第3話


 大過なく荷を届けた砂山銀吾は、なりゆきで白夜の寒村に二週間ほど滞在することとなった。変化に乏しく迷いやすい地形を、教団から派遣されたスノーモービルの先導に従って丸一日北上したところに〈錆びた罪の教会〉はあり、砂山とボリスはその簡素なゲストハウスを当てがわれた。


 この世界の果てで、ふと立ち止まってみたのは激しい吹雪が続いたせいもある。外界が激しさを増した時、じっと身を慎んでいることがこれまでの砂山にはできなかった。


 最後の夜、とボリスが言った日、砂山たちの車の前に飛び出して来たのはターシャだった。眩いライトの合図が雪山の眠気が覚ましてくれた。その彼女がかいがいしく毎日食事を運んでくれる。


 近頃では、教主ロートアンゼルムは月に一度ほどしか姿を現さないらしい。構いやしない。会いたいとも思わない。おくびにも出せない本心を飲み込んだまま、祝福に満ちた日々を過ごした。


 釣りやトレッキングは、ロシアに来るまで見向きもしなかったが、いざ試してみればすぐさま夢中になった。不眠症には丁度いい。鬱蒼としたタイガの中で砂山は血生臭い己の過去が清められるような気がした。ターシャらは砂山とボリスを信仰の道へと穏当に導いていこうとしたが、ボリスはともかく砂山にその気はなかった。


 頼んであった衛星電話の使用許可が下りた頃には、ボリスとターシャはすっかりいい仲になっており、ボリスはヤバい仕事から手を洗うつもりだと砂山に言ったが、この教団の危険性ヤバさについては問うことはなかった。関係がない。まもなく、砂山はここを出ていくのだ。


 教義においてネットと個人電話の使用を禁止している教団にあって緊急連絡の手段は大仰で時代遅れな衛星電話しかなった。集会ロッジの裏手の薪置場で砂山は逸る気持ちを抑えて電話を掛けた。


「パラド」


 ――お久しぶり。そちらはどう?


「夜が来ない。不眠症さ。それより仕事はどうなった?」


 ――二人は始末した。証拠もない。ホロスコープの筋書きに沿って死んでいった。つまり


 どんな仕掛けでパラドが自分の手を汚さずに殺しを達成しているのかはわからないし興味もない。もちろん星占いで人を殺せるなど本気で信じちゃいない。星殺手シンシャーショウ。こいつは偶然を必然とたばかり、必然を偶然とすり替えることで人を殺す。


たしかだな」砂山を裏切った部下とそれを命じた幹部はこれで死んだことになる。


「私はしくじらない。いつ日本に帰ってきても、もうあなたをつけ狙う奴はいない。こっそり静かに生きるのもよし、もう一度組織を掌握するもよし」

「残りの金はいつもの方法で払う。聞かせてくれよ。奴らの死に様を」

「伊豆の別荘へ向かう途中に落石で死んだ。葬式で死に顔を拝むこともできないくらい愉快な面相に成り果ててね」


「そうか」とだけ言って砂山は電話を切った。


 気が付くと見慣れぬ男が横で薪を割っていた。


 一息入れようと煙草を咥えた初老の男は、砂山にもと一本を差し出す。虚を突かれた砂山だったが、受け取った巻煙草にマッチで火をつけてもらうと肩を並べ星なき白い夜空を見上げた。ただひとつ南の地平線近くに戦いの星である北落師門フォーマルハウトが明るく燃えている。


 ――星が殺す、か。


「異郷の客人よ」と髭を蓄えた痩せぎすの男が言った。「星は常に羅針盤だ。あなたの行く先を指し示す。神の御名のもと幸あらんことを」

 煙草に続いて首のロザリオまで渡そうとするので、やんわり固辞したものの、とうとう砂山は押し切られてしまう。ゲストハウスに戻った時、この男こそが、ペトロパブロフカ村の信徒がこぞって崇拝を捧げる偉大な教主だったと教えられた。


×   


 土下座で復縁が叶うなら安いものだ。


 須崎は内川ゆいの実家の前で連日土下座を続け、他でもない内川ゆい自身に通報されたのだったが、釈放された須崎を迎えに来てくれたのもまた彼女だった。半年ぶりのゆいはふっくらとして見えたものの下腹の膨らみは妊婦のそれではなかった。やはり須崎の子供など忌まわしいばかりで一目たりとも見たくなどなかったのか。須崎は悄然として俯いた。


 内川ゆいはむっつりと腕を組んだまま、元婚約者を睨みつけ、

「早産だったの。もうすぐ退院できるわ」

 さらりと告げた。


 みるみるうちに須崎の顔が明るくなる。


「いつ生まれた?」

「十月の二十四日」

 

 ――あの野郎、と須崎は、心の中でパラドを罵った。その日付はあの事件の日よりも前であり、つまりあの事故で死んだ男の生まれ変わりが自分の子であるなどということはあり得ない。脅かしやがって。


「今度こそ俺ちゃんとする」

「信じていいの?」

「約束する。赤ちゃんに会わせてくれる?」


 いいわ、と髪を靡かせて颯爽とゆいは前を歩く。こんなに力強いタイプだったろうか、と須崎は訝しく思い、ゆいの母親であることの覚悟を察した。自分の覚悟のほどはどうだ? この世界の向こうに逃げ出そうとしていたのはつい最近のことではないか。


 ――あの夜、落石で死んだ二人の男の身元はすぐに知れた。


 菱沼耀平、伏見レンティア。

 二人は、虚空夜叉、北落師門、SPAZZという三つの暴走族を統合した神州武走連合の幹部だった連中だ。対立チームのメンバー三人を、内部抗争で仲間を二人を殺し、海外逃亡した凶悪なリーダーの行方はいまだ知れぬままだという。あながちパラドは間違っていなかったのかも。本当に連中が多くの罪を重ねる前に、自殺志願者を差し向けて、それを止めさせようとしたのかもしれない。幻の占術である黒書と怪人パラドの存在はどこにも見えず――真相は闇の中であった。


 ともあれ血煙と怪奇の世界とは無縁に須崎は生きていくだろう。柔らかい産着の手触りと蔓のように絡みつく小さな指。それが全てだ。黒々と入り組んだ乱反射の出口に須崎はようやく立ったのだ。もう後戻りはしない。そう決めた。


 破線のようにジャンプしながら――少なくとも記憶の上では、時は流れていく。

 

 愛娘のオムツ代を稼ぎ出すためタイ料理屋の店長候補の募集に応じてみたのだったが、これが存外須崎の性に合っていた。タイ人のコックたちは陽気で人のいい連中ばかり。神経をすり減らす心配もない。引きこもり同然だった半年前に比べればまるで別人である。少しずつ借金を返済していきながら、地道に前へ進む。


 たったそれだけのことで妻は笑顔でいてくれる。娘は寝顔を須崎の腕の中に預けてくれる。そう、難しい事はない。それだけで十分だった。長い道草を終えてホームに帰ったのだ。今日も、健康であること、商売ができること、世に慈しみが溢れていることについて、店の祭壇にある手招きする女神ナーンクワックに感謝を捧げた。


「おい」


 シンハービールを注文した客は一心にテレビに見入っている。紛れもなく日本人だが、安穏に馴染まない異風の鋭気が感じられる。ぴりぴりと張りつめた佇まいの中に混じる不思議な鷹揚さ。若くはないが老いてもいない。首からは十字架のペンダントが下がっている。いや、あれはアクセサリーじゃない。れっきとしたロザリオだ、と須崎は思う。するとこの男は神父か何かか。


「はい、ご注文ですか?」

「見ろよ」と男はパッタイを口に放り込みながらテレビを指さした。


 モニターの中ではロシアで発生した爆破テロの惨状が映し出されている。狂信的な宗教団体が起こした暴挙。混乱と死が画面の長方形の中から禍々しく溢れ出てくる。担架で運ばれる子供たち。崩れた橋桁と川に浮かぶ死体。むごたらしい光景から須崎は目を背けた。


爆発ヴズルイフ」男はパッと手を開いて見せた。


「え?」呆気に取られて須崎は訊き返す。


 高性能爆薬、小麦の漂白、ボリス、と呟いた男は鼻を鳴らしてビールを干した。千鳥足で席を立つと、ズボンのポケットから取り出したクシャクシャの千円札を一枚一枚丁寧にテーブルに重ねていく。たったそれだけの所作に須崎は、はじめてパラドと出会った時のような寒気を覚えた。


 帰ってきた、と砂山銀吾は言った。


「星と踊るために」








 



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