「聖者の食卓」
あるユダヤ人が、死を待つだけの牢獄から脱出を試みた。連帯責任で、無作為に選ばれた十人が、一緒に殺されることになった。巻き添えを食らった男の一人が、故郷に妻と子供が居る、死にたくない、と暴れたので、別の男が手を上げた。
「その人を許してあげて下さい。私が身代わりになります。私は司祭なので、妻も、子もいません。私を代わりに処刑して下さい。」
兵士達はそれを了承し、彼を含めた十名あまりを牢に入れた。餓死させるためだった。
⌛
腹が減った。
死を待つだけの空腹は酷く恐ろしい。この後この口が、何も食べないと言うことだ。死んだとしても、ゴミのように埋められるだけだ。今自分達を見張っているユダヤ人達ですら、自分達の死体に貴重な食料を、例え腐っていたとしても備えてはくれないだろう。
「くそっ! あいつ…!! あいつののど笛を食い千切ってやりてえ…!」
「おい神父さんよ、何か言ったらどうなんだよ、アンタ犬死にだぜ。誰も聞いちゃいない、聞いたところで外に漏らせねえ、弱音吐いたっていいんだぞ。」
空腹に悶えながら、あるユダヤ人が、身代わりになった司祭に絡んできた。司祭は目を閉じて静かに手を組んでいたが、傍らに居た、場違いに白い服を着た別の司祭に揺り起こされ、顔を上げた。
「はい、何でしょう?」
「何でしょう? じゃねえよ。泣き言の一つや二つ、言って見ろって言ってんだ。」
「うーん………。ローマンさま、この場合、ぼくは何か言うべきでしょうか?」
「え、俺に聞くの? お前への質問だぜ、コルベ。」
「でも今のぼくはとても弱っているので、一人で答えるなんて出来ません。もう少し祈らせて下さい。」
赤毛の司祭は、困ったように頬を掻いたが、そのユダヤ人は誰でも良かったようで、つっかかる矛先を変えた。
「アンタでもいいや。なあ、おれ達が何をした? ただユダヤ人だっただけだ。何も悪いことしちゃいない。一緒に頭の足りない奴らやホモや、兵役拒否した奴らも殺されるらしいが、俺たちゃあいつらみたいに、社会の秩序を乱したか? 国として敵対すらしてねえ、本当に、ただドイツに移住して、その先祖からこっち、ずっと住んでただけだ。税金だって納めたし、兵役だってやった。あそこにいるユダヤ人をみろ! 同胞を見殺しにする仕事に就いてるのに、あいつらだって殺されてるのを知ってる! どうしてだ!! おれ達が何をした!? ここに押し込められてからだって、ナチ共の言う通りにしてきたのに! 違反したあいつはこの中に居ない、この中にいない!!」
倒れかかるように掴みかかってきて、息を詰まらせながら、男は神父と神を詰る。だが二言三言、罵っただけで力が出なくなったらしく、崩れ落ちた。涙を流すための水分もエネルギーも節約して、握り潰したトマトのように声を絞り出す。
「ブーバー、ユダヤ人だから苦しんでいるんじゃない。人生の苦しみは、そんなものの為にあるんじゃない。」
「じゃあ何だって言うんだ!? ユダヤ人がイエス・キリストを殺したから恨まれるんじゃないのか! イエスさまはユダヤ人なのに!」
「そうじゃない、そうじゃないよ、ブーバー。ユダヤ人が殺されるのも、障害者が殺されるのも、先祖の行いは関係ない。」
「綺麗事だ。アンタは何もかも神に捧げちまって何も無いから、何もかも無くしたおれ達の気持ちが分からないんだ。」
どう言っても伝わりそうにない。赤毛の司祭が、ブーバーの背中をさすり、手を握って否定するが、彼の心には届かないようだった。
「コルベ、俺じゃ無理だ。お前でないと。」
「―――はい、大丈夫です。主が答えて下さいました。」
神父がよろよろと立ち上がるので、司祭はブーバーの手元から、神父に肩を貸した。神父は餓死した腹の虫の死骸を、服の上から撫でながら言った。
「皆さん、大丈夫です。主が補って下さいます。何かモノが入っている器に入れるとき、主は先に入っていたモノを取り出されたりしません。」
嘘だ、と、ブーバーではないユダヤ人が叫んだ。
「何もかも奪われたから、ここにいるのに!」
「本当に大事なものは、奪われてなんかいないはずです。貴方は、家族はいたのですよね?」
「ああ、いたよ。でももう、ナチに全員殺されちまったよ! 俺の宝だった! 神が奪ったんだ、隠れ家をナチ共に教えたんだ!」
「そのご家族を、今でも愛していますか?」
「当たり前だ。忘れたことなんかない。」
「では、ナチは、貴方の家族への愛や思い出を奪うことは出来なかったのです。それこそが、一番大切なものです。どんな権力者にも奪うことは出来ない。唯一奪える御方は、貴方から奪っていないのです。主を信じる者が永遠に生きるように、貴方が生きている限り、貴方の家族も生きるのです。」
納得したのかしていないのか、そのユダヤ人は押し黙った。神父は、コルベは、めいいっぱい、手を持ち上げて広げ、呼びかけた。
「皆さん、絶望するのはまだ早いのです。神の御業が、私達に為されきっていない。為されきった時が、私達がここから出る時です。ここには信仰があります。ここにあります。だから、絶望するのは、神にすら見捨てられたという有り得ないことが起こってからでも、遅くないのです。」
コルベの震えた声は、ユダヤ人達の中にあった何か恐ろしい空白を満たした。空腹で虚しくなった腹に、パンとミルクを流し込んだかのように。
⌛
一人、また一人と死んでいく。すぐ近くの別の牢屋からは、飢餓で錯乱した声が聞こえてくる。彼等にも声をかけようとしたコルベだったが、彼等自身の声で届かなかった。コルベはせめて、他の九人だけでも、と、献身的に説教をした。説教をすれば頭を使う。声も使う。力も使う。飢えと渇きが激しくなるだけだ。それでも赤毛の司祭が彼の手を握り、抱きしめると、彼は元気を取り戻し、また説教をした。
一人、また一人と死んで行く。ついにブーバーの番が来た。ブーバーは空腹で吐きそうになりながらも、手を伸ばしてコルベを呼び、手を握るようにせがんだ。コルベがそのようにすると、ブーバーは掌の鼓動を通して、最期の説教を求めた。コルベは口を開いた。
「初めの頃、私は、主は大事なものを取り上げない、といいましたね。覚えていますか。」
ブーバーの目が頷いた。
「それでも私達の心は引き裂かれました。こんな残酷な死に方を強要されて、悲しくない筈がありません。その所為で皆、狂いそうになっていました。でも、人間は生きている限り、心が完全に満たされると言うことは無いのです。人は、心の中の、どうしても満たされない部分を見て、苦しむのです。それは、お金でも、愛ですらも、埋めることは出来ません。」
ブーバーの目が、白く動き始めた。コルベは最期の言葉を届けられるように身を乗り出す。
「その隙間を、その隙間を埋めてくれるものこそが、神なのです! 信仰ではありません。私達が愛する神が、埋めてくれるのではありません。私達を愛する神が、埋めて下さるのです!」
ブーバーはもう、反応しなかった。コルベは十字を切り、ブーバーの薄い瞼を降ろした。
「聞こえましたでしょうか、ローマンさま。」
「ああ、聞こえたさ。見てみろよ、この死に顔。」
もう鳴らない腹時計。
ああでもその死顔の、なんと満ち足りた事か。
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