風上の青花

杪図南-Suwae Tonan

風上の青花

 東に、薄く雲がたなびいていた。その雲を貫いて聳える山脈は南北に長く広がり、一様にその矛先を雲の上へと伸ばしている。峻険な山肌は青みがかった白で、それが雲から溶け落ちるようにして裾へ伸び、いつしか黒と灰に変わる。つれて峰の線は太くなり、同じように黒々とした峰と合わさって筆のようにかたまりとなり、やがてそれが一つの大きな峰なのだと知る。アム・ラサンブレ魂の吹きつける峰はそうして、より低い山々に足元を隠されるようにしながら、この日もただ佇んでいた。

 白い壁に穿たれた大きな窓を開け放ち、その棧に一人の人間が凭れていた。長椅子に足を伸ばし、窓の内側に据えつけられた背の低い柵に腕を垂れかけ、その腕に顎をのせて彼はぼうっと山を見ていた。不意に部屋の扉が開いて、白い長服が強くはためく。

 扉を開けて入ってきた侍従は吹き込む風に目を眇め、それから窓辺を見やって軽く嘆息した。さっさと手に提げた茶器を卓に置き、扉を閉めて部屋に吹き荒れる風を収める。卓上に散らかった装飾品や紙を一箇所へ寄せてから、侍従は茶の用意を始めた。

 未だ窓の外を見続ける部屋の主にちらりと目をやり、その背に目礼する。

「陛下。お早うございます」

「うん」

「なにか見えますか」

「風にあたっているんだ」

「お風邪を召しますよ。なにより、風の向きは違いましょう」

「……東瀛とうえいはたまに、そうやって風流でないことを言うね」

 振り返った顔は憎らしげに笑んでいた。

 東瀛もまた笑って、薬罐やかんを軽く揺する。

「あたくしにとっては、風流よりも陛下のお体のほうが大事ですからね」

「これくらいの風で病むと思う?」

「さてねぇ。人は弱るときはあっという間ですから」

 東瀛の間延びした返答に、彼のほうはけたけたと笑った。自分はまだ若いだとか、東瀛も老けたことを言うようになったなとか、どうせそういうことを考えているんでしょうと東瀛は片目を瞑る。

 本来ならば、地位的に言えば下官でしかない東瀛がこのように不遜とも取れる態度であれば、あっという間に首を刎ね落とされているところだろう。東瀛は内官府、王の私生活に携わる部署のうち王室侍従官として王の御前にある。位で言えば王室宰のさらに下の下、まさしく下官に過ぎず、これが外殿は外官府の同じ位であれば、まず王と言葉を交わすどころかその姿を見ることさえ適わなかったはずだ。

 白い服をまとった彼はおもむろに立ち上がり、窓辺を離れて卓に平皿を置いた。薄く水の張られた銀皿には、小ぶりの青い花がその形のまま浮かんでいる。日に日に濃くなっていく青色が、銀にゆらめく水面によく映えていた。

 彼は、白くほっそりとした指先で静かに水をかき混ぜる。俯いた顔に金の髪が垂れかかっていて、その表情はわからなかった。すっくりと立つ姿の、肩幅と背丈はあるものの体は薄く、東瀛は知れずそこに彼の父の姿を見る。彼の父は、彼が生まれて間もなく病を得て亡くなった。両の親を早くに喪った後、けれども彼はよく健やかに育った。遊ぶことが大好きで、物怖じのしない、それでいて時折他者の心の内を読み取ったかのような行動をする子どもだった。

 ――ほんとうに、よく育ちなさった。

 東瀛には白い衣がまぶしくて、薬罐を卓上に置きながら瞼を閉じる。彼の父と、彼に仕えておよそ三十年。流行り病、戦争、革命に政変と、このわずかな歳月に様々あった。八年前に祖父から王冠を継いだ彼はいま、この王室にたった一人の王族でいる。

「もう、十年がたつんだ」

 唐突に王が言った。いつの間にか椅子に腰掛けていた彼は、卓に己の手をのせながらゆったりと背凭れに寄りかかる。

 東瀛が意味を理解しあぐねていると、彼はほんのりと目を細ませた。

「僕がね、真赭まそほと別れてから」

「ああ……もう、そんなに」

 真赭というのは、かつて王がまだ王孫殿下だった頃に仕えていた、彼の侍従長のことだった。王族の侍従にはおおよそ王室侍従官が就任するが、とくに幼い王子や王女などの侍従長には貴族の子女が就くことも多い。真赭というかつての侍従長も本名はキートン・ヴァイ・ツイーディアといい、キートン侯爵家から来た若い娘だった。

「陛下もよく懐いておられましたね。医学校へ進学するために辞されたのでしたか」

「うん、そう。……僕を看るためにね」

「陛下」

 思わず口をついて出たのは制止だった。いいんだ、としかし彼は微笑う。

「自分がおかしいとは思ってないよ。でもね、確かに真赭がいなければ、僕はきっと信じられないままだったんだ。――自分が男だということ。それから、人を好きになれたこと」

「……はい」

「真赭は手紙を遺してくれたんだ」

「存じております」

「僕だけの診断書。僕が男でいていいという証。……真赭を好きだったことを、それでいいと認めてくれる、ただ一つの」

「……ええ」

 目頭が熱くなって、東瀛は顔を伏せるようにしながら唇を噛んだ。彼の気持ちが東瀛には痛いほどわかった。

 ――大切なひとがいる。つらいときそばにいて、ずっと自分を支えてくれた。なによりも、大切で、大好きなひとだった。東瀛が王宮へ足を踏み入れたあの日から、もう二度と、会うことはできないと決まっている。

「東瀛も人を好きになったことはあるの?」

「……ありますとも。今も、好きでいますよ」

 東瀛が言うと、彼はぱちくりと目を動かして、そう、と呟いた。東瀛が彼のことをよく知っているように、彼もまた東瀛のことをよく知っている。東瀛が自由に王宮を出ることができないということは、きっと彼も知るところだろう。

「今もまだ、ちゃんと好き?」

 まるであどけない子どものような問い方だったが、こちらを見上げる緑の目が少しだけ揺れていて、だからこそ東瀛は深くしっかりと肯く。

「陛下は、真赭様を好きでい続けることを、悩んでおられるのですね」

「そうなのかな。……そうかもしれない」

 しぜんその視線が銀皿へ向くのを見て、そういうことかと東瀛は心の中で頷いた。毎朝、東に山を望むことができれば彼は欠かすことなく窓辺に立つ。青い花を浮かせた銀の皿を持って。

 西岸から風が吹くこの国の、東に聳えるのは魂の吹きつける山。すでに亡い人を思える場所。忘却の縁、彼岸を望める唯一の峰。

 彼はきっと忘れたくないのだ。確かに好きだったこと。慕った人の影。それをアム・ラサンブレに探している。探しながら、迷っている。

 東瀛はゆっくりと腰をかがめて、卓の上に置かれた手に己の手を重ねた。年月が経って小皺が深く刻まれるようになっても、まだ、自分の手のひらのほうが彼のそれよりうんと大きかった。

「大丈夫ですよ。真赭様はちゃんといらっしゃいます」

 慕った人を亡くしたわけではないからこそ、東瀛には今まで彼の気持ちが深くまで解らなかった。人は亡くなれば、魂が風に乗って東の山へ行く、それがこの国でずっと信じられていた。彼もずっと、そこにおぼろげな影を求めていたのだろう。

 きょとんとこちらを向く目の縁は、少しだけ疲れているようにも見えた。その目をじっと覗き込んで、東瀛はなるべく柔らかく微笑む。

「真赭様はいらっしゃいます。ずっといるんですよ。だってね、人は、生きてさえいれば何度だって思えるんですから」

 生き別れたからこそ、東瀛は長い間心の中で思い続けてきた。でも彼の場合は、幼い頃に唐突に亡くしたからこそ、その術を見つけられなかったのだ。

「……うん」

 泣きそうな顔で目もとを緩ませて、彼は東瀛の手を額に当てた。東瀛は彼が落ち着くまで、しばらくそのままでいた。


「都や街には、囲壁があるでしょう。その囲壁の外、大体南には共同墓地があって、そこには街で客死した者とか、身寄りのない者とかが葬られる。引き取り手が来れば掘り起こされるけど、引き取られることがなければそのまま土の下に眠り続ける」

 東瀛とうえいが部屋の隅で茶菓子の用意をしていると、椅子に凭れるようにして宙を見つめていた彼が唐突にそう言った。およそ脈絡のない話に内心ぎょっとしながら、それでも東瀛はおそるおそる相槌をうつ。彼は視線を動かさないまま、言葉を続けた。

「でも五年から十年が経つと掘り起こされて、他の遺体とともに棺桶ごと砕かれてから祭壇にばら撒かれて風に散る――それで終わり」

「……はい」

 幼い頃に市井を旅したときの記憶なのだろうか、と東瀛は考えながら頷く。菓子を持って彼のもとへ向かうと、だから、と彼はこちらを見上げた。

「もう真赭まそほを探すのは、やめにする」

 東瀛は、すぐには言葉を返せなかった。真赭、ツイーディアのことは東瀛も確かに知っているものの、彼女が王宮を辞して以降どこで何をしていたのか、詳しくは知らない。ただ、王宮で勤めながら風の噂で耳にしたのは、彼女が武器を手に、大都で暴動を起こしたらしいということ。

 そのときの暴動では、暴徒はその場でことごとく処刑、あるいは自死。そうして積まれた死体の山は、大都の囲壁の外、共同墓地へ葬られた。それで彼らを密かに慕っていた市民たちは、空の棺桶を担いで街を歩き、それを燃やして灰を山へ飛ばすほかなかった。……今では王宮内の東瀛でさえ知っている、有名な話。それでもツイーディアが本当に暴徒として起ったのかは、終ぞわからなかった。

 そもそも、貴族の出で、医師としての道もあって、王宮に仕え、主人であった王女をよく大事にしていた――そんな彼女がなぜ王都に武器を向けることになったのか。それはひょっとしたら王自身も知らないのかもしれない。何も知らされぬまま、ただ自分を救う手紙を遺して逝った人。取り残されるばかりだった彼は、わからないばかりの背を追いかけて、どれだけ苦しかったことだろう。

「――ある人が僕に言ったんだ。眠れないときは、膝か肩を抱きしめるようにして眠るといい。そうすると、自分の中にいる誰かが、まるで自分を抱きしめてくれているように思えるからって」

 開け放たれたままの窓から、ふいに風が舞い込んだ。彼の金の髪が揺れて、光をはじく。

「正直よくわかんなかったけど、今なら少しわかる。僕は、もうずっと前に死んだ人のことを思い続けながら生きるよ。ほんとうはすごく嫌だし、いつまでだって隣にいて欲しかったけど……」

 叶わない願いというものがある。強く、願えば願うほど、ねがいとはかけ離れていく現実が。決して生きやすいとは言えないこの国で、だからこそ人々は東の山に拠り所を見いだしたのだろう。

 彼らは今も、あの山の端で生きているかもしれない。でもそれは、生きる者からすれば見ることも、手を伸べることもできない領域だ。一番遠いところで生きる人々の幸せを願って、自分たちは、一番遠いところで想っている。今日も明日も、ただ、それだけ。

「それでいいんだ」

 すとんと、彼の言葉が東瀛の胸に落ちた。

 どこかで幸せに生きていてほしい。叶うことならばまた会いたい。――そんな、幽夢ゆめでしかない幻想は真っ向から叩き落とされて、それでも、だからこそ自分たちは、前を向いて生きていけるように。その言葉を待っていたかのような東瀛の胸の空隙に、彼の言葉は静かに収まって、どこかで戸惑っていた東瀛の手を引くようにとくんと音を鳴らした。

 王は手を上にあげて伸びをした。それから片目で東瀛のほうを見やって、口角を上げる。

「――ね、いい匂いがする。今日は朝食が早かったから少しお腹が空いたの」

「ああ、それは。早くご用意しなきゃでしたね。しっかり食べて、……そう、今日はお客様をお迎えする日ですものね」

「うん。倒れたりしちゃったら大変なんだ」

 まあーそんなことないと思うけど、とからからと彼は笑う。

大鳥おおとり様は、少しお痩せになったようだとお聞きしましたが」

「うん。むつも食べることは好きなはずなんだけどな。でも元気そうだって。子どもがずいぶんとやんちゃらしいって、もう僕の耳にも入るくらい噂されてるんだから」

「あらまあ」

 じゃあ早く支度しないとですね、と東瀛は彼の前に菓子を出す。

 それから、気が早いかしらとも思ったけれど、いったん部屋を出、隣室に控えていた着替えの侍女たちに用意を始めるよう声をかけた。別の部屋にも寄って、賓客の対応をつかさどる客司へと、別の侍従官に数個言伝を頼む。

 それから部屋に戻ると、彼はまた窓辺に立っていた。白い手が銀皿から花を掬って、窓の外へとそれを伸べる。

 強い風が吹いた。

 風とともに、東瀛は鐘の音を聞いた。日の出が遅いこの国は、朝が遅い。この国のどこかで鐘が鳴る。聞こえないはずの十時の音。華やかで軽やかで、だからこそどこか哀しかった。

「きっと睦からすれば色々と変わったけど、まだ僕をフラーと呼んでくれるかな」

 彼は振り返ってそう言った。その顔には、晴れやかな喜色が浮かんでいた。

「もちろんでございましょう。びっくりなさるのは、きっとそうでございましょうけども」

 なにしろ長い時がたちましたからねぇ、と東瀛は間延びしながら答える。その後ろで、扉が叩かれた。着替えの侍従官たちだろう。

 彼は窓辺を後に、東瀛に一言二言冗談を言って、それから声をあげて笑った。揺れる銀皿はしずかに白い波のみを揺らしている。窓の外に、すでに青色は蒼穹に溶けこんでいた。

 風に乗った青い花は、緑豊かな国を眼下に、どこまでも飛んでいく。





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