第2話
シベリア杉の生い茂る荘厳な森を、
安らぎに満ちた暗い夜とはまもなくお別れというわけだ。世界の果てにまで来ちまった、と砂山はひとりごちる。行く先はイカれたカルトの根城でイカれた教主が砂山の届ける荷を待ち構えているはずだ。
ロマンチックな白い夜。めくるめく高緯度の
――安心しろ積荷は小麦の漂白剤だ。
コーディネーターのリャコブはそう言った。
「信じられるかよ」と思わず日本語で吐き捨てる。相棒のボリスは無反応に徹しており、運転席でまつ毛一本動かさない。
まるで何もかもが凍りついちまったみたいだ。
どうせ積荷はろくでもないものばかりだ。北朝鮮に遠心分離器を届けたり、モンゴルから貴重な仏像をかすめ取ったり、日本を離れてからずっとそんな調子だ。暴走族上がりの砂山が半グレ集団の権力闘争に敗れて国外に落ちのびたのは八年前。腹心の部下に裏切られてパクられる寸前のところをか細い伝手でもってロシア行きの船に飛び乗った。
以来、しがない運び屋風情になり下がった。
捲土重来の機を伺っているつもりだったが、そんな気勢もウォッカと気立てのいいロシア女のせいで削がれつつある。この地に骨を埋める自分の行く末を思描いてしまうことも幾度となくあった。ロシア語で名を刻まれた墓までも。
「最後の夜だ」
ロシア人には珍しく酒を飲まないボリスがぼそりと呟いた。積雪が深い。ATVの通った跡には轍というよりむしろ白い塹壕が現れる。優柔不断な太陽が沈みかける。最後の夜。ボリスにとって白夜とは夜ではないのだろう。夜とはタイムエリアのことではなく悪党が身を寄せる優しい暗がりのことだ。
それともボリスの不吉な声色は別の意味を含んでいるのかもしれない。最後の夜とはつまり――
人生最後の夜だという意味である。
かつて彼が属した反社会的集団よりも何倍も危険で、なおかつ愛想のいいカルト組織〈
――まったく救いがねえ。
森林限界線はもっと先だが、高木ははっきりと減少した。すっかり日が暮れた頃、砂山はついに訊いた。
「ボリス。俺たちは何を運んでるんだ?」
「知る必要はない」相棒はむずかるように頬を引き攣らせた。
「教えろよ」
ややあってボリスは右拳を突き出し、それをパッと華のように開くジェスチャーをした。
「
別に驚きはしない。爆薬か、その材料だろう。俺の運ぶ荷が未来において何百もの命を奪おうと知ったことか。あくまでも自分は小麦の漂白剤とやらを運んでいるのだし、ボリスのロシア語なんてどんな風にでも解釈できる。ヴズルイフとはハス科の花の名前で、運んでいるのはその肥料かもしれない。
その時、前方の暗がりに光の輪が踊った。
何かが猛烈な速度で近づいてくる。
×
――あなたの子供なんて産むわけないじゃない。
数か月ぶりに通じた電話の向こうで、内川ゆいは呆れたようにそう言って溜息をついた。通話が切れてのち連絡は絶えた。生きているうちに運命は好転しない。やはり死んで生まれ変わる必要がある。須崎の愛好する小説にある世界にもしかしたら行けるかもしれない。耳の尖った麗人や直立歩行の豚がいる異界かはともかく――この場所、この時刻に指定通り命を散らすならば、最高の境遇へ生まれ変わることができるだろう。そうパラドは保証した。
冷え込んだ晩秋の山奥の凍った路面に須崎は真っ黒なライダースーツでバイクに跨った。車体もまたマットブラックでペイントされており光をまるで反射しない。吸いつくような黒。これが俺の死に装束なのだと須崎は思った。谷側に老朽化したガードレールがあるが、そんなものは気休めに過ぎず、ちょっと勢い余れば、死への転落が待っている。大丈夫と須崎は言い聞かせる。ここは何十回と予行練習で通ったから、真っ暗闇でも道を逸れることはない。
「俺はやれる。手筈通り、真正面からぶつかってそれで終わりだ」
己を鼓舞するように須崎は繰り返した。街灯とてない山道は真っ暗闇で須崎の姿は呆気ないほど簡単に見失われる。
これが最後の夜か、とどこか他人事のように考える。朝を迎えることはもうないのだ。ゆいは須崎の子供を堕胎したのだろう。黒書では生まれることのなかった子供はどこへ行くのだろうか。次にパラドに会ったら訊いてやろうと思ったものの、その次が自分にはないのだと須崎はゾッとする。
――相手を巻き込んでその悪事を止めないと君の死は独りよがりな自死となる。
ああ、わかっている。その先は地獄だというのだろう。
――だから、入念に準備し冷静に事をし遂げるんだ。
もちろんだ。もう現世には行き場なんてない。向こう側にしか希望は見いだせない。
須崎はアクセルをふかした。バイクの調子は悪くない。パラドの計画通り、山裾から大きな車体がせり上ってくる。高排気量の駆動音と回転するウィール。作業場で見た六道輪廻図を思い出す。無常大鬼ともマハーカーラとも呼ばれる鬼神が
――六つの世界の下半分は三悪趣と呼ばれていてね。地獄、畜生、餓鬼、これらは望ましくない世界だと言われている。
畜生とは獣の世界のことだ。
食うか食われるかの厳しい世界。内臓を抜き取られ、防腐処置されたあげく剥製にされる、そんな世界。餓鬼はあさましい貪りの世界であり、修羅は我執と闘争の果てない戦場である。かといって愉楽に満ちた天界には向上の契機がない。
だからパラドはこう言った。
――結局は、君が立ち去ろうとしている人の世界が一番好ましい場所とされている。
下らない説教で引き留めようとしても無駄だ。誰がどう言おうとここはろくでもない。もっともっと素晴らしい世界がなくちゃいけない。須崎は弾丸のように飛び出した。路面の凹凸も森のフィトンチッドの匂いも須崎の感覚器官を通り過ぎていく。すべてを振り切って事を為すのだ。ろくに眼も開けないままの須崎が駆る300ccツーストロークエンジンのエンデューロバイクは漆黒の旋風となって深山を吹き下った。このまま前方より迫る大型車のヘッドライトの中へ吸い込まれていくはずだった。
ハイビームに貫かれて死への距離と時間が定かになる直前、不気味な地鳴りが響いた。エンジン音でも虫の声でもない異音が夜のしじまを破る。恐怖という小石のような雑念が須崎の覚悟をかき乱す。これから死のうとする身にとって何を恐ろしいことがあるものか。そう言い聞かせても山が蠢くような鳴動に本能が竦み上がる。
たまりかねてアクセルを緩め、バイクのライトを点灯させると、突如出現した対向車に相手は急ブレーキを踏んだ。速度を落としたその真上から大岩が転がり過ぎ、一瞬で車体は半分以下に縮んだ。転倒して火花を散らしながら横滑りした須崎のバイクにも横殴りの飛礫が無数に叩きつけられる。ヘルメットを被っていなかったとしたら、間違いなく須崎は死んでいただろう。
いや、死ぬつもりだったのだ、それの何が悪い? 土砂崩れの落石か。何がどうなっている? 目の前には自分を殺してくれるはずだったトヨタ製の金属塊が佇んでいた。どんな人間が乗っていたのだろうか。運転席に外国人の顔がちらりと見えたのは覚えている。
――死んだのが俺みたいなクズならいいのだが。
薄れる意識の片隅で須崎は自嘲した。
×
膜を隔てたようなぼやけた視界。
誰かがそこにいる。柔らかいシルエット。女だろうか。
「ゆいか? 行かないでくれ。話したいことがあるんだ」とまくし立てるが、そっけない男の声を返されて須崎はようやく正気に戻る。
「パラドです」
「あんたか」考えてみればゆいのわけがない。ここはどこなのだろう。簡単な手当が施された自分の身体を眺めてみる。ほんのりと、またあの桃の香りがする。
「山小屋です。わたしは剥製職人。狩りのための小屋のひとつくらい確保している」
「生きてるということはしくじったみたいだな」
「ええ、完全なる失敗です。前日の大雨で緩んだ斜面が崩れたのでしょう」
須崎の登場でブレーキをかけなければ落石をやり過ごしていただろうと思うと車の二人を殺したのは須崎に違いなかった。
占い師の口調は咎めるようではなかった。
「大きな怪我はありません。わたしのことは口外しない。そう約束するなら前金も返しましょう。あなたに自殺の才能はない。不様に生きなさい」
「待て、俺は……」
「死ぬのを止める理由はまだあります。内川ゆいさんはあなたの子供を産むでしょう。推命学的に見てお二人の相性はぴったりです。あなたが心を入れ替えさえすれば万事うまくゆく。あなたとの子供を処置したなんて嘘ですよ」
「信じられない」
「ご自由に」
こうきっぱり断言されてしまうと気弱な須崎は抗弁できない。
「あいつらは誰だったんだ? 本当に悪党だったのか」
悪党? 窓際に立ち背中を向けてクスクスとパラドは笑った。この男が笑うとは信じられなかった。できればその表情を拝みたかったが、見るのもまた恐ろしい。
「あなたと同じですよ。素晴らしい転生を願って死を求めていた。あちらはどうやら成功したようですね。もっとも吉祥の時間と場所で死ぬことができた。しかも自死ではなく落石という不可抗力で死ぬことができたのですから結構なことです。必ず貴命を得て転生するでしょう」
「どこだ? どこへ生まれ変わる? 惨めったらしく潰れたあいつらに一体どんな未来があるというんだ!」思わず須崎は喚いていた。未舗装の道に散らばる岩石と砂利。流れ出るガソリン。そして血が、フラッシュバックする。
「ひとりは天に生を受けます」
もうひとりは――とパラドは唇を歪めた。
「これから生まれてくるあなたの子となって人の世に住まうのです」
天地が傾くような眩暈。
――ふざけるな、と須崎の喉が叫び出そうとした瞬間、電話のコールが鳴る。
仕事の電話です、と断って、細面の占術家はそれを受けた。
「……そちらは? 不眠症? 夜が来ないなら朝もまた……そう終わらない」
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