「初めに姉として弟の名誉を守ことから始めましょうか」


 喧々囂々けんけんごうごうとしている刑事課の隅。仕切りで囲っただけの粗末な応接室にいるにもかかわらず、彼女の声は真っ直ぐ二人の耳に入っていく。


「彼の推理も別に的外れではありません。私の《別解》はいわばその補遺ほいです」

「しかし、神楽瑠衣は犯人ではないのでしょう?」


 鬼無刑事の言葉に藤塚綾歌は頷く。


「弟に犯人だと名指しされたとき、彼女がすぐに自分の罪を認めたのは致し方がなかったのです。なぜなら彼女は確かに罠を仕掛けていたのですから。問題はそこに引っ掛かった獲物が想定外の人物だったということです」


 本来ならば神楽瑠衣が仕掛けた罠に引っ掛かるのは、菊池遥佳のはずだった。問題はその後。荒木勝が彼の個人的嗜好によって自らの缶と、菊池遥佳のものをすり替えたのだ。この想定外の事態が事件を複雑なものにしたのだと藤塚荘司は結論づけた。しかし彼の姉、藤塚綾歌はその推理を意外な形で崩した。


「たしか先ほどの取調室の話からすると、どうやら彼女が盛ったニコチンの量と致死量には大きな開きがあるようですが、これは一体どういうことなんでしょう?」

「簡単なことです。神楽瑠衣の罠は作動しなかった。いや、むしろこう言った方が良いでしょう。と」

「そんなまさか! 我々はハーバーの中を隈なく捜索しましたが、ニコチンが検出されたのは、あのゴムボートに残されたボトルだけだったんですよ!」


 目を大きく見開いた鬼無刑事がすぐに反論した。

 一方で対峙する藤塚綾歌の顔には微笑が浮かんでいる。


「現場に凶器は一つしかなかった。けれど容疑者の供述と一致しない。ならば神楽瑠衣が仕掛けた凶器は真犯人が回収したと考えるのが妥当ではないでしょうか?」


 「しかし、荷物検査でもそんなものは見つかっていない」と男木刑事が反駁するも、彼女は少しも動揺せずに言葉を返した。


「何もハーバー内に隠す必要はありません。現場から持ち去ればいいんです。あなた方がやってくるずっと前に」

「我々が到着するまで、事件の関係者は全員艇庫のなかで待機していたんですよ? 加えてハーバーの入り口は一つしかなく、入り口のそばには管理人が詰める事務所がある。そんな状況の中で一体どうやってハーバーの外に出るというのです」


 男木刑事が手帳を開きながら当時の現場の様子を力説する。

 その説明を聞いた藤塚綾歌は突然、くすくすと笑い始めた。


「何がおかしいのです?」と鬼無刑事が尋ねる。


 顔を上げた藤塚綾歌が唇をにゅっと歪曲させた。


「どうやら、相当弟にやり込められたみたいですね」


 閉じたばかりの傷口に塩を塗られた男木刑事はぎゅっと拳に力を込めた。


「失礼、別にあなた方警察を馬鹿にしたわけではありません。ただ少し探偵を信用しすぎだ。彼らだって人間です。大切な人を守るためなら手段を選びませんよ」


 その言葉に、ついに堪忍袋の緒が切れた男木刑事が、「真犯人は紀野屋島か!」と声を荒げた。

 鬼無刑事は咳払いを一つして、部下を諌める。


「あの時の弟にとって何よりも優先すべきだったのは、犯人を捕まえることよりも嫌疑をかけられた紀野屋島を救うことにあったんです。だから彼は大事な前提条件を省略した」


 彼女は今朝、紀野屋島に説明したことと全く同じ話を二人の刑事にも聞かせた。


「要は数学の場合分けと同じです。彼女の証言が嘘なのか、そもそもの仮定が間違っているのか。彼はその内の一方しか説明しなかった。その結果、我々はハーバーを出入りできた人物は誰もいないと思い込んでしまったんです。一方でそれは、誰もが出入りできるほど開かれてもいません。ハーバーにある唯一の出入り口は管理人が見張っています。見慣れない顔は必ず目に留まったことでしょう。しかしそんな状況の中でも透明人間のようにハーバーに自由に出入りできた人物が、一人だけ居たではないですか」


「しかしあの時、ヨット部の部員は海に出てしまっていて……」 


 顎を引いて、目を瞑りあの日のことを反芻していた鬼無刑事が、突然雷に打たれたかのように顔を上げた。その目は大きく見開かれている。


「まさか……」

「そう。だったでしょう」


「確かにあの日、管理人は『怪しい人物の出入りはなかった』と証言をしていますが、新庄真冬は事件の半年以上前にヨット部を退部しているんですよ? 半年ぶりにハーバーにやってきた彼女を管理人が見過ごすはずがないと思いますが」

「逆に言えば、唯一の出入り口を見張る管理人の目を欺けば、この密室は破られたも同然ということです」

「して、その方法とは?」

「難しいことではありません。ただ、んです。ね。それを続けるだけで管理人は彼女がまだヨット部に所属していると信じて疑わなかったでしょう。人は変化を嫌う生き物です。珍しいものに意識が奪われる一方で、当たり前のことや習慣化されたものを疑おうとはしません。1+1が2である理由を真剣に悩む人など誰もいないように、ね」

「そんな……。つまり新庄真冬は来たる日のために、ヨット部関係者の目をはばかりながらも毎週ハーバーにやってきていたと言うんですか? なんと執念深いんだ……」


 鬼無刑事はその巨体を背もたれに預けると、深く息を吐いた。

 男木刑事はすぐに立ち上がってどこかへ走っていく。


「さて、これで密室は開かれました」


 藤塚綾歌はお椀の底に残った最後の一滴を飲み干す。


「ごちそうさまでした」


 そして立ち上がり、署を後にした。

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