忌まわしき牡鹿
下村アンダーソン
忌まわしき牡鹿
なぜいつも布を被せたままなのか、と貴女が仰ったのは、五度目の来訪の折でした。
むろん、貴女の目的は最初から承知しておりました。あの壁に飾られた牡鹿の首の噂を聞きつけて、お越しになったのでしょう。貴女の目がわたくしを見ていないことを、友人として振る舞おうとする仕種がどこか空々しいことを、わたくしが気付かなかったとお思いですか?
いえ、そのようなことはどうでもよいのです。わたくしにとって友と呼べるのは、生涯にただひとりを措いていないのですから。
しかしあの部屋に人を入れたのは、久方ぶりのことでした。いきなり札片で頬を張るような真似をしなかったのは、ここ数年、貴女だけです。
見てもよろしいですか、と問われたときのわたくしの返答を、貴女はさぞ不可解に思ったことでしょう。構いませんが、布を外すのはわたくしが後ろを向いてから。見終えたらすぐに元の状態に戻してほしい、布を被せるまでは決してわたくしに声をかけないでほしい――そう、わたくしは貴女に告げたのでした。
見ることさえ苦しいなら、必ずや手放すだろう。貴女のお考えはもっともなことです。首を買い取りたいとのお手紙、確かに拝読いたしました。
しかし結論から申し上げれば、返事はノーです。わたくしは決して、あの牡鹿を売る気はありません。
どうか勘違いをなさらないでください。誓って、金額の問題ではないのです。誰にどれほどの条件を出されようとも、わたくしはあの首とともに生き、死なねばならないのです。
困惑なさったでしょうね。せめてものお詫びのしるしとして、その理由を、そしてあの牡鹿がわたくしにとってどんな存在であるかを、貴女にお伝えしたいと思います。お力落としのことでしょうが、わたくしの正直さに免じて、どうかご容赦いただければと存じます。
わたくしは、わたくしが殺したあの牡鹿によって、殺される日を待っているのでございます。
***
忌まわしき牡鹿は、名を、テオドールと申します。
わたくしが名付けたのではありません。その美しい名を与えたのはマグダレーナ、もっとも愛おしい、わたくしの友でございました。
わたくしとマグダは幼いころ、こことは程遠い、森の隣り合った屋敷に住んでおりました。近くには他に子供もおらず、森を離れることも稀でございましたから、わたくしたちはいつも、一緒になって遊んでおりました。思い返せばあのときほど、幸福だったことはありません。
森の奥まったところには、小さな泉がございました。四方を木々に囲まれた、秘密めかした場所です。わたくしたちはそこを聖域と呼んで、ふたりの特別な場所として扱っておりました。服を脱ぎ落して水を浴びることを、柔らかな草の上に寝転んで語らうことを、わたくしたちは何よりも好んでおりました。
マグダはよく花の飾りを拵えて、わたくしの首にかけてくれました。彼女の白い指が花々を摘み取るのを、蔓を絡み合わせるのを、何度となく間近に見ておりましたが、わたくしは今もって、あれらの花飾りは魔法によって生み出されたものと思わずにはいられません。色褪せることも枯れることもない宝物であると、幼いわたくしが信じ込んだのも、無理なからぬことでございました。
ヴィサラのためだけに作るの、といつでもマグダは言いました。わたくしがどれほど有頂天だったか、貴女にはお分かりにならないでしょう。あの頃のわたくしにとって世界とは森であり、泉であり、そしてマグダでした。わたくしたちはともに永遠のときを寄り添うのだと、一片の疑いさえも抱かずに、わたくしは信じていたのでございます。
ある清浄な朝のことです。わたくしとマグダはいつものように、水浴びを終えて横になっておりました。体が乾くまでは衣服も身に着けませんから、草の感触がじかに肌に伝わってきます。本来ならば他の何よりも、心安らぐ時間のはずでございました。
ところがその日、わたくしはいつもとは違う感覚に見舞われて、心が千々に乱れておりました。水の中で幾度となく目にした肌が眩しく、狂おしく誘われるようで、とても穏やかに寝入っていられる心境ではなくなっておりました。
マグダ、と名を呼ぶと、彼女はゆっくりと寝返りを打って、こちらに向き直ります。視線があった刹那、わたくしは無我夢中で腕を伸ばし、彼女の体を引き寄せておりました。
マグダは一瞬、驚いたような表情を覗かせましたが、わたくしを拒むことはありませんでした。そうしてわたくしたちは肌を触れ合わせ、今にも唇を重ねようとしました。
そのときのことです。マグダがはたと顔を上げ、わたくしから離れていったのです。
「どうしたの?」
「何かいる。静かにして」
マグダは衣服を手繰り寄せて胸元に抱くと、森の暗がりに向けてそろそろと歩いてゆきました。わたくしが身を固くしたままその様子を見つめておりますと、不意に草藪が震え、中から小さな影が飛び出してまいりました。
「見て、ヴィサラ。仔鹿だよ」
そこに居たのは確かに、小柄な獣でございました。薄らとした栗色の毛に覆われた、どうやら赤ん坊の鹿です。その頭部にはほんの小さな――そう、あの頃はまだ小さかったのです――一対の瘤のような角が、突き出しておりました。
「おいで。私たちと遊ぼう」
マグダがそう呼びかけると、仔鹿は跳ねるように近づいてきます。やがて彼女の真正面まで至ると、その頭部をマグダの肌に摺り寄せました。彼女は途端にぱっと目を輝かせると、
「可愛い子。そうだ、私からいいものをあげる。友達のしるしだよ」
言いながら手を伸ばしたのは、石の上にあった花飾りでした。水浴びをする前に熱心に拵えていた、魔法の花飾り。
止めに入る間もありませんでした。マグダは何のためらいもなく、それをけだものの首にかけたのです。
「あなたの名前はテオドール。素敵でしょう?」
仔鹿は、小さく頭を傾けました。
それからというもの、わたくしたちの遊びには必ず、牡鹿が混じるようになりました。聖域たる泉の近くに住み着いているものらしく、わたくしたちが出掛けると必ず、森のどこからか姿を現すのです。気配で分かるのか、匂いを辿っているのか、ともかくも森に入ってゆくとすぐ、鳴き声と足音が聞こえてくるのです。
これにマグダはすっかり喜んで、牡鹿を隣で歩かせるようになりました。いつの間にかわたくしはその後ろ――仲睦まじく並ぶマグダとけだものを眺めるばかりの場所に、追いやられることになったのです。
そんなふうにして時が過ぎました。幾度もの季節が巡って、テオドールは見上げるほどの逞しい牡鹿に成長しました。長くしなやかな足、盛り上がった肩、そしてあの、複雑に絡み合った枝のような角――わたくしの目にも、それは見事な生き物でした。今にも天へと駆け上がってゆくのではないかと、このわたくしでも思わされるほどでした。
「ねえ、ヴィサラ」
ある日のことです。振り返りもせずに、そうマグダが言いました。わたくしの目の前を行くテオドールの角には、彼女の手作りした花飾りが無数にもかけられておりました。
「あの日、貴女が泉に誘ってくれて、本当によかった。こんな出会いがあるなんて、思ってもいなかった。だから、ありがとう」
ああ、と私は音もなく息を吐きました。もはやマグダにとってあの日は、ただテオドールという獣と出会った日なのです。わたくしの目も、肌も、唇も、何一つとして、彼女の記憶には留まってはいないのです。胸の内側が黒々と染まっていくのを、わたくしは感じておりました。
何としてもこの獣を遠ざけねばならないと、わたくしは確信したのです。
ほどなくして、街に噂が流れました。とある森に聖獣が住んでいること。それは肩でさえ見上げねばならぬほどの、途方もなく大きな牡鹿であること。その首を獲った狩人には、褒美として大金が与えられること――。
人々は躍起になって、聖獣の住処を突き止めようといたしました。その熱気の凄まじさたるや。街とは間遠い森に暮らすわたくしたちのもとにさえ、気配がすぐさま伝わってくるほどでした。
「聖獣って――テオドールのことじゃない?」
そう不安げにマグダが訊ねてくるまで、たいして時間を要しませんでした。そこでわたくしは重々しげに頷き、こう答えてやったのです。
「間違いなくテオドールのことだよ。見上げるような牡鹿なんて、他にいないもの」
途端にマグダは顔色を青褪めさせ、身を震わせました。わたくしは彼女に近づき、本当に久方ぶりにその耳元に唇を寄せて、
「ねえ、マグダ。ここにいたら、テオドールはすぐに見つかっちゃう。今ならまだ間に合うから、私たちの手で遠くに逃がしてやろうよ。人間には立ち入れないような、高くて嶮しい山に」
これはわたくしにとっての、精いっぱいの譲歩でした。ただテオドールがこの森から失せさえすれば、いま一度わたくしたちの聖域を取り戻せる――そう信じたがゆえの。
小刻みに震えつづけるマグダを抱き締め、わたくしは続けました。必ずや上手く事が運ぶとの確信が、その瞬間までは胸に漲っていたのです。
「大丈夫。テオドールは独りでも生きていけるよ。こんなにも強くて、逞しいんだもの」
頷いてくれものと疑いませんでした。ところが顔をあげたマグダは、わたくしの目を見据えて、確たる口調でこう応じたのです。
「独りでは行かせられない。私も、テオドールと一緒に行く」
こうしてマグダは去り、色褪せた森と泉だけが残りました。どれほど悔いたところで彼女は戻ってはこない――独り置き去りにされたわたくしはただ、狂わんほどの激情に支配されるばかりでした。テオドール。忌まわしい牡鹿。わたくしのすべてを奪い取った、あのけだもの――。
涙と悔恨の日々のあと、わたくしは銃を取りました。
こうなればこの手で、テオドールの首を獲ってみせる。その体から、魂を引きずり出してやる。
山の雪も、氷も、わたくしの感情を冷ますことは決してありませんでした。何人もの狩人たちが力尽き、去り、倒れていった道を、わたくしは不断の覚悟で歩みつづけたのです。影を、足跡を、匂いを、気配を探し求め、あらゆる記憶と感覚を総動員して、わたくしはテオドールを追いました。また数えきれないほどの季節が廻り、森の聖域に住んでいた頃は遠い過去のものとなりました。
そうして遂に、わたくしはあの牡鹿を見つけ出したのでございます。
テオドールは崖の上に立って、景色を見ておりました。薄い栗色の毛皮も、長い脚も、見事に伸びた角も、わたくしの記憶のままです。物陰に潜んだわたくしは銃を構え、ゆっくりと狙いを定めました。
引き金に指をかけた瞬間、ふと牡鹿がかしらの向きを変えました。わたくしを見据えていた――そう、あのとき確かに、テオドールはわたくしを見ていたのです――丸いふたつの目が湛えた悲しみを、今もってわたくしは忘れることができません。
銃弾が放たれた刹那、森の中から駆け出てきた影がありました。それは真っ直ぐにテオドールのもとへと向かい、その首に両腕を絡めて抱き着いたのです。
一糸まとわぬ姿でした。眩しいほどに白い肌に目を射られ、わたくしは反射的に銃を放り出しました。記憶の中に住んでいたものよりも年を重ねた、しかし変わらずに美しい娘――マグダが自ら、けだものを庇って銃弾の前に身を晒したのでありました。
強靭な弾丸は過たず、ふたつの肉体を貫きました。マグダとテオドールは重なり合って倒れ、その血が雪を染め上げました。
わたくしが駆け寄ったとき、マグダにはまだ息がありました。わたくしの愛おしい人。唇の端に血の泡を浮かべながら、彼女は静かにこちらを見返したのです。
罵られていたなら、拒絶されていたなら、どれほど良かったことでしょう。ここにいるのはもうマグダではないのだと、獣によって狂わされた哀れな生き物でしかないのだと思えたなら、どれだけ救われたことでしょう。この手で命を奪ったのは二匹のけだものだったのだと信じられたなら、わたくしがこれほどまでに胸を裂くことはなかったに違いありません。
しかしマグダは、わたくしの記憶の中のマグダそのものでした。長い年月を獣とともに生きたことで言葉を、人間の記憶を失ってこそおりましたが、その目に宿した無垢な光は寸分の狂いなく彼女自身のものでした。わたくしに魔法の花飾りをくれた、あの少女のものでした。
「ああ」
死に際のマグダはわたくしを憎むことも、恨むこともしませんでした。ただ透明な悲しみだけを、最後まで湛えておりました。
わたくしはそっと、マグダから手を離しました。彼女の体は再び倒れ、テオドールの骸と重なって、十字架の形を成しました。
冷たい、冷たい雪の中で、わたくしはテオドールの皮を剥ぎ、首を落としました。ただ寒く、静けさだけがあったのを覚えています。魂が消えていくのはこういうことなのかと、雪山の静寂の中でわたくしは思いました。ただすべてが虚しいばかりで、なにも残りはしないのだと。
持ち帰ってきたテオドールの首は、もっとも腕利きの職人に依頼して剥製としました。あの壁にかけてあるのがそう、テオドールです。彼はわたくしを常に見張りつづけ、少しずつ、少しずつ魂を吸い上げんとしているのです。
わたくしがテオドールを追ったように、テオドールもまたわたくしを追っているのです。どこに逃げようとも、その意思が絶えることはないと確信できるからこそ、わたくしは彼を手放さず、屋敷に留まらせることを選びました。これはわたくしたちにとっての、次なる闘いなのです。生ける人間と、死せるけだものとの。
闘いが終わるとき、わたくしとテオドールは再び、マグダのもとへと向かうでしょう。どちらが真の勝者となるかは、彼女の手に委ねるほかありません。わたくしは待ちわびているのです――この首に、マグダの魔法の花飾りが、再び与えられるのを。
忌まわしき牡鹿 下村アンダーソン @simonmoulin
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