後篇

 翌朝。いつもどおりの時間に目を覚ました俺は、いつもと変わらない時間に家を出た。

 学校へは徒歩通学。人通りのまばらな歩道をのんびりと進む。まぶたを透過するまぶしい日差し。背中には教科書類をつめ込んだリュック。そして、


 手には、1冊の本。

 そのラベルに書かれている番号は――44番。


 結唯ゆいにはああ言ったけど、果たして44番の本はあった。結唯が帰ったあと、念のためと思って倉庫を探して。何の気なしに探しても見つからないのは無理もない。その本のラベルは、誰かが間違えたのか「44」の上に違う番号のラベルが貼りかけの状態だったのだ。

 まあ、あるって答えてたら「どんな本か教えて!」だの「友だちにも見せてくる!」だの騒いで、俺の平穏な読書生活がおびやかされていたことは想像にかたくない。


 じゃあどうしてその本が今、俺の手に握られているのかといえば――結唯の話で七不思議が気になったから、なんてことは全くない。

 七不思議なんてただのウワサ話に決まっている。そもそも電子書籍やWEB小説の時代に、呪われた本だの読んではいけないだの、時代錯誤も甚だしい。

 俺が危惧きぐしているのは、そんな都市伝説みたいな話で盛り上がった野次馬が図書室に入りびたること。ひいては静かで心地いい図書室の空気を壊されることだ。


 それを防ぐためにも、七不思議は真っ赤なウソだったということを俺が証明してやる。


「にしても、そこまで古びてないな」


 たしかに不思議な点がないことはない。二桁ふたけたナンバーだからかなり古いはずなのに、古本特有の匂いもしなければ、指先がむずがゆくなるような肌触りもしない。唯一古本らしい点といえば、真っ赤な表紙のタイトルがかすれて読めないことだけだった。


 たしか……44ページだったっけ。

 歩きながらパラパラとめくって、結唯が言っていたページにたどりつく。


『その短編を通学途中に歩きながら読むと……その人の背後にいて、振り返ったら……あっちの世界に連れてかれちゃうって』


 背後に何かいる、ね。

 怪談話ならではのありがちな設定なんだろうけど、どうせウワサに過ぎない。夜道ならともかく、今は朝。それに俺が歩いているのは人通りが全くないというわけでもない。もし仮に何かが背後にいたら、周囲にいる人が気づくだろう。


「そんなことより、だ」


 読書家の俺としては、本の内容の方が気になる。短編集だからきっと小説なんだろうけど、ホラー系の話なんだろうか。通学中にホラー小説なんて雰囲気はちょっと違うが、おもしろい本ならなんでもいい。


 なになに……?


 前から人が来ていないか一応確認してから、開いたページに目を落とす。まずは1行目。主人公と思しき人物が誰かと会話しているシーンから始まっ


 ――――――――。


「え…………?」


 瞬間、世界から音が消えた。

 いや、聞こえなくなった?


 ザ――――ッ


 金縛りにあったみたいに俺の目は ザ――ッ 開いたページから動かないのに ザ――ッ 書かれていることは ザ――ッ 微塵みじんも頭に入ってこない。

 聞こえ ザ―――ッ てくるの ザ――――ッ は ザ――――ッ 耳鳴り?


 うるさいなあ。


 ラジオのノイズ音のようなざらざらした響きが耳から脳みそを埋め尽くしていく。


 うるさい ザ――――ッ うるさい ザ――――ッ うるさい。

 念じても、消えない。むしろ大きくなる。


 うるさい ザ―――ねえ―――ッ うるさいうるさい ザ――――ねえ――――ッ うるさいうるさいうるさい ザ―――――ねえ―――――――ッ うるさいうるさいうるさザ―――――――ねえ


 ねえ。


 こっちを……向いて?


「…………っ!」


 背中を、指先で薄くでられた。


 ねえ?


 間違い、ない。


 ねえ?


 誰か、いや。「何か」がいる。


 ねえ?


 呼吸が浅くなる。指先が震える。


 ねえ?


 女の人の、声。こっち向いて? 呼ばれている。だったら、行かなくちゃ。

 俺は、ゆっくりと振り向


っ!」

「うわあっ!」

「きゃっ!」


 小さな悲鳴がすぐ隣から弾けた風船のように聞こえた。


「ゆ、結唯……?」

「そんなにビックリしないでよー。こっちがビックリするじゃん」


 はー、と息を吐いて胸に手を当てている。


「お、お前こそ耳元で大きな声出すなって」

「えー、悠太が全然反応しないのが悪いんじゃん。私、さっきからずーっと声かけてたのに」

「え?」

「もしかして本読んでて気がつかなかったとか? だめだよー、歩きながらだろ危ないんだからー」


 ずっと……呼んでた? あの声は、結唯?


「ってかなに読んで……あーっ!」


 結唯が俺の手元を指さして声を上げる。


「それ、私が昨日言ってた七不思議の本じゃん!」

「あ、いや」

「さては悠太、ひとり占めしようとしてたなー」


 ぷぅ、とむくれる結唯。


「そ、そんなことないっての。俺は図書委員として、変なウワサが出回らないよう確かめてただけだ」

「ほんとー?」


 半眼を向けてくるが、結唯の関心はすぐにそれる。


「それで、どうだったの?」

「な、なにがだ?」

「読んでてなにか変わったこととかあった?」

「あ、ああ。そういうことか」


 俺は手に持った本に目を落とす。真っ赤な表紙が太陽に照らされて、にぶい光を放っている。


「なんにも……」


 そこまで言ってから、俺は眼球だけを動かし、俺と結唯の背後を見る。


 そこには、

 そこには――


 ――誰も、何もいない。


「なんにも、なかったよ」


 なにも、なかった。

 間違いない。


「なーんだ、やっぱりウワサだったのかー」


 昨日と同じように後頭部に腕を回す結唯。がっかり感丸出しだ。


「気が済んだなら、変な話に盛り上がってないで勉強しろよー」

「そーなんだよ! 悠太、今日勉強教えて! このままじゃテストやばいんだよー」

「お前なあ……だから言っただろ?」


 俺は隣で慌てふためく彼女に肩をすくめて、再び通学路を歩き出す。いつもの日常。変わらない日々。


 そう、こんなのはただのウワサ話。

 だから俺から言えるのはこれだけ。


 この物語を、決して通学中に読まないでほしい。


 この物語――君が今読んでいる俺と結唯の物語短編を。


 そして、



 絶対に背後を振り返らないでほしい。

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P.44の短編 今福シノ @Shinoimafuku

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