第4話


「黒書。そんな占術があるそうだな」


 古い倉庫を改造した作業場、その血みどろの創造を見下ろすのは巨大な鬼。輪廻の六界を抱き無常の理を体現するマハーカーラである。


 血とアンモニアの混ざりあった、慣れぬ者には食欲を失わせる悪臭の中、問われた男が頷くが、その口元はマスク越しのために伺い知れない。


 無数の剥製。作業台と刃物と臓腑を取り出され空洞となった獣。ワイヤーブラシと細い糸鋸には硬そうな毛がまとわりついている。


 ――そう、ここが占術家にして剥製職人パラドの神聖な居城であった。


 彼を訊ねる者は、決まって、この場の異様さに怯むことになる。その場で嘔吐した者もあったし、背中を向けて一目散に逃げ帰った者もいた。


 が、この度の客は常人離れした胆力を備えており怖気づくことはない。


「そうだね。僕はそれを使う」

刑部迅おさかべじんはあんたの客だろう? あんたの占いにえらく執心してる」

「職業倫理として、顧客のことは言えないよ。特にこの商売はね」


 パラドは何やらまじないのようなものを唱えながら、口縁の広い磁器の椀の中で粘ついたものを捏ね合わせている。客は、口髭を蓄えた三〇代の男で、トレーニングを欠かさないであろう肉厚な体躯で威圧してくる。


「なぁ、あんた、こっちを見ろよ」イラついた口ぶりからして今夜の客はどうやら気が短いらしい。


「――ああ、これかい? これは銀と水銀の合金でパラドという。僕の名前はここから来ている。インドのシヴァ派においてパラドは強力な霊的アイテムとして珍重される。製法は秘伝とされていてね、盗むのに苦労したものさ」

「んなこたぁ、訊いちゃいねえ」


「だろうね」韜晦とも挑発とも取れるパラドの態度は男をさらに激高させる。


 男の名については――これよりパラドが告げるであろう。


「野地啓介さん」とパラドは声をひそめた。「黒書に用があるのかな。刑部迅がどう関係が?」


「やつを殺す。徹底的に絶望させてから殺す。聞くところによるとその占いは、死亡時刻と場所によって来世のことを占うとか。だったら最低のタイミングで殺してやりてぇ。やつが豚か何かに生まれ変わるのにはいつ殺ればいいんだ?」


「占いを信じるの?」朱を引いたような薄い唇を引き絞る。件の人物とは確かに面識があった。


 刑部迅おさかべじん。いっとき雨後の筍のごとく沸いて出たITベンチャーのひとつを切り盛りしていた男である。そのほとんどが淘汰された後も敏腕というよりもむしろ悪辣な手腕でしぶとく生き延びた。請われて命盤を作成したこともある。刑部の星からは、引き裂かれたような二つの側面が伺えた。怜悧な知性とそれに見合う非道さが。


「馬鹿言うな。星だのなんだのに振り回されてたまるか。ようは奴が信じてるってことが重要なのさ。絶望に引きつった顔を拝んでやりたい」


 鼻息荒く訴える野地の表情は、興奮よりむしろ必死の懇願と見えた。


「あなたたちは仲間なんじゃ? 神州武走連合という暴走族のメンバーで、いまはいわゆる半グレ。いわゆる準暴力団というやつで、それなりに羽振りよくやっている。あなたたちのお家芸の内部抗争?」

「羽振りがいいのは奴で、しかも分け前を寄越さねえ。それどころか俺らを切り捨てようとしてるのさ。さんざっぱら見下しやがって」

「だから殺すと?」


「ああ、ヤツの持ってるものはみんな分捕ってな。それに――」と野地は語を継いだ。「菱沼と伏見が死んだことで俺たち夜叉派ヤークシャーの力は衰えてる。早めに手を打つ必要があるんだ。この稼業は、ナメられたらしまいだ」


 神州武走連は、三つの暴走族が統合されてできた連合である。そのひとつが虚空夜叉だった。統合後も出身グループ間の結束は強く、ことによるとそれが内紛の引き金となった。時代遅れの暴走族とて、それが一定の組織力と暴力を背景を持ったまま増長すれば、侮りがたい勢力となって世に憚る。


「僕がそんな血腥い抗争に力を貸すとでも?」

「気取るんじゃねえよ。あんたは金のためならなんだってするってもっぱらの噂だ」

「事実ですね。では、最悪の日取りを教えましょう。その日は水星と冥王星のコンジャクションが起こります。本来であれば、不吉な配置ではないのですが、精神性の低い、あなた方のような人種には致命的に働きます。その日に殺すのです。そうすれば虫けらか家畜、さもなければ無間地獄にでも生まれ変わることでしょう」


 パラドはその日付を睦言のようにそっと囁いた。七殺、それに擎羊けいようと鈴星が同宮すれば……と野地には意味の不明な単語をブツブツと並べる。


「てめえは胸糞悪い野郎だな。後ろから頭を割られねえようにせいぜい気をつけろよ」


 札束を作業台に叩きつけて、のしのしと野地は立ち去ろうとする。が、呪文の一部のようにパラドは言霊を紡ぐ。


「水星は知識とコミュニケーション能力を象意として持っています。一方、冥王星は洞察力とカリスマ性。そして何よりその名の通り、冥府の王として破壊と再生を司ります。ま、これらは西洋占星術的な解釈で、黒書にはまた違った見立てがある」


 野地を引き留めようとする意志はもとよりない。また知識を披瀝するのを無邪気に楽しんでるというのでもない。意図の見えぬ不気味な衝動である。


「御託は聞き飽きた」本性をむき出しにした野地がパラドの胸倉を掴む。


「――パラドで作ったペンダントはいかがですか。水星と水銀は極めて関係が深い。どちらも英語でマーキュリー。水星の素早く動くさまに、古代の人々は水銀の流動性を重ねたのでしょう」

「もう黙れ」

「今回のコンジャクションの影響をパラドは軽減してくれます。きっとあなたの身を守ってくれるでしょう」


「ふん、がめつい野郎だ」野地は一発パラドの頬を張ると、財布からさらに数枚の紙幣を掴みだしてクシャクシャにして投げつけた。作業台にあった銀色のペンダントをひったくると今度こそ振り返りもせずに出ていった。


「痛い」パラドが口を拭うと少量の赤が手の甲に映えた。今の張り手で切ったのだろう。星は刑部迅を殺すだろうか。あの二人を殺したように。運命は書物として星に記述されている。星読みに熟達すると物語の先の展開がわかるようになる。それは予知能力ではない。物語のテンプレートを知ったというだけだ。


 作業場を出るや否や、野地がペンダントを投げ捨てるのが見えた。


「もったいないな……ああ。そうだ」


 何かを思いついたのだろう、パラドはパラドを捏ねる手を休めて、小さく頷いた。


×


 須崎のタイ料理屋『サイヤム』に、デリバリーの注文が入ったのは、一九時を回った頃だったか。


 調理に四〇分、配達に一五分といった目算を客に伝えた。二〇時を過ぎないあたりには、きっとおいしく召し上がって頂けるでしょう、と営業用の口調で応接をする。


「ええ、クラブ・カリフラワーですね。大丈夫です」


 急な注文の上に量も多い。店のオーダーも捌く必要がある。やはり慢性的なスタッフ不足だなと須崎は思った。何かあれば、今日のシフトに入っていないファイを呼び出さなくてはいけない。大学のレポートがあると言ってたのに申し訳ない。時給に少し色をつけてやらなくては。あれこれを思案しながら、出来上がった料理をパックに詰めて、さらに専用にバッグに収めたうえ、デリバリーバイクの後部ボックスに放り込む。


 何度かカリフラワーのVIPルームに料理を運んだことがある。あそこには須崎の苦手なタイプの客が多い。浮かれた成り上がり者か、訳知り顔の業界人。あまりお近づきになりたくない人種である。


 ――これも仕事だ、そう割り切るのが昔よりもずっと楽になった。


 妻と娘とビーグルの仔犬のことを思えば、大抵のことなら容易くなる。子供も犬も大好きだ。柔らかくて独特の匂いがする。思い出したくもない停滞と迂回を経て、自分も人並に成長したのだろうと須崎はほろ苦く考える。


 秋の風になぶられて頬から熱が奪われていく。


 ただ、それにしても――なんだ? 胸のあたりにモヤつく何かがある。靴の中の小石のような異物感。原因はわかっていた。あの男だ。パラド。


 あの日以来、再会するつもりのなかった占術家が、どこで聞き及んだのか、今朝方にフラリと店を訪れると、挨拶もなしに得体の知れないペンダントを押し付けたのだった。


「いくらある?」

「店の金なら渡さないぞ」須崎はレジを覆い隠すように身構えた。

「違うよ、あなたの財布の中身さ」


 なんだ、そっちか、と心を緩めてしまった須崎もどうかしている。この男を前にすると、常識と現実との比率が狂ってしまうのだ。抵抗もなく財布を中身をあらためた時には、もうパラドの術中に嵌っていたのかもしれない。中身は四万三千円だった。


「しみったれてますね」とためらいのない手つきで万札を三枚抜き取ると、銀色の金属片を結わえた紐を須崎の首にかけた。「これでいい。お守りだ。じゃあ」


「おい。な、なんだってん――」


 これほど容易い押し売りがあったろうか。まったくなすすべもなく金を取られた。


 パラドは忽然と消えた。神がかりの祖母を持つタイ人スタッフは、パラドを見て

「あれは悪い精霊ピーだ」とうろたえ騒いだ。


 ザワザワと胸騒ぎがする――そんな夜だった。


 クラブ・カリフラワーのある共同ビルでは、今夜のイベントに出演するラッパーたちが奥まった喫煙所で煙草を吸っていた。強面の連中の脇を申し訳なさげに通り過ぎる須崎。大麻の匂いを知らない須崎には、それがわからない。こういう場所に自分はそぐわないと須崎は知っていた。興味を持つこともない。料理を置いて、さっさと戻ろう。今夜は二件の予約客が入っている。ファイを煩わせなくていいのよう早く戻るのだ。


 カリフラワーは老舗のクラブで、キャパはマックスで二百人ほど。このあたりのクラブの中ではひときわ大きな部類に入るだろう。雑居ビル二階フロアの重低音の振動が外までも伝わってくる。ひとたび扉を開ければ鼓膜を圧する音に囲繞される。全身の体液が泡立つような感覚だった。


 VIPルームはすぐに確認できた。前に来た記憶は間違っていない。すれ違う女たちはどれも若く見える。自分の娘もこんな場所に出入りするようになるのだろうか。


「お待たせしました」


 扉を開けると、意想外なことに客はひとりだった。

 テーブルに料理を置く。ソファと向かい合うようにモニターがあり、国外ミュージシャンのMVが流れている。羽目殺しの窓からは、DJブースやダンスフロアを見られるはずだが、いまはカーテンが引かれている。高校の頃溜まり場にしていた放送室ほどの広さだった。部屋の隅に布のかかった箱状のものがあるが、それが何かはわからない。


「ああ、そこに並べといてくれる」


 パラドとはまた違ったタイプの年齢不詳の男である。つるりとした肌は白く滑らかで、どことなく育ちの良さを感じさせた。サイドとバックから刈り上げた髪には強いウェーブがかかっており、艶のあるジェルで撫でつけられていた。眼鏡の奥から覗く視線は、好奇心に瞬いている。かっちりとした黒ずくめのいでたちは、須崎の知らないブランドで統一されているのだろう。


「――刑部さま、ご注文はお揃いでしょうか」

 オーダー内容を繰り返したあと、須崎は確認を取った。


「ひとりで食べると思ってる? 友達のいない寂しいお金持ちって思ってんじゃん?」


「いえ、そんなことは」ドギマギしながら須崎は首を振った。


「もうすぐお客さんが来んの。気のいい仲良し連中よん」


 刑部は大きな額の紙幣をテーブルに置いた。暗算で釣銭の額を割り出した須崎は小銭の入ったボディバッグをまさぐった。


 刑部が須崎の胸元を眺めて何事かを言いかけるが――


「あれ、君のしてるペンダントって」


 ドアが蹴り開けられた。現れたのは目出し帽の男たちで、それぞれに物騒な得物を手にしている。バットや金属のパイプ。現実離れした光景に須崎は何かの特別な趣向なのかと思った。映画か何かに基づいた仮装大会なのかも。


 ――刑部ぇ!!!!


 金属バッドが、サイヤム自慢のパッタイをテーブルの天板ごと叩き潰す。硬いものが砕ける不快な大音響。これは遊びじゃない。さっそく須崎は理解した。すると気のいい仲良し連中とはこいつらのことなのか。


「あの人違いじゃないでしょうか」刑部がおずおずと述べた。


「てめえのツラを間違えるかよ」

「その声は野地くん?」

「野地くん、じゃねえよ。馬鹿かてめえはひとりで出歩くなんざ楽勝気分かよ。クソかよ。伏見たちをぶっちめてよぉ、てめえの天下だと思ったか。残念だったなぁ!」


 目出し帽たちを引き連れた男は、岩のように分厚い胸板を張り出して見せる。連れの男たちは口元だけでニヤニヤする。誰もかれも威圧的に振る舞っている。どうして店はこんな連中を入店させたのだろうか。いや、こんな連中だからこそ拒否できず、誰かが脅されたかして裏口から通したのだろう。


「いっしょに食べない――よね?」急に元気を萎ませて、刑部は上目遣いになった。


「ナメてんな、てめえ、まだナメてるよなぁ!」


 テーブルに飛び乗った野地と呼ばれた男は、これみよがしに料理を踏みつける。自分の語気に刺激されて、ますます興奮するタイプなのだろう。うちのコックが腕によりをかけて拵えた逸品がどんどん生ごみになっていく。さすがにこれには須崎も怒りを禁じ得なかった。禁じ得ないからといって声を上げるわけではなかったが。


「な、なにか勘違いしてるみたいだけど、伏見や菱沼が死んだのはボクのせいじゃないからね。だってあれは――」

「あの別荘行きは、てめえの接待だった。あの事故は仕込みなんだろ? 北落師門の天才軍師だの頭脳だのと恐れられたてめえのことだ。どんな罠を張ってるか知れたもんじゃねえ」


「いやぁ、それって考え過ぎだよ野地くん」ぽりぽりと気弱げに頭をかく刑部。さっきまでの余裕はどこへやら露骨に竦み上がっている。


「言い訳は無用だ。いまここで、てめえを殺す」


「じょ、冗談っしょ」刑部の額に汗が滲む。しどろもどろになって許しを請うような態度だったが、どれも男たちの冷笑を誘うだけだ。


「パラド。あの占い師によれば、今夜は水星と冥王星が合ってのを起こすらしい。今夜死ねばおまえは豚に生まれ変われるらしいぜ。どうだ? お似合いだろ?」


 だしぬけに刑部の顔が恐怖にひきつった。もう繕うことなどできない。やめてくれ、それだけはやめてくれと懇願する。くしゃくしゃに歪んだ泣き顔をあられもなく晒す。


「あんな世迷言を信じるようになっちゃ、てめえも年貢だ」


 年貢の納め時だなという意味だろう。須崎は言われなくても意図を汲んだ。


「本当だ。パラドの占いは当たるんだ」刑部の主張は意味をなさない。須崎はここで出てきたパラドの名に不審をおぼえつつも、その先へ思考を巡らせることができなかった。


「いいよ、信じてろよ。そう、そのビビり上がった面を拝みたかったんだよ!」


 須崎はテーブルに置かれた代金だけを回収して、さっさとここから立ち去りたかった。この際、釣りは出さなくてもいいだろう。刑部というこの人物は、まもなく金とは無縁の世界に旅立つに違いないのだから――。


 野地という男の哄笑が鼓膜に張りつく。

 この声は当分忘れられないだろうなと須崎は思った。やっぱり予感は当たったのだ。今夜はひどい夜だ。もう代金も不要だ。とにかくここから逃げ出そう。パラドの名と影があるところには血が降り注ぐのだろう。


「もういい、てめえはくたばれや」


 勝鬨を上げた野地が、部下に命じて、とうとう刑部をミンチに変えようとしたその時だった。部屋の灯りがふいに消えた。いや、フロアごと停電したのだ。客たちの不満のどよめきが聴こえる。


「なんだってんだ?」野地が喚いた。


 暴力も命乞いも――絶品のカオマンガイもまとめて溶暗し、世界には音と匂いだけが取り残された。

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