「おじいさんの古女房」

 フランスのある豪商の老人が、余命を告げられた。悲しみはしたが、後悔はない。大恐慌、戦争を生き延びて、孫は子供を産んでいる。その子供の一人は、最近結婚が決まった。この上玄孫まで見たい、と欲を出すのは、間違いというものだ。

 老人は骨董品を集めるのが生涯の趣味だった。特に時計を好んだが、それらはいつも正確に時を刻めるように、手入れをされていたし、満足するまで鑑賞すると、その時計は次の持ち主の元へと渡った。骨董品は愛玩物なので、そのようにしないと死んでしまうのだという。

 ただ一つだけ、老人が大切にしていた時計があった。子供用の玩具の時計で、ねじ巻きで一時的に正確な時間を示すもの。そのねじも、金属疲労で折れてしまって久しかった。それでも老人は大切にしていて、錆は勿論、曇りが出ることもないように、丁寧に磨いて大事に持っていた。持ち歩くから、鎖を通す穴は壊れていたし、蓋の蝶番も壊れていたし、針も僅かに歪んでいる。これ以上直そうとすれば、逆に壊れてしまう、とさえ言われた程だった。

 老人は、その時計を本当に、大事にしていたのである。



 その日老人は、いつもより遠出をして、散歩に出かけたいと言った。彼の一番下の孫が、車いすを押して連れて行ってくれることになった。老人はその昔、パリに住んでいたので、その頃が恋しくなったのだという。そして同時に、死ぬ間際だからこそ行きたい場所がある、とも言った。

「ルイ十六世広場の…。じいちゃん、このあたりの教会、ここだけだね。」

「わしゃもう、大分目が悪くなったからのう。本当にここなんじゃろうか。」

「じいちゃん、なんで地元の教会じゃないの?」

 疲れたからか、弱冠不服そうな顔をしつつ、孫は聞いてきた。すると、老人はにこにこしながら、あの時計を取り出し、言った。

「子供の頃、わしゃいつも腹が空いとった。不景気で、大切にしてた玩具の時計すらも、売らなきゃならん言われてのぉ。悲しくて悲しくて、この教会にお祈りに来たんじゃ。」



 子供だった老人が知るところでは無かったが、この年、世界は大恐慌に見舞われた。札束が紙同然になり、どの国にも失業者が溢れかえった。老人、否、少年の家も例外ではなく、社員を全員解雇しても尚生活費がなく、少年の玩具や学校の道具を売って、なんとかパンを買う日々が続いていた。両親のものは、下着から髪に至るまで、全て売ってしまったので、もう残っている物が少年のものしかなかったのである。

 少年には、宝物の時計があった。誕生日に、父と母が買ってくれた時計。もうその時計の適齢期は過ぎてしまっていたが、少年は幸福な時間を刻んだその時計をとても大事にしていた。しかし、それすらも売らなければならない、と、言われ、少年は泣きながら外へ飛び出し、神様に助けて貰おうと、教会へ入り込んだ。

「坊や、どうしたんだい。」

「きゃーっ!」

 聖堂に忍び込んで祈っていると、突然話しかけられた。若い青年だが、どうやらここの司祭のようだった。

「ここは贖罪の教会シャペル・エクスピアトワールだ。何か悲しい事や許せない事があるのかい。」

 すると、じわじわ少年の目に涙が溜まり、あんあんとその場で泣き出してしまった。司祭は、子供ながらに込み入った事情があると判断し、少年を抱きかかえ、聖所に一礼をし、別の部屋に連れて行った。恐らくあそこは、応接間だったと思う。司祭は泣き止まない自分をソファに座らせ、どこからかショコラを持ってきて出してくれた。

「ほら、ショコラだ。飲んで、おいしいよ。」

「ひぐ………。ひっく…、おそとで、たべものたべたりしたら、だめだって…ママンが………。」

「金なんかとるか。いいからお飲み。それで、おにいやんに話してご覧。」

 泣き疲れていたのと、甘い匂いの誘惑に負け、そっとショコラに口をつけた。もう何日も、こんな甘いものを食べる余裕はなかった。一口飲み込んだら止まらず、一気に飲み干してしまった。

「………。」

「…おかわり飲む?」

「いいの?」

「いいとも。じゃ、ちょっと待ってな。」

 司祭がいなくなった間に、部屋を見回してみた。部屋はさっぱりとしていてモノが無く、ソファが一対と小さなテーブル、そして観光地で売ってるような―――有り体に言うと、少年が父の仕事場で見たような、そんなどこにでもありそうな小さなマリア像が置かれていた。

「はい、持ってきたよ。」

「ありがとう。」

「…それ飲んだら、話してくれよな。」

 決して急かすでも呆れるでもなく、司祭は対面のソファに座り、自分用に入れたらしいコーヒーか何かを啜った。

 流石に二杯も飲んで腹が膨れると、切羽詰まった気持ちも収まってきた。少年は時々鼻を啜りながら、事情を説明した。司祭は子供の訴えをよく聞いて、話しきった少年の頭を撫でて言った。

「そうか。お前はその時計が大事なんだな。ならその時計もお前が大事だろう。」

「そうかな………。」

「名前、つけてるんだろ?」

「! どうして分かったの?」

「分かるさ。おにいやんは人間じゃないものの言葉も分かるのだ。」

 今にして思うと、それはあながち間違ってはいなかったのだろう。

「愛し合っている者同士を人が引き裂いてはならないと、主も仰せになっている。時計を握って、手を貸してご覧、君たちを祝福してあげよう。」

 少年は小さな両手に時計を挟んで、神父の前に差し出した。神父はその両手をそっと包み込んで、唱えた。

「父と子と聖霊の祝福をキミたちに。愛し合う二人がいつまでも一緒にいられるように。―――さあ、終わったよ。安心して行きなさい。」



「その方に祝福されてからの、わしの家の商売は驚くほど上手く行っての。時計なんて沢山買えるようになって、この時計も直せなくなるくらいの時間が経ったのじゃよ。」

「へー。じゃあその神父さまは、ほんとうは天使だったんじゃないの?」

「そうじゃの、きっと神に選ばれた、特別徳の高いお方だったに違いない。」

「坊や、どうしたんだい。」

 ベルを鳴らそうと探していると、後ろから声をかけられた。驚いて孫は、老人の車いすの陰に隠れる。老人がしきりに後ろを見ようと蠢いたが、声をかけてきた男は、老人の前に回り込み、微笑みながら顔を近づけた。

「ここは贖罪の教会シャペル・エクスピアトワールだ。また悲しい事や許せない事があるのかい。」

 その姿は、老人の殆ど見えない目でも、よく見えた。それはそれは、鮮やかに。老人は持っていた時計を差し出して言った。

「ええ、あの日わしに娶らして下さった古女房を、わしの代わりに、面倒をみたってくだされ。永遠の信仰の時を刻むように、わしの女房とけいを受け取ってくだされ。」

 すると神父はその手を、あの時のように包み込んで言った。

「死が二人を別つまで、夫婦は一緒にいるものだ。そっちの坊主、こっちの坊主が召されて、この時計が役目を終えたら、もう一度来るといい。この時計を引き取って、修道院に入れる儀式をしないとな。」


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