祝いと呪いの月見酒

はる夏

第1話

 それは満月の夜だった。

 紋付を着た見知らぬ人々が、古風な座敷に向かい合う形でずらりと並ぶ。開け放たれた縁側の向こうには黒々とした木々が見え、その上には大きな白い満月があった。

 オレはひな壇にいて、隣には白無垢を着た女が座り、朱塗りの盃でこくりこくりと酒を飲んでる。

 三々九度か。結婚式? 相手は誰だ? 綿帽子に隠れて顔が見えない。女のほっそりした指から朱塗りの盃が手渡され、そこに新たな酒が注がれる。

 ヒシャクのような器から酒を注いでくれた、巫女の指もまた細い。


 けど、盃に描かれた花の柄が酒に揺れた瞬間、飲んじゃダメだと思った。

 飲んじゃダメだ。飲んじゃダメだ。

「……?」

 名を呼ばれた気がして隣を見ると、女が綿帽子の陰からオレの顔をうかがってる。知らない女なのに知ってるような気がして、でもこの酒は飲めなくて、盃を持つ手ががくがく震える。


 オレの手からぽろりと落ちた盃は、そのまま真っ黒な水の中にとぷんと落ちて――水面に映る満月が、ゆらりと揺らぐのが見えた気がした。




「わああっ」

 叫びながら起き上がると、明るい自分の部屋が見えた。気だるい意識の中、呆然と周りを見回して、夢を見てたのだと理解する。

「なんだ……夢か……」

 ホッとして布団に倒れ込みながら、良かった、と思った。夢で良かった。無茶苦茶怖かった。いや、夢の中で怖い目に遭った訳じゃないけど、妙に重だるくて不気味な感じだ。


 あの酒を飲んでたら、どうなってたんだろう? 夢だと分かってるけど、ちょっと怖い。

 心臓も痛いくらいドキドキしてて、どれだけビビったのかと我ながら思った。

「あああ、夢か。やっべー……」

 頭を抱えながら布団の中でゴロゴロしてると、ふいに足元から「何が?」って声が聞こえた。


「どんな夢? ってか、まだ寝てるの?」


 声の主は遠慮なくオレの部屋に入り込み、ベッドサイドに座って来る。誰かと不思議に思うまでもない、同い年の幼馴染の女だ。

 図々しいなと思ったけど、そういえばいつもこうだったかも知れない。幾つの頃からの付き合いだったかパッとは思い出せないが、昔からこうやって突撃されてたような気もする。


 互いにもう高校生、そろそろ部屋に勝手に入って来るのはやめて欲しいものだが、彼女の方にそういう意識はないようだ。

 幼馴染の白い首筋から目を逸らしつつ、オレはため息をついて起き上がった。

「なんか、酒を飲まされそうになる夢だった」

 幼馴染を押しのけて、夢を端折りながら説明する。


 妙に怖かった、とは男として言いたくない。結婚式のだとも言いたくなかった。なんだか、夢の中の花嫁が幼馴染に似てたような気がして、余計に気まずい。

 綿帽子のせいで顔は見えなかったのに、なんでそう思うのか自分でも分からない。ただ、口に出しちゃいけないような気がした。


 オレのためいらいを知ってか知らずか、幼馴染は「お酒ぇ?」って首をこてんとかしげた。

「それ、昨日買ったあの盃のせいじゃない? お酒って、日本酒か何か?」

 彼女の言葉に、「あー……」とうなずく。

「ほら、これ」

 幼馴染は勝手にどこかから木箱を取り出し、ふたを開けてオレに見せる。その箱の中には古ぼけた朱塗りの盃が2つ入ってて、これだ、と悟ってドキンとした。


 その2枚組の盃は、昨日ふらっと立ち寄った古道具市で安く買ったものだ。フリーマーケットのような青空市で、色々と怪しげな物が並んでいて、冷やかすだけでも楽しかった。

 古ぼけた狸の木彫りの置物や古風な鉄瓶、価値があるかどうかも分からない掛け軸や、素朴なかんざしなどが並ぶ中、その盃も2枚重ねて売られてた。


 蒔絵みたいな上等な品じゃないんだろう。中に描かれた絵もところどころ剥がれていて、いかにも昔の古道具だ。けれどそこが、幼馴染には良かったらしい。

「おじさん、これ幾ら?」

 オレの後ろから顔を出した彼女は、勝手に売り手の道具屋と値段の交渉をし始めた。

 結局2枚で5百円にまで下がったのは、彼女の手腕と言えるだろう。どうやら盃は、三々九度に使われる種類のものらしく、本来3枚組なのに2枚しかなかったようだ。


「だってこれ、松と竹でしょ、梅がないじゃん」

 剥がれかけの絵を見て松竹梅だと見抜く目も凄いが、こういう市で値切る度胸も凄い。オレの方も、そこまでして欲しい物じゃなかったけど、彼女に「半額出すから」と押し切られて、買うことになった。


 1枚250円だと思えば、そう高い買い物でもない。

二十歳はたちになったら、これで乾杯しようね」

 得意気に言われて、悪い気がしなかったのも正直なところだ。

 二十歳の乾杯なら、こんな古ぼけた盃じゃなくてちゃんとしたグラスでいいじゃないかと思ったが、それは口に出せなかった。


 そうして買った盃を手に取って、夢の内容を考える。あまり思い出したくない気もするのに、詳しいところまで思い出せてしまうのが不思議で怖い。

「ねぇ、夢に出て来た盃って、梅の柄でしょ?」

 花の模様だった覚えはあるが、幼馴染に言われてみれば確かに梅だったかも知れない。持った瞬間がくがくと震えが来た盃は、ここにあるのより大きめで真新しくて朱かった。


 武士が出陣する時や何かを決起する時にも行われたという、誓い固めの三献の儀。3枚の盃からそれぞれ3度ずつ酒を飲む、その3枚目の最も大きな盃が、多分夢で見たあれなんだろう。

 なぜその3枚目がなかったのかは知らない。割れたのかも知れないし、失くしたのかも知れない。昨日の古道具市の店主も知らないと言ってた。水に落ちたのかも知れない。


「やっぱり、3枚揃ってないとダメなのかもねー」

 ベッドのふちに座って呑気そうに言う幼馴染をじろっと睨む。

「誰が買ったんだよ」

「2人で買ったんでしょ。ねぇ、3枚目も探そうよ」

 勝手に決めつけて勝手に行動を始める幼馴染に、モヤッとした。自分勝手にも程がある。振り回されるのは嫌だ。けどなぜだか反論できる気がしなくて、文句も言えない。

 昔からそうだったなと、そんな思いがふと浮かんだ。


 いつ頃からこの幼馴染はこうだったか、分からない。物心つく前からなのかも知れない。

 とっさに具体的な例は思い浮かばないけど、それだけ多かったってことだろう。例えば今だ。


「ねぇ、沼に落ちたんだよね?」

 にこやかにそう言って、オレの机から地理の教科書を勝手に取り出す幼馴染。彼女は巻末に挟んでた大きな日本地図を開いて、パサリと床の上に広げた。

「じゃあ、その沼を見つけよう」

「夢の話だっつの」

 反論しながら一瞬、あれ、と思った。夢の話ってコイツに話したっけ? 盃がどぷんと沈んだ暗い水面、あれをどうして沼だと思うんだろう?


 水面に揺れてた白い満月を思い出し、ぞくっとする。

 探さない方がいいような気がした。けどオレの躊躇をよそに、幼馴染は「まあまあ」とか言いながら日本地図の隅にペンで何やら描き込み始める。


 それが鳥居の絵だったから、ドキンとした。

「勝手に何描いてんだよ」

「いいじゃん」

「よくねーよ、鳥居なんて描いてどうすんだ!?」

 口調を強めたオレの前に、「これ」と差し出されたのは古い10円玉だった。


「迷った時、寂しい時、探し物がある時は、古来からコレを使うって決まってるのよ」


 ふふ、と笑いながら、幼馴染が10円玉を描いたばかりの鳥居に乗せる。

 嘘つけと思った。古来も何も、10円玉が生まれたのは戦後、昭和だ。まだ百年も経ってない。そもそも、迷った時云々って話も初耳だ。

 鳥居の絵に10円玉と来ると、別のものを連想する。

 その連想は間違いじゃなかったようで、幼馴染は10円玉に人差し指を軽く乗せ、それからオレを手招いた。


 意味不明だと思った。こんなバカげた儀式、意味不明だ。地図の隅に鳥居を描く意味も分からないし、それで探し物が見つかるかどうかも分からない。そうまでして3枚目の盃を探す意味も分からないし、そもそもあの古ぼけた盃を買う意味だって分からなかった。

 探さない方がいいような気がする。

 そう思うのに、幼馴染に逆らいきれず、人差し指を伸ばしてしまう意味も分からない。10円玉に乗せられた幼馴染の白い指が、恐ろしい程に細くて直視できない。


「エンゼルさん、エンゼルさん」

「こっくりさんじゃねーの?」

「盃の在り処を教えてください、縁是流さん」

 オレのツッコミをきれいに無視して、幼馴染が歌うように呟く。最後、妙な発音に聞こえたけど、それを気にするより先に10円玉がすぅっと動き出し、鳥肌がぶわりと立つ。

 探しちゃダメだと思った。

「1人でやれよ」

「1人じゃこの儀式はできないの」


「1人じゃ探せない」


 さっきまでとはガラリと変わった冷たい口調で、幼馴染が言い放つ。

 胸がひどく苦しくなって、嫌な予感がビンビンした。続けちゃダメだ。探しちゃダメだ。けど指を離すのも良くない気がして、奇妙な儀式を中断できない。

 どうせこんなのインチキだろって、心の中で考える。幼馴染が動かしてるに違いない。そう思うのに、指を離してしまうのは怖い。


 やがて2人分の指を乗せた10円玉は、ぐるりぐるりと円を描いて北関東のある場所で止まった。

「ああ、ここかぁ。分かった」

 幼馴染は晴れやかに言って、10円玉から指を離す。

「そのまま流して、縁是流エンゼルさん」

 彼女が歌うように言うと、オレの手だけを乗せて再び10円玉は動き出し――えっ、と思った瞬間、視界がくるりと反転した。




 満月の夜だった。

 古風な座敷に向かい合うように、紋付を着た人々が並んでる。これだけ人が多いのに、ざわめきは一切ない。着物の種類なんか分からないから気付かなかったが、礼服じゃなくて喪服じゃないのかと、そんな考えがふと浮かぶ。


 晴れの祝言なのに、喪服なんてそんなバカな。そう思う反面、祝言って何だよってツッコミを入れてる自分もいて、何が本当なのか分からない。

 オレの隣には白無垢を着た女が座ってて、朱塗りの盃からこくりこくりと酒を飲んでる。飲み終わるとソイツはその杯をオレに手渡して来て、白無垢の袖からひどく細くて白い指が見えた。

 手渡された盃に描かれてるのは、梅の花。

 オレらの前に中腰で座る巫女服の女が、梅の盃に酒を注ぐ。酒の匂いはしなかった。ただ、飲んじゃダメだと思った。


 飲んじゃダメだ。飲んじゃダメだ。

 がくがく震えながら盃を見てると、注がれる酒の中にぶわりと水苔のようなものが混じった。えっ、と思って巫女を見れば、その顔はガイコツに変わってて――隣の白無垢の女も、綿帽子の中はガイコツだと分かった。


 細く白い骨の指が、オレの腕に掛けられる。

「……?」

 名前を呼ばれた気がしたけど、恐怖しかない。声にならない悲鳴を上げて、無我夢中で盃を投げ落とす。盃は月の映る水面にどぷんと落ちて、次の瞬間オレも、暗い水の中に落ちていた。


 がぼがぼと息を漏らし、必死にもがく。

 水が冷たくて服が重い。

 泳げるハズだと思うのに、うまく手足が動かない。怖い。ヤバい。息が苦しい。白く揺れる光を目指して、懸命に水をかき足で蹴る。


 なんで突然こんなことになってるのか分からない。オレは座敷で、いやあれは夢で。盃、地図帳、自分の部屋、ベッド、水中でもがきながら記憶をたどるけど、すべてが断片で繋がらない。

 どこまでが現実で、どこからが夢だったのか分からない。ただ、今こうして溺れてるのは紛れもない現実だ。

 服が重い。水も重い。ちっとも進めてる気がしない。


 もしかして、何かに足を掴まれてたらどうしよう? 何かって何だ? 怖くて下も見れないまま、強く水をかき水を蹴る。

 悲鳴を上げるにも空気がない。

 頭上に揺れる光は近くて遠い。

 月だ。月が。揺れて。白くて。

 絶望しながら手を伸ばすと、その手を何かに掴まれて――勢いよく水から引き上げられた。


「がっ、げほっ」

 口から生温い水を吐きながら、四つん這いでげぇげぇと嘔吐えずく。

 涙とヨダレを垂れ流し、左手でぬぐいつつ顔を上げると、そこは土の岸辺だった。砂混じりの土にぼうぼうと草が生えてて、月明かり以外には闇しかない。手を引いて助けてくれた幼馴染は、息も絶え絶えのオレを静かに黙って見下ろしてる。


 助かったのに恐怖は消えない。

 場所もどこか分からない。池か沼か湖か? そもそも違いは何だろう? 後ろを振り向くまでもなく、水面に満月が揺れてるのが分かった。

 びしょ濡れでヒザをつくオレの右手には、古ぼけて色褪せた最後の盃。長い間水底にあったのか、他の2枚よりも塗りの剥げが激しく見える。


「今はまだ待ってあげる」

 幼馴染がオレの前にしゃがみ込み、ふふっと笑った。

二十歳はたちになったらって、約束したもんね?」


 返事はできない。全身の毛がぞくりと逆立ち、ざあっと顔から血の気が引いた。がくがくと手が震えるのに、右手の盃を手放せない。

 ひぃっ、と息を呑むオレの前から幼馴染の姿が消えた。

 怖い。ヤバい。ここはどこ? アレは誰?


 見知らぬ風景、揺れる雑草、闇を照らす満月、風は冷たくて手も足も震えが止まらない。

 淀んだ水と湿った土のニオイの中、ずぶ濡れのオレの側には古道具市で盃入りの木箱があって。


 オレには女の幼馴染なんか、いなかったことを思い出した。


   (終)

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祝いと呪いの月見酒 はる夏 @harusummer

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