後編
両手でペットボトルのドリンクを三本抱えて姉貴が戻ってきた。
「コーラと紅茶とコーヒー、どれがいい? あぁ、私はコーヒーね」
問答無用で選択肢が一つ消えた。
「私、炭酸飲めんし……」
しーちゃんが紅茶を手に取った。
となると、僕は残り物のコーラだ。
「流石にずっと外にいると喉が渇くからねぇ」
僕たちはペットボトルの蓋を開けると、喉を潤す。
炭酸の泡が弾ける刺激が心地よい。
残り物には福があるとは、よく言ったものだ。
濡れた唇を手の甲で拭き取ると、姉貴は「さて――」と話を再開した。
「私は最初、そうくんが現場を密室状況にしたのは、犯行時刻を絞る為だと思っていたんだ。海上で被害者に接近できたものはいなかった。しまちゃんがボートに乗ったあの時間、ハーバーを密室にしてしまえば残るは出艇前になるからね。
けれどその理屈は少々おかしい。しまちゃんの容疑を完全に晴らしたいのなら、外部からの犯行を主張する方が、都合が良いし手っ取り早い。それくらいは容易いはずだ。
それなのに君は密室を作り上げた。ハーバーに出入りした人物はおらず、加えてしまちゃんの犯行でもないと主張した。そっちの方がしまちゃんにとって都合が良いからだろう。では、それは何だ?」
姉貴は、そこで一度パンっと手を叩いた。
彼女の話にすっかりのめり込んでいた僕は、ビクッと肩を震わせる。
「ところで、そうくんはこの事件の真犯人には辿り着いているのかな? つまり荒木勝に毒を盛った本当の人物は誰か、という問いに君の答えは出ているのかな?」
「うん……」
僕は静かに首を縦に振ると、自分の思考の過程を振り返る。
そもそも衆人環視の中で人を殺すのは容易ではない。特にハーバーのように特定の人物しかいない状況で犯罪を犯すには、みんなの視線を一点に集める仕掛けが必要だ。しかし今回の事件ではそのようなアクシデントは起きなかった。ならば犯行時刻は、荒木さんがしーちゃんをボートに乗せて帰った、あの数分間だけだったことくらいは僕の頭でも辿り着いた。自ずとしーちゃんに疑いが向くことも察しがつく。
その瞬間、僕のなすべきことは決まった――事件を一応の解決に導く即席の探偵として、真実を明らかにするのではなく、もう一つの解釈を生み出すこと。
問題は誰が真犯人であるか。
ヒントは至る所に落ちていた。
例えば、なぜ学年の違う菊池遥佳と東雲小春がペアを組んでいるのか?
別に学年が違うもの同士で乗ることは珍しくない。問題は彼女たちがペアを組んだのがこの春からだったということだ。ならば、それまで菊池遥佳は誰と船に乗っていたんだ?
その誰かを特定するために僕は昨日、関係者一同を集め自由に議論を促した。
そして現れたワイルドカード。
「新庄真冬、だろう?」
半年前にヨット部を辞めた彼女こそ、僕が探し求めていた最後のピースだった。
採点者に答え合わせを求めるように姉貴の顔を覗く。
彼女は目を細めて笑っていた。
「そう、新庄真冬こそがこの事件のジョーカーだ。彼女だけは常に衆人環視の外側にいたからね。一方でその属性ゆえに容疑もかかりやすい。まさに諸刃の剣。ならば――」
名探偵は、指をパチンと鳴らした。
「鞘に収めて仕舞えばいい」
一陣の風が僕たちの間を吹き抜ける。
指の先が少し痙攣したのは、汗が引いたからだろうか。
「これがハーバーを密室にした理由だ」
藤塚綾歌は、喉を鳴らしながらコーヒーを飲む。
僕はその間、彼女の主張に対抗できるだけの反論を考えたが、何も思い浮かばなかった。僕が無意識のうちに取った行動の理由までも、彼女は完璧に言い当ててしまっていたのだ。
濡れた唇を手の甲で拭うと、名探偵は演説を再開する。
「では、詰めだ。新庄真冬を隠すために作った密室は、実はもう一つ、重要な役割があったんじゃないかと私は考える」
彼女の言葉に、雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡った。
姉貴は現場を見ていない。
僕がどのような推理をしたのかも断片的にしか知らない。
それにも関わらず彼女の目は、僕の知らない景色が見えているというのか。
目の前の名探偵は不敵な笑みを浮かべている。
「そうくんが気が付かないのは当たり前だよ。だって君の頭は、無意識のうちにその可能性を排除していたんだから。あの時、しまちゃんが新庄真冬に犯行の指示を出していたという可能性をね」
「けれど、それなら新庄真冬はしーちゃんを告発するはずだ。げんに昨日の夕方、新庄真冬は僕たちと聴覚室にいた。けれど彼女は事件について何も発言しなかった」
姉貴は肩を小刻みに揺らしながら、声を抑えるように笑う。
「別に一度も顔を合わせずとも指示は出せる。彼女は自分を追放したヨット部を恨んでいた。いつか復讐するために毎週、こっそりハーバーに通って管理人の目を欺くなんて七面倒くさいことを半年も続けていたんだ。スケープゴートとしてこれ以上の人物はないだろう?」
「それでどうやって指示を出すんだよ」
「簡単なことさ。ただ荒木勝の運転するゴムボートで陸に帰ってくればいい。その後、自分はトイレに向い、新庄真冬と荒木勝が二人きりになる機会を作る。それだけでしまちゃんの完全犯罪は達成される」
あの時ハーバーを密室にしなければいけなかったのは、新庄真冬を逃すためではなく、自身の保身のためだというのか。
もしも神楽瑠衣が菊池遥佳の飲み物に毒を盛ることも、荒木勝が自らそれをすり替えることも想定の上で、さらに新庄真冬という切り札を用意し、最後に彼女たちから自らに繋がるすべての接点を消し去るために、密室を作るよう僕を誘導したというのなら……。
その時、すぐ横で鈍い音が聞こえた。
「しーちゃん!」
音の鳴る方を振り向くと、しーちゃんがアスファルトの上に倒れていた。
額には大粒の汗が噴き出て、唇は変色している。
その姿が、僕の脳裏の中で、荒木勝の最期と重なった。
「姉貴、しーちゃんが! こんな暑い中、ずっと外にいたからだ。熱中症になったのかもしれない」
急いで全身がだらんと腑抜けた彼女を抱き、左腕を枕がわりにして首を支える。
「救急車だ! 早く、救急車を!」
叫びながら首を捻る。
藤塚綾歌は無慈悲にも無関心で、無機質さながらの無表情をこちらに向けていた。
「…………っ! まさか、姉貴……」
「警察に突き出されるよりはマシだろう?」
顔面から血色が失せ、指先がわずかに痙攣している。
手首に指を当てると、脈が早くなっているのを感じた。
「でも……これじゃあ、しーちゃんが……。姉貴!」
「うるさいよ。大丈夫、容量は抑えている」
そう言って姉貴は、僕の横に膝をつくと、彼女に向かって語り始めた。
「しまちゃん、苦しい? 辛い? でもね、荒木さんはね、その何倍も苦しんで死んだんだよ。君は遊びだったのかも知れないけれど、その愚かな行為によってどれだけの人が傷を負ったと思っているんだい」
そう言って、姉貴はしーちゃんの口の中に勢いよく手を突っ込んだ。
喉元にまで手を入れられたしーちゃんの口から嗚咽が漏れる。そして、姉貴が手を抜くと同時に彼女は勢いよく吐き出した。
肩で息をする彼女。目には涙を浮かべている。
「これで、君もわかっただろう? 人の生命っていうのは、とても重い。けれど、こうも簡単に潰れてしまうほど脆いんだ」
何度も首を縦に振る彼女。
目に浮かんだ涙がスーッと頬を伝う。
それを見届けると、姉貴は立ち上がった。
「しばらく水を飲ませて、あと二、三回吐かせれば元に戻る」
僕たちの前から立ち去ろうとする彼女の背中を僕は呼び止める。
「どうやって、どうやってしーちゃんの飲み物に毒を盛ったんだよ。このペットボトルはさっき姉貴が自販機で買ってきたものだろう?」
蓋に穴は開いていない。
あんな事件があった後なのだから、手渡された飲み物が開封済みなのかどうかには注意を払うはずだ。ならば、どうやって……。
「確かそうくんは、ボトル式の缶を開封するとき、蓋と胴体の接合部がリングになってボトルネックに落ちるところから推理を膨らませたね。その発想は実に見事だ。けれどペットボトルの場合はそうはいかない。ペットボトルの蓋はね、熱湯に浸けることで簡単に外れるんだ。あとはしーちゃんが飲むものを一度開封してリングを外し、毒を入れてから
「今回だけは私も泥を被ってあげる」
そう言い残して名探偵は去っていった。
結局、彼女はいっぺんの曇りなくこの事件を全て解き明かしてしまった。
それだけに飽き足らず、犯行手口の改善点までも教授する始末。
残った僕は、果たして何者なのだろう。
ただ一つ、分かったことがある。
「やっぱり僕は、名探偵にはなれない」
さっきまで僕たちの頭の上を照らしていた太陽が、西の稜線に掛かろうとしている。
蝉の鳴く声が一段とうるさくなってきた。
しーちゃんを背負立ち上がる。40キロほどの重さを背中に感じる。
その影は、ゴルゴダの丘へ向かうキリストのようだった。
果たしてしーちゃんがこれから背負う十字架は、どれほど重いのだろう。
そんなことを思いながら、僕は家路に着いたのだった。
<The end of Juvenile> is closed.
シーサイド・スーサイド 青木慶 @Aoki_Kei
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