白夜のフォーマルハウト

十三不塔

第1話


 百獣の瞳が男を見つめていた。

 雉、熊、鼬、狸、狐、狼、それに爬虫類や魚までもが。

 がらんどうの視線。それを受け止めるのもまた一対の瞳だったが、彼我の間には決定的な違いがある。すなわち生と死である。


 そう。獣たちはすべて剥製であった。対して男は――須崎帯人は生者であり、呼吸と鼓動をもって――現世にしがみついていた。


「彼等の仲間に加わりたいんだね」

 パラドは嫣然えんぜんと誘いかけた。


 彼は作業の手を休めることはない。トレイのメスはパラドの手に取られて、鋭利な踊りを披露する。作業台の上には得体の知れぬ動物が腹を裂かれた状態で横たわっている。臓腑を取り出され、詰め物をされるのだ。壁中に掛けられた野生獣の首やポージングされた鳥類。


 枝角に添えられた薔薇のプリザードフラワーの中には、これも標本になった甲虫の姿が潜んでいる。加えて巨大な冷蔵庫がいくつもあるのが不気味だった。決して狭くはない空間であるにもかかわらず言い知れぬ圧迫感がある。


「ば、馬鹿言わないで下さいよ」


 男女の別とて知れぬ、それどころか年齢すら不確かな相手に須崎はたじろぎ、持ち前の卑屈さが漏れ出してしまう。白くきめ細やかな肌にはラメを吹いたように汗が光る。束ねられた髪はあくまで黒く艶やかで、その黒さは動物の血の滑りと親和する。


「あなたは占い師だと聞きました」

「まあね」

「だったら――」

「ああ、話を聞かせてもらおう」


 この男が剥製職人とは聞いていない。須崎は深層ウェブを彷徨ったあげくに怪しげなスレッドで凄腕の占術家の噂を耳に挟んだのだ。評判は様々だった。曰く、脅威の的中率の誇る天才占い師である、神通力を備えた仙人である、はたまた単なる詐欺師、あるいは後ろ暗い犯罪に絡んだ危険人物とも。


「わかりました」


 須崎は己の恥多き人生を洗いざらい語った。中年に差し掛かる歳になってまで子供じみた小説やアニメに耽溺したあげく、信頼できる友のひとりも得られなかったこと。親から受け継いだ財産を仮想通貨で丸ごと溶かし切ったこと。そんな自分に惚れてくれた婚約者の貯金までも使い込んだこと。さらには同棲していた彼女の妊娠を知らされても、真っ当に働こうとしなかったあげくの果てに、とうとう愛想を尽かされてしまったその顛末まで。


「それで終わり?」

「ええ」

 

 話してしまえばものの数分。須崎の人生などあっけないものだ。パラドは黙々を作業を続けた。床を這うホースを踏みつけて須藤はグッと息を詰まらせる。まるで自分の内臓を抜き取られていくような錯覚に陥った。


「で、何を知りたいの? 彼女を取り戻したいという相談? それとも仮想通貨なんかよりもっとお手軽で確実なお金の儲け方かな?」

「いいえ、そんな都合のいい願いは抱いてません。『黒書』という占いがあるそうですね」


 ゆっくりとパラドが面を上げる。涼やかでありながら、空恐ろしい美貌である。


「どこでそれを――いや、それはいい。黒書はね、かの金瓶梅に記されている占術なんだ。架空の占いとも失伝したとも言われているが、それは慥かに現存している。ただし普通の占星術ではない」

「死の刻によって占うとか」

「世に占星術なら文字通り星の数ほどあるよ。それは人の誕生と星辰の配置に符合を観るものだ。黒書は違う。人の死と宇宙との間における照合を測り――

「それを観てもらいたいんです」

「君は死んでいない。これは亡者の行く末を案ずる親しき者たちのための占術だ。どうしてまだ起きていない自分自身の死でもって占うことができる?」

「俺は生きていても仕方がない。この手で自分を始末して終わりにしたいんです。でも生まれ変わったらもう少しまともな人間になりたい。だからよりよい日時に自殺する。もっと俺が俺らしく生きられる世界に生まれ変わるため」


 この後に及んでもまだ須崎は己の不遇を世界に押し付けている。救いようのないクズだ、とパラドは口にしてもよかっただろう――


「なぜわたしが占術をしていると思う?」


 だしぬけな問いかけに須崎は口ごもる。


「人間を剥製にすることはできないからさ。しかし命盤ホロスコープはまさに人生の縮図としてその人の生死を映し出す。ここの剥製たちが皆生きている如く死んでいると同じようにね。静と動とが凝縮され、苦と楽とが凍結され、無と有とが接合される」


 血とホルマリンの混じり合った臭いが鼻を突く。なめし剤の臭いは不快ではなかったが、気を休ませてくれるものではない。うっとりとパラドは自らの作品たちを一瞥すると最後に険しい眼差しを須崎に向けた。


「どんな素材でも剥製にしたいわけじゃない。やはり美しくて疵のないものがいい」

「無理なら無理と――」


 絶望の色を浮かべる須崎を遮ってパラドが首を振る。


「自殺は罪だ。どんな吉祥のタイミングで死のうと自死によって落ちる世界は地獄と決まっている。あえて地獄に落ちたいのなら別だが」

「結局、落ちるべきなのかもしれませんね。地獄に。どうせ生きていても地獄なんだし」


 憐れみを引くかのように須崎は低く呟いた。


「本当に? それがどんなに恐ろしい場所なのかわかっているのか。絵巻物の中のおとぎ話に過ぎないと?」


 ふいにパラドは上方を指さした。促されて見上げてみれば、そこには荘厳な天井画が描かれていた。巨大な生き物が何やら円盤のようなものを腹に抱えた、おどろおどろしい図であった。円盤は六つの区画に割ってあり、それぞれに細密な絵がある。


「六道輪廻図。魂が経巡る六つの世界を表した仏教の世界観だよ。伝統的に地獄界は畜生界の隣接して描かれる。そしてここは――」


 獣たちのさんざめく畜生界。恐怖と生存本能だけが存在する動物たちの世界。すると、この部屋の隣には地獄があるということか。ぶるぶると須崎は震えた。パラドの薄い唇から離れた文言はなぜか蠱惑的な説得力を持つ。本当に地獄とその業火が間近にあるような、そんな気配である。


「帰ります。下らない現実逃避だったんです。俺なんかは放っておいてもそのうちくたばるでしょうし、お手を煩わせることもありませんでした」


 逃げるように後じさる須崎に、待ちなさい、と一言告げて、白皙の優男はビニールの手袋を脱ぎ捨てて詰め寄った。血にまみれたエプロン。しかし、ほんのりと匂ってきたのは桃に似た甘い香りだった。


「興味深い発想だ。死を自ら選ぶことによって転生の行く先を操作するとはね。しかし似たような事例はある。誕生の刻限を人為的に調節して最も適切な運命を皇帝に授けること。吉祥の時に母胎から嬰児を取り出す危険な所業を人は為してきた。天命を思うままにしようとする蛮行。帝王切開とはまさにそれに由来する」

「でも、自殺はダメなんでしょう?」

「ああ、それは大罪だ。しかし君の死によってより多くの人が救われるとしたら?」


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