屈みこむと、血だらけの野地の顔に吹き付けた。
「殺さないで」
「そうだな――」と砂山は呟いた。「まずはおまえが台無しにした食い物の支払いと後片付けをしろ。でないと、おまえが犬たちに食い散らされて、その後片付けを俺たちがする羽目になる」
「これで勘弁してやってよ」さっきシガレットケースといっしょに抜き取ったらしい野地の財布を刑部は、そのまま須崎に手渡した。
「こんなに多すぎます」
「迷惑料だ」と砂山は重々しく言った。今夜のことを決して口外するなとの有無を言わせぬ含みもそこに感じられた。
「野地。ガキの頃みてぇにタイマン張ってやるよ。俺に勝ったらチャラにしてやる」
「タイマンて。銀ちゃん、いつの時代から来たわけ」と刑部が茶化す。暴走族時代の名残りを刑部はあまり留めていないのだろう。
「タイマンはタイマンだろう」
二人の応酬に緊張感はない。それが余計に恐ろしい。野地に戦意といったものはなく、ただ破れかぶれの諦念があるだけだ。だが、こんな眼をした男を軽視するべきでない、と須崎は貧しい経験から思う。捨て身になった人間は侮りがたい。
「……本当に勝ったら許してくれるのか?」
「そー言ってんだろ」
「いつ始める?」
「いつで――」
言い終わらぬうちに野地が跳ね起きて、砂山に頭突きを見舞おうとした。砂山はそれをかい潜ると低い体勢から片足タックルに入った。野地の巨体を壁際に押し付けて――それきりだった。
すでに勝負はついていた。組みつかれた野地は砂山の背中に向けて懐から取り出したアーミーナイフを突き立てようとしたが、その前に砂山が離れたのである。
「あ」野地は小さく声を上げて、へたり込んだ。そしてもう立つことができない。
何が起きたのだろうか。
「そそそそ、足ぃが」
野地のプロポーションがどこか変だった。よく観察すれば片足だけが妙に長く見える。股関節が抜けたのだ。あのわずかな接触で、大腿骨を骨盤から引き剥がす。そんな芸当が可能なのか。須崎は眼を疑った。
「ロシアのサンボリストに習ったんだ。ま、使い勝手は悪くねえ」
野地はまるで、骨のない軟体動物のように頼りなくばたばたと震えて見せる。いくら頑張っても立ち上がることができない。その振る舞いは支えてやりたくなるほど健気で愛くるしかった。
しかし野地の苦難はこれで終わらない。次に刑部が野地のベルトを引き掴んで、100キロを超えるであろう巨体を軽々と放り投げた。まるで交通事故映像のダミー人形がフロントガラスを突き破るようにVIPルームの窓からフロアに躍り出る。客たちは騒然とした。砕けたガラスにまみれ、フロアの光線に溺れるように逃げ出そうとする。
「迅、おまえそんな
須崎は呆気にとられながら、ようやく理解した。この二人は化け物なのだ。刑部迅なら、わざわざ罠を張らなくても、たったひとりで全員を返り討ちにできたのではないかと思わせる。いや、念には念を入れる慎重さと計算高さこそ、この男の本当の恐ろしさなのだろう。頭も切れて、なおかつ腕力も並外れた刑部とそれを従える砂山。いっそうの畏怖を須崎は抱いた。
「タイ料理屋さん。また会えそうだね。なんだかボクら縁がありそうじゃん。こいつもお揃いだしね」刑部が上機嫌にパラドのペンダントを掲げてみせる。
部屋には、さきほどの組み合いで完全に脱げ落ちた野地の眼出し帽が落ちていたのだったが、砂山は、それを犬たちに嗅がせてやる。
「行け、噛み殺せ」二頭のスリモヴ・ドッグは嬉々として駆け出した。程なくしてフロアから悲鳴が上がる。
この後、野地という男がどんな目に合うのか想像もしたくなかった。あの林道で落石に押しつぶされた男たちのことが思い出される。あれを仕組んだのはパラドなのかこいつらなのか。それとも両者が関わっているのか。一歩間違えば須崎も巻き込まれていた。死にたがったのは須崎自身であったにしろ、いまでは考えただけでゾッとする。
――
北落師門最後の二人。再会すべきでなかった二つの星の運命がもう一度交錯する。
そこには取り返しのつかない悲劇の予感があった。
――星が殺す。
いつ耳にしたのかわからぬパラドの空恐ろしい言葉が蘇る。
吐き気に見舞われた須崎は、悪夢に追われるようにして部屋を出た。
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