エピローグ

前編

 名探偵に、なりたかった。

 否、なれると思っていた。


 漠然と抱くその夢は、しかし中学生になってもまだプロ野球選手や総理大臣を夢見るクラスメイトのものよりは、容易いものと思っていた。

 姉貴がなったのだから、僕にもなれる……。

 そんな曖昧な根拠だけが心の支えだった。


 ある日、姉貴に「どうしたら探偵になれるの?」と尋ねたことがある。

 勉強をしなさい。

 賢くなりなさい。

 よく観察しなさい。

 全てを疑いなさい。

 そんな答えが返ってくると思っていた。

 けれど、彼女の言葉は違った。


「自問自答――人は誰もが謎を抱え、解きながら生きている。だからそうくんはもう、立派な探偵だよ」


 笑いながら僕の頭を撫でる彼女。

 その言葉に、ありし日の僕は嬉しくなった。

 けれどすぐに新たな疑問が湧いてくる。


「じゃあ、探偵と名探偵は何が違うの?」

「名探偵っていうのは生き様……かな。自分に、世界に、正直であること。その姿こそが名探偵だと、私は思っている」


 意味が分からなかった。

 自分に正直になったところで、目の前の謎は解決しない。

 目の前の謎を解決したところで、世界は何も変わらない。

 僕が謎を解いたところとで、世界は何も変わらない。

 姉貴の言葉は、ずっと胸の奥でとぐろを巻いていた。


 やがて僕は、その意味を嫌というほど味わった。

 名探偵は正義の味方ではない。誰も護らないし、誰も責めない。彼らはただ知的好奇心に依ってのみ動く葦だ。真実の究明などという崇高な理念を掲げて、ハイエナのように死体に群がり、墓荒らしのように終わったものを掘り返していく。


 けれど人はいつまでも純粋無垢ではいられない。平然と嘘を吐き、誰かを騙し、自らを欺くようになる。痛覚が鈍くなって、次第に何も感じなくなる。大人になるとはそういうことだ。


 だから僕は名探偵になることを諦めた。

 姉貴のように敵に囲まれながら真実を追及する気力も、大切なものを犠牲にしてまで明らかにしたい謎なんてものも、最初から僕にはなかったのだろう。


 それなのに。

 それなのに、まだ僕をあの舞台に引き戻そうとする人がいる……。

 紀野屋島――無鉄砲で、人懐っこくて、危なっかしい、ひとつ年上の幼馴染。

 そんな彼女に僕は憧れた。

 あんな風に生きられたら、僕も名探偵になれたのだろうか、と。


 彼女が僕に謎を解くことを求めたから。だから僕はもう一度だけ、探偵になろうと思った。彼女だけの探偵になろうと思った。そうして僕が事件を解決して、それで全てが終わるはずだったのに……。


 どうやら、そうは問屋が卸さないようだ。


「こうして私が出てくることも、しまちゃんの計算内だったのかな」


 姉貴が家の前で僕たちの帰りを待っていた。


「なんのことですか?」


 僕の半歩後ろを歩く彼女。その右手は僕のシャツの腰あたりを摘んでいる。


「別に私は君を糾弾するつもりはないんだ。それは警察の仕事であって、名探偵の責務ではないからね。だから教えて欲しい――君はどうしてこんなことを計画したのかな? 私はそれを知りたい」

「親しき中にも礼儀ありですよ。一体なんの根拠があって綾歌さんは、私が真犯人だと言うんです?」


 名探偵は目を瞑り、首を横に振った。

 それを見て、しーちゃんが一気呵成に攻め立てる。


「だったら、この話はこれで終わりです。行こっ、そうちゃん!」


 彼女は僕の手を引っ張ってこの場を後にしようとする。けれど僕の足は、杭で地面に固定されたかのようにびくともしなかった。


「そうちゃん?」

「僕は聞きたい」

「えっ?」

「姉さんがどうやって真実に辿り着いたのか。僕はそれが知りたい」

「ちょっと、そうちゃん! そんなん聞いてどうするんよ」

「ただ知りたいんだ。姉さんがどうやって答えに辿り着いたのか。どうやってその解答を導いたのか。その思考の過程を知りたい」


 だって、僕は彼女のようにはなれなかったから。


 もしもこの事件が数学の証明問題なら、僕と姉貴の解き方はまるで違う。

 僕の解答用紙には初めから答えが書き込まれていた。あとは辻褄を合わせるように式を立て、あたかも問題を解いたように見せかける。ちょっと頭を使えば誰でもできる木端仕事だ。対して彼女は問題文を読み、そこから最適な解き方をいくつも検証した末にたった一つの答えを提出した。僕は、かつて名探偵に憧れたものとして、純粋にその証明文を読みたいと思ったのだ。


 観念したしーちゃんは僕の手を離し、腕を組んだ。

 姉貴は二、三度相槌を打つと演説を始めた。


「始まりは些細な違和感だったんだ。鬼無刑事からそうくんの推理を聞いた時に感じた小さな違和感。私は、まずその正体を明らかにすることから始まった」

「それで。姉さんが感じた違和感の正体ってのは何だったの?」

「そうやってすぐに答えを出そうとする――そうくんの悪い癖だ。そしてそれこそがこの事件をより複雑怪奇なものにしてしまった。つまり、みんなそうくんの言葉に誘導されたんだよ」

「僕は、別に誘導なんて……」

「自覚がなくて当然だよ。だってあの時の君の最優先事項は、しまちゃんを助けることだったんだから」


 そう言って姉貴は唇を歪曲させ、僕を見る。その視線に当てられて、自分が透けていくような感覚に駆られた。

 どうやら、名探偵にはのようだ。


「そうくんがどうやってしまちゃんの嫌疑を解いたのかを今朝聞いたよ。私好みな証明だね。実に直し甲斐がある。赤ペン先生の血が疼くよ」


 姉貴、採点バイトしているのかよ……。

 自分の解答を、文字通り、テストの答案を実の姉が採点しているかもしれないと想像したらゾッとした。


「それで僕の説のどこがおかしいんだよ」

「間違いではない、でも不完全だ。それは、しまちゃんに話したから後で聞くと良い」


 横にいるしーちゃんを見る。

 彼女はコクっと頷いた。


「さて、次に私はなぜそうくんが、そのような間違えを犯したのかを考えた。最初は本当にしまちゃんを救うために情報を取捨選択したのではないかと思った。けれど正直な話、例えこの時しまちゃんが連行されても、物的証拠が出て来ていない以上、証拠不十分ですぐに釈放されただろう。では、本当の目的は何か……。そこで気が付いた。逆転の発想だよ。つまりと。犯行時刻を出艇前に絞り込むよう警察を誘導すること。それこそが本当の目的だったんじゃないのかな」

「違う!」


 姉貴の言葉は、僕よりも僕のことを正確に言い当てている。彼女の追及に身体中の毛穴から汗が滲み出てくる。本当に頭の中を覗かれているようだ。


「まぁいいや。これはあくまで推測の域を出ないからね。とにかく、これが最初に感じた違和感だったってわけ」

「最初ってことは、まだ他にもあるんですか?」

「あるよ」


 しーちゃんの質問に姉貴は笑顔で答える。


「二つ目は、重なりすぎた偶然の一致だ。つまり、たまたま君たちが取材でハーバーにやって来た日に、たまたま二人の人物が、たまたま同じ場所で、たまたま同じ人物を殺そうとしていた。さて私は何回、たまたまを言ったでしょう?」


 僕たちは何も答えられなかった。


「ここまで偶然が重なると、流石に誰かの意図を感じざるを得ないよね。問題はそれが誰なのか。赤い糸を手繰り寄せるために、私はミッシングリンクに解決の糸口を求めた」


 ミッシングリンク――別名、失われた環。


 古生物学の言葉で、進化の過程を一つの鎖と見立てたとき、途中にぽっかりと空いた中間項――つまり先祖と子孫の間にいるはずの生物の化石――が見つかっていないことを指す。


 例えば人類はいつから二足歩行になったのか。猿と人は共通の先祖を持つと言うが、四足歩行の類人猿から分岐した直後の証拠は乏しい。


 長い人類の歴史の中で数々の名探偵が現れては消えたが、人はどこから来たのかという謎はまだ解き明かされていないのだ。


 そしてこの言葉自体もまた分岐をしている。

 つまりもう一つ、別の意味が与えられている。


 連綿と続く鎖――連続殺人。


 一見すると無作為に選ばれた被害者たちの見えない共通点のことを、その失われた繋がりをいう。いつ、誰が言い始めたのか。それこそ分岐の過程が分からない、見えない鎖の失われた繋がりミッシングリンク


 目の前の名探偵は、今からそれを見つけ出して、僕たちをさらに追い詰めようとしているのだ。


「今回の場合は連続殺人じゃないんだけど。まぁいいいや」


 姉貴はパンっと手を叩くと話を始めた。


「まず、荒木氏に毒を盛った本当の人物に辿り着く必要がある。そうくんが指摘した神楽瑠衣についてだけど、彼女が荒木勝を――いや、本来は同じ部活の先輩を狙っていたんだっけ――を殺していないことはすぐに思い至った」

「というと?」


 いつの間にか僕は、彼女の説明に聞き入っていた。


「……っ!」


 二の腕に痛みが走る。

 振り向くと、眉間に皺を寄せたしーちゃんが僕の腕をつねっていた。

 もちろん、分かっている。僕はしーちゃんの味方だ。

 僕はそう伝えるために彼女の手に触れて、その指を解きほぐす。


「未成年はタバコを買うことができない。神楽瑠衣はまだあどけなさの残る高校一年生だ。彼女がタバコを入手するには、家族の中にいる喫煙者からちょろまかすか、それとも誰か喫煙者の知り合いからこっそり流してもらうしかない。けれど、。いや、むしろだからこそ神楽瑠衣はニコチンに目をつけたんだろうね。殺すことはできないけれど、害を与えることはできる。ニコチンは彼女が望む凶器だったんだ」

「だったら――」

「だったら、なんで僕が指摘した時に否定しなかったんだ? でしょ」


 僕の声に被せるように、全く同じことを口にする彼女。


「普通、自分の凶器と全く同じものが現場から見つかったのなら、弁解の余地はないだろう。それに荒木氏は六十を超えた老人だったんだ。もしかしたら毒物に対する免疫が低下していると考えたのかもしれない。とにかく彼女は罪を認め事件の幕が降りた。いや、こう言うべきなのかな?」


 藤塚綾歌は僕を指さす。


「そうくんが、彼女を犯人に仕立て上げることで無理矢理事件に幕を下ろした」


 冷や汗がなめくじのようにスーッと背中を伝う。


「た、確かに彼女が犯人だと指摘したのは僕の間違いだったかもしれないけれど、完全な不正解ってわけでもないだろう」


 だって、実際に彼女は菊池遥佳先輩に毒を盛ろうとしていたのだから。

 それは間違いなく犯罪行為だ。


「そんなことはどうだっていい。問題は君が間違えたということだ。推理は数学の証明に等しい。答えは一つ、解き方は無数。だからこそ君が間違えたということが、第三の鍵になったんだ。なぜ間違えた? どこで間違えた? どうやって間違えた? そうやってチェックを繰り返していくうちに私の中で一つの仮説が生まれた」


 藤塚綾歌の言葉は、身も凍るほどの冷たさを持って、僕の胸を穿った。


「君は、わざと間違えたのではないのかな?」

「……………………」

「なぜなら、。神楽瑠衣を犯人にすることで、犯行時刻を出艇前に確定することができる。そうすることで、んだ。違うかい?」


 彼女は僕の目を見て、返答を待っている。

 けれど僕は何も答えられなかった。

 唇が震えている。

 鳥肌が立っている。

 喉が痛い。

 足がすくむ。

 耳が遠くなる。

 遥か彼方からしーちゃんの僕を呼ぶ声が聞こえる。


 けれど――


「ぼ、僕は……僕は……」


 ――うまく言葉を紡ぐことはできない。


 姉貴は首を横に振ると、再び話を始めた。


「もしも凶器が入れ替わっていたのなら、神楽瑠衣の盛った毒と現場に残されたボトルから検出された毒の量が一致しないことも、君が言葉巧みに密室を作り上げた理由も合点がいく。ここまでの偶然の数々は必然に変わる。あとはそれらの点と点を結んで一本の線にするだけだ」

「待ってください!」


 それまで僕たちの間に割って入らなかったしーちゃんが、声を上げた。


「確かにここまでの綾歌さんの話はどれも説得力があります。けど結局綾歌さんやって何一つ物的証拠を挙げとらん。これじゃあ昨日の鬼無刑事と男木刑事と同じゃないですか」

「そうだね。確かにここまでの私は何一つ、物的証拠を提示していない。けれどね、その推理の全ての根拠は君たちの言動にある。決して的外れな話をしているわけではないと思うんだけど。それにさっき言ったでしょ? 私の目的は君たちの糾弾ではない。真実の追及だと。だから証拠なんて残ってなくて良いんだよ」


 そう言って、彼女は再びパンっと手を叩いた。

 それは藤塚綾歌がこの場の主導権を取り戻したことを意味していた。


「では、ここからは密室を開こうか。そうくんが、言葉で幾重にも塗り固めた、開かずの間を覗いてみよう。果たして鬼が出るか蛇が出るか。でもその前に……」


 藤塚綾歌は足元軽く、近くの自動販売機に向かっていった。

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