愛と呼べない夜を越えたい

白雪花房

婚約破棄から始まる愛の物語

 薄闇の藍色を切り裂くように、大股で歩く。

「どいつもこいつも」

 美姫みきは怒っていた。

 なぜ自分の付き合う相手はろくでなしばかりなのだろうと。

 頭には婚約者のワイルドな顔が思い浮かぶ。最初に会ったときはかっこいいと思ったけれど、今となっては粗野にしか感じない。

 両手に握りしめたカバンには化粧品や衣類が入っていて、奥には小さな箱が隠れている。中身は結婚指輪。数ヶ月前から同居していた男から受け取った。

 ついさっき婚約破棄を言い渡した。理由は彼が金目当てで近づいたと分かったからだ。

 男なんて皆同じ。彼らが求めているのは美しい容姿と金のみだ。誰も本当の彼女に目を向けなかった。

 数年前に付き合った相手もそうだ。颯という青年。彼はそもそも彼女への関心が薄いようだった。外見こそ爽やかで好印象を持ったけれど、内面は冷淡。記念日は当たり前のように忘れ、誕生日も祝ってくれない。

 頭の中で回想をし、流れるように文句を言いそうになったところで、あわてて口を閉じる。

 今さら颯のことが頭に浮かぶなんて、どうかしている。くらんだ目を覚まさせるように、激しく首を横に振った。

 相手を責める気持ちに隠れるように、別の考えが頭をよぎる。お互い様、なのだろうか。美姫は美形にしか興味がない。理想だけは無駄に高くて、期待に応えてくれなければ即、切り捨て。だから彼女は一人になる。

 美姫は淡々と足を動かし続けた。


 空は本格的な青に染まり、太陽が天高く昇る。

 ヒールを鳴らして歩いていると、道路の真ん中に人形が転がっているのが見えた。

 人形といってもぬいぐるみのようなものではなく、どちらかというとロボットに近い。銀色のフォルム。各パーツをなめらかにつなぎ、人の形を取っている。

 近づき、足を止め、下を向いた。

 謎の人形を一瞥してから、また歩き出す。

 素通りしようとした矢先、下から声が上がった。

「冷たいな」

 美姫は足を止める。

「それでは君も魔女に心を奪われてしまうぞ」

 機械は平然と言葉を吐く。

「なにその言い方。子どもを脅す親みたい」

 口元を歪め冷たい笑みをこぼす。

 とはいえ、彼の話をバカにしているわけではない。実際に魔女の噂は耳にしたことがある。近所でも玩具を壊した子どもを母親が叱る場面をよく見た。

「もっと大切に扱いなさい。オモチャにも愛情を持たないと、心を奪われてしまうよ」

 魔女に心を奪われたものは人形になる。それはいつか動きが停まり、ゴミとして廃棄されるらしい。

「あんた、転んだだけなんでしょ? 助けなんていらないじゃない」

 言いつつ見下ろす。

 人形はむくりと起き上がると、二本の足で立った。

 よく見ると胸に孔が空いている。不気味だった。

 目を合わせる。孔と同じ色をした暗黒色の瞳。魂が入っていないかのようで、じっと見つめていると、不安になる。

 美姫は口をつぐんだ。無言のやり取りが続く。冷たい風が二人の間を駆け抜けていった。


 ややあって彼は口を開く。

「ときに旅仲間を求めていないか? ここにちょうどいいのがいるぞ」

 ナンパをするような言い方だった。

 鼻で笑いたくなる。

 だが、悪くはない誘いだ。旅は好きだし、ちょうど各地を巡る予定もある。

 具体的にいうと探しものだ。

 一つは自分の理想の恋人。

 もう一つはネックレス。

 ハートのチャームのついたもので高いものではないけれど、手元にないと落ち着かない。代替品を求めてはいるけれど、どれを取ってもしっくり来ないのだった。

 なんにせよ都合はよい。

「いいわ。付き合ってやろうじゃない」

 美姫は唇を歪めて笑った。


 二人は旅に出た。大きなカバンを両手に列車に乗り、各地を巡る。カメラを構えて、様々な季節の景色をカメラに収めた。

 春には桜、秋は紅に染まった楓。色鮮やかな景色は写真として手元に残る。

 人形を連れて行くとなにも知らない者たちは驚いて瞠目するも、すぐに慣れて自然に接してくるようになった。


 町を歩いていると、時折困っている人を見かける。

 大切なもの――アクセサリーや懸賞で当てたグッズなど――を落としたり、親とはぐれた子どもだったり。

 女としては観光をしたいだけで、赤の他人は放っておいても構わなかった。

 だけど人形はそうではないらしく、勝手に手伝いに行く。

 見ているだけでもよかったのだが、一人で突っ立っているだけでは冷たい人のように見られてしまう。仕方がなく手を貸した。


「ねえ、どう?」

 旅の途中で立ち寄ったアクセサリーショップにて。

 美姫はネックレスを胸元に持っていって、見せつける。

 人形は黙って目をそらすだけだった。

 よい反応を期待したのだが、がっかり。

 美姫はチェーンを首から外し、だらりと腕を下げた。

 結局、手に取った商品は買わずに、店を後にした。


 魅了できないのは悔しいため、何度もアプローチを繰り返した。

 上目遣いで相手を見つめたり、猫なで声を出したり。

 今度こそは。

 期待を込めて反応を待つけれど、彼の反応は常に冷めている。

 何度繰り返しても引っかかってくれなかった。

 これは単なる遊びだ。彼もそれを理解しているからこそ、付き合ってくれなかったのだろう。


 旅は続く。都会を抜け、森を越え、列車に乗り、いつの間にか田舎にたどり着いていた。

 寂れた場所だ。人気はなく、民家も少ない。森や山、川といった自然は多く、獣はいても、後はなにもない。全体の空気感も忘れ去られたようにひっそりとしていた。

 あまりにもなにもないため、ただ歩いていると暇になる。

 二人は会話を始めた。

「もし俺が恋人になるとしたら、君はそれを受け入れるか?」

「ありえないわ。あたしが人形になびくわけがないじゃない」

 希望を持って語りかける人形を切り捨てるように、女は冷たく返す。

 人形は人形。相手が生身の人間でないのなら、恋をするわけがない。今、彼と一緒に歩いているのも、付き合ってあげているだけだ。決して特別な関係には発展しない。

 彼も分かっているだろうに、今さらどうしておかしな質問をするのだろう。首をかしげる女を横目に人形は無言になった。

 彼女はゆっくりと視線をそちらへ動かす。見ると彼はさみしげな顔をしていた。人形の癖に表情があるなんて。

 瞳が揺れ、頬を汗が滑り落ちる。勘違いだ。見間違いだろう。木目が人の顔に見えるのと同じように、表情があったように見えただけだ。

 現実から目をそらすように何度も自分に言い聞かせる。

 女は顔をそむける。なにも気づかなかったことにして前を向く。

 二人を歩き続ける。足音は村の沈黙に吸い込まれて消えた。


 もどかしい関係が続く中、季節が巡る。

 関係は進展せず、人形は人形のまま、二人で歩いていくのだろうと思った。

 ところが旅は唐突に終わりを告げる。


 紅葉が枯れ落ち、冷たい雪の降る冬のことだった。

 きっかけは美姫が「うらやましい」と口にしたこと。

 人間が寒くて震える中、人形は少しぎこちないと、指を動かすだけ。だからつい言ってしまったのだ。

「いいわね、あんたは人形で」

 なにげない言葉に人形は顔をしかめた。

「なにも知らないくせに」

 鋭い声に驚いて、目を丸くする。

 弾けたようにそちらを向くと、無表情の人形がいた。

「分かるかな? どうして俺が君になびかないのか」

 まっすぐに前を見て、淡々と言葉をつむぐ。

「今の君は嫌いだ」

 口を動かす。容赦のない言葉が飛び出した。

 心に走る衝撃。ガラスが割れたような感覚だった。

 まさか彼にこんなことを言われるなんて。

 立ち尽くす女を置き去りにするように、人形は歩き進める。

「ちょっと待ってよ」

 遠ざかっていく背中へ呼びかける。

「いままでもなにも言わなかった癖に。どうしていきなり、嫌いだなんて……!」

 彼は足を止めて、振り返った。

「君は俺に寄り添ってはくれなかった」

 淡々とした口調。事実だけを羅列したようだった。

 だからなんなのか。

 彼だって、なにもしてくれなかった。

 与えたのだから応えてほしい。憤りが胸の底に溜まりこみ上げてきた。

 深く息を吸って、口を開く。彼女は声を張り上げた。

「こっちこそ願い下げよ。あんたなんて欲しくない!」

 彼女の本心を聞いて、人形は口を一文字に結ぶ。

 彼は表情を緩め、代わりに諦めたように、笑った。

「分かった。じゃあ、終わりにしよう」

 あっさりと告げる。砂漠の砂のように乾いた声が耳に届いた。

 美姫は口を閉じ、ぼうぜんとする。

 人形は顔を背け、一歩を踏み出す。彼が歩き去っていく。その姿は剥げた山の向こうへと、遠ざかっていった。

 美姫はその場に留まる。冷たい風が吹き付ける中、いつまでも立ち尽くしていた。





 孤独は嫌だ。一人では寒い。


 美姫は自宅に帰って、窓の外を眺めていた。

 木々からは乾いた葉が落ち、地面にはうっすらと雪が積もっている。木枯らしが吹き抜け、枝が軋み、窓ガラスが揺れた。外の寒さに心も冷え、震えてくる。

 彼といるときは寒さも鈍るような気がしたのに。

 ついに耐えられなくなって、席を立つ。部屋を出て、玄関へ。彼女は外へ飛び出した。


 彼を探す旅に出る。

 道行く人に聞いて回ったかれど、情報は得られない。

 かつて来た町にも人形の姿は影も形もなかった。


 ゴールが分からないまま、都市にやってくる。人気を避けるように陰を進んだ。

「おい」

 聞き覚えのある響きに眉をひそめながら、美姫は振り返った。

「あなたは……」

 美姫は相手の顔を見て、目を見開いた。

 相手の男性的な顔を知っている。

「探したぞ。もう逃さねぇ」

 彼のドスのきいた声は何度も聞いた。

 男の名も。

 その正体は春に婚約を破棄して、別れを切り出した相手だった。

「俺を裏切った罰だ」

 男はナイフを持っていた。

 地を蹴ると刃が銀色にひらめく。

 美姫は身をすくませ、半歩退く。

「――っ!」

 死を覚悟して目をつぶった。

 けれども痛みはいつまで経っても訪れなかった。


 おそるおそる、まぶたを開ける。

「なんだ、お前は?」

 男は唇を震わす。声は動揺でブレていた。

 両者の間に入り込み、立ちふさがる影。人のシルエットをしたそれは機械のような銀色。その皮膚は鋼鉄の硬さ。ナイフを受け止めても無傷どころが、刃のほうが砕けている。

「立ち去ってもらおう。その人に手を出せばどうなるか」

 鋭い声。有無を言わさぬ響きがあった。

 たちまち男は目を泳がし、汗をかきながら、何度も頷く。

「分かった。分かったから」

 懇願するように訴えかける。

 人形が手を下ろした。

 男は急いで逃げ出し、勢い余って転びそうになりながらも体勢を立て直し、また地を蹴る。彼はビル群の向こうへと消えていった。


 人形の体がぐらりと傾く。

 美姫ははっとなり、そちらを向いた。

 彼女の目の前で、銀色の体は崩れ落ちた。

 瞬間、美姫の脳裏に活動限界の話が蘇る。魔女に心を奪われた人形はじき、動かなくなる。つまり、死。終わるということ。

 それは嫌だ。

 焦燥に突き動かされ、駆け寄る。急ぎすぎて靴が脱げたが、振り返らなかった。

「起きてよ。ねえ、謝らせて。もう人形だなんて言わないから。あなたを本当の名前で呼ぶから。だからお願い、もう一度目を開けてよ」

 彼を抱き寄せ、すがるように呼びかける。

 人形は目は固く閉じたままだった。

 その内、雪が降ってくる。世界は白く染まった。

 頭には数々の後悔が降り積もる。もっと話せばよかった。彼の想いに気づけばよかった。なにもかも手遅れになる前に。

 美姫は唇を震わせた。閉じかけた目の端から涙があふれ、宙に落ちた。雫は水晶のように輝きながら、人形の空いた孔へ吸い込まれ、彼の体に染み渡った。


 人形が目を開ける。

 霞む視界に人間の姿をした彼が映った。好青年風の爽やかな顔。かつて列車の窓ガラスに浮かんだものと同じだった。

 青年の目に映る彼女は、泣いていた。

 静寂が落ちる。


 彼は沈黙を破り、白く閉じた時を動かした。

「俺の本当の名前は、颯だ」

 涼しげな声が耳に届く。

「冷たい奴だった。他人の誕生日とか意識しないし、記念日すら覚えてない。贈り物もしたことなかった。そんな俺でも一回だけ、買ってあげたことがあったんだ。おねだりに引っかかって。あの、ネックレスを」

 顔を上げる。

「別れるとき、押し付けられた。言ったよな、『あんたがくれたものなんて欲しくない』って。覚えてる」

 苦笑がにじむ。

 昔を思い出すような顔をしていた。

「でも、これは彼女のものだ。このネックレスが輝くのは、あいつが身につけている時だけ。俺が持っていたって、仕方ない」

 懐から取り出す。

 チェーンを掴んだ。

 宙に揺れるハートのチャーム。

「人形になったあとも探してたんだ」

 自分がどんな姿でも、どうなろうと関係ない。

 これさえ返せれば後はなんでもよかった。

 話を聞いていて、瞳が震える。

 深く息を吸い込んだ。伏せた目からまた涙が溢れる。

 彼は彼女のほうを向いて、微笑みかけた。

「応えてくれるよな?」

 聞いて、心に熱い思いがこみ上げてくる。

 体ごと震える。

 ようやく分かった。

 ハートのネックレスを手放した後の喪失感の正体を。

 彼女が求めていたのはネックレスそのものではなく――


 彼女はただうなずき、首を差し出した。

 チェーンが通る。

 太陽の光を受けて、胸元でハートのチャームが光った。


 雪は次第に弱まり、降り止んだ。空は藍色に染まり、空気は冷たいまでに清らかだった。

 夜が明ける。太陽が昇った。

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愛と呼べない夜を越えたい 白雪花房 @snowhite

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