「大きな日時計と、小さな針」
嘗て人は、時を刻むのは太陽と月だと思っていた。空が変わるから一日が始まり、終わるのだ、と。やがて人々は、太陽に向かって柱を立てた。それは何も、バベルの塔のように、神に近づこうとしたわけではない。神が与えてくれた「時間」という穏やかなモノを共有する道具を造ったのだ。
―――自分や父が生まれる前からあると言われている日時計は、きっとこんな感じで発明されたのだろう。日だまりの中、伸びていく影を見ながら、数を数えた女がいたかもしれない。或いは、炎天下になるまであとどれくらい働けるのか、切羽詰まった男がいたかもしれない。人の営みに、規則だとかリズムだとか、そう言った概念が生まれてから、時計はいつも人々と共に歩んできたはずなのだ。その人生の終わりを見届けた後、その人を葬る準備や集まりのために、利用されたこともあっただろう。
⌛
ざざん、ざざん、と、潮彩が渦巻く。血と、汗が混じり合い、暗い黒が飲み込んで引き込んでいく。禍々しい潮騒に混じって、何か聞こえる。遠くの浪の音に混じって、何か聞こえる。苦しみ喘ぐ声が響いてくる。彼等は命乞いの言葉を何度も口にしたが、それでも役人達が欲しがるただ一言だけは口にしなかった。
「茂吉、茂吉、さんたまりあさまにおいのりをするんだよ、きっときっと、助けて下さるから。」
海面上で貼り付けにされた女が、掠れた声で言った。背中まで垂れた髪は、元々は結ってあったのだろう、奇妙な形にまとまっている。毛先になって行くほど、何か白い結晶のようなものが増えていく。着物はボロをきせられて、それでもその輪郭から、彼女の骨が酷く痛めつけられて居るのが分かる。女は顔を上げることも、視線を向けることも、否や、目を開くことすら出来ずにいたが、その言葉を繰り返す。
その
やがて女が何も喋らなくなると、今度はその近くに居た男が泣き出した。彼は誰に何かを語るわけでもなく、波間に落ちて呑み込まれるほどに小さな声を絞り出し、涙か波か分からないもので顔を汚している。男の言葉は最早日本語としての体を為しておらず、ただただ深い後悔を吐き出しているだけに過ぎなかった。
「茂夫、泣くのはお止め。俺がここにいるから。」
どこにも立つ瀬などないのに、男の顔を持ち上げ、涙を拭う人がいた。海水に浸かり続けた死体は裂けて崩れていき、魚や海老がその死体を食っていく。もぞもぞ動く死体は、意識が無いだけで生きているか、足下にもっと大きな捕食者がいるからだ。
「浪漫さまァ、浪漫さまァ。わしゃ、間違ってたんでしょうかねえ。息子と嫁にだけは、転ばせるべきだったんですかねえ。あんまりだ、息子はまだ一人で立つことすら出来ねかった。わしをチャンと呼ぶことだって出来ねかった。そんな赤ん坊の祈りなんざ、さんたまりあさまはお分かりになるんでしょうかねえ………。」
「分かるさ、分かるとも。俺が分かった。母親が分かって、父親も理解していたんだ。神の母が分からないものか。」
「じゃけど、浪漫さま、わしゃ、生きてて欲しかった。生かせてやりたかった。どんなにみっともなくてもいいから、生きてて欲しかった。浪漫さま、わしゃ、嫁と息子の命を、でうすさまより大事にしてるって、地獄行きですかねえ。わしみたいな女房殺し子殺しの仲間ャ、そこにいやすかねえ。」
「地獄になんか行かないよ。デウスさまより大事にしてたんじゃない、デウスさまと同じくらい大事にしてただけだ。この海に居る人間は、だれも地獄になんか行かないよ。ここが既に地獄だ。この国ほどの迫害を、俺は今まで受けたことがない。お前達はこの後、デウスさまと一緒になれるけど、俺はこの国の最後の一人が、デウスさまの所に行くまで、ずっとこの国の為に祈るよ。大丈夫だ、大丈夫。お前の村だって、いつかは人が戻る。お前の畑も、いつかは誰かが耕す。大丈夫だ。お前達の生きた証は、俺を知らない人にも残るよ。」
「浪漫さま、浪漫さま! そりゃ綺麗事だァ、わしゃ未来が知りたい。江戸に嫁がせた娘の、孫子孫がどうなるのか知りたい。無事に暮らせるとわからなきゃ、死んでも死にきれねえ。でもでうすさまにも申し訳ねえ。わしゃ不信心者じゃ。」
「未来のことは分からないよ、茂夫。未来のことに責任なんて感じなくて良いんだ、茂夫。お前はお前の人生だけを歩んでいい。お前はその中で、俺達の神を、デウスさまを受け入れてくれた。俺達に重湯を飲ませてくれた。あの村に宣教師はもういられなくなったけど、それでも俺はここにいる。俺(信仰)が在る。だから大丈夫だ。茂夫、安心しろ。大丈夫、誰も救いから零れたりしない。お前は一人じゃない。」
動かなくなり、もう感覚も無い指先に、彼が指先を絡め、貼り付けにされた木ごと抱きしめる。男は嗚咽を零す体力もなく、痙攣するように泣いていたが、やがて動かなくなった。彼が男の顔を持ち上げて見てみると、その顔は寝顔と言うのに相応しい顔だった。まるで怖い夢を見て、母の布団に入り込んだ幼子のように。
同じようなことは、始め百人にした。太陽が昇り、沈み、月が昇り、また沈み。それを繰り返して今日で八日目。もう時計は殆ど止まりかけている。しかし止まってはいなかった。
「転ばぬ、転ばぬ、転ばぬ。ワシゃ転ばぬ…。」
目を潰された老人は、呆けてしまったかのように、やたらと早い唇で呟いていた。そうでもしないと狂ってしまうほどの苦しみだからだろう。
「茂三。」
彼が声をかけると、老人は少し頭を上げたが、持ち上げきることは出来なかった。老人は震える唇で、それでも彼の息子のように、泣きついたりはしなかった。
「おお、こんな頑固親父の所に来られるとは思わなんだ。家内と息子と嫁と孫は?」
「もう皆揃ってる。お前が最後だよ、茂三。」
「………のう、ろまんさま。ワシゃ、幸せ者ですじゃ。最後の最後、こんな親不孝者も、でっかいご奉公が出来たんじゃからの。その結果がこんなんじゃったら、ええ、ええ、受け入れますよ。ワシゃ、満足ですじゃ。」
「…無理しなくていいんだぞ。」
「………。」
しかし老人は、首を僅かにふった。
「落とし前は自分でつける。頼りない親父じゃったが、筋を通すことは教えたつもりですじゃ。こんな痛めつけでそれを無かったことになんてしたくねぇ。ワシゃ、家内も息子も嫁も孫も死なせたが、その筋と落とし前は、全部やり通すつもりですじゃ。」
「大丈夫、その落とし前は、つけなくていい。もうデウスさまが、お支払いになった贖いだ。―――さあ、行くと良い。デウスさまが、お前達を迎えに来た。」
最早憎むことも無い。恨むことも無い。イエズス会は間違ったことなんかしていない。
ヨーロッパから逃げ出し、新たな仲間を求め、神の国に引きずり込もうとしたその報いから、どうして逃げられようか。
死ぬことでしか神の元へ導けない今を、いつか主は変えて下さるに違いない。その時が来るのを、待ち続けるしかない。
しかし時計の針は、これで全て止まってしまった。
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