望月すみれに近寄ってはいけない 

雨伽詩音

第1話望月すみれに近寄ってはいけない 

 私には胎児のまま亡くなった姉の姿が見える。学校に行く際、家を出てすぐのところに、長い髪にワンピース姿の十八歳とおぼしき姉がぼうっと浮かんでいるのに見守られながら登校する。どうして赤ちゃんのままではなく、成長した姿で見えるのかは分からない。

 両親には話していない。母は姉が流産したのを未だに悲しんでいるのを知っているから。きっと、姉の姿を目にすれば、見なければ良かったと思うだろう。

 姉はいつも泣いている。全身から涙をこぼしているのではないかと思うぐらい、顔をくしゃくしゃにして泣いているときもあれば、静かに涙をこぼして嗚咽をもらすこともある。

 私は姉と話すこともできず、泣き声に背中を押されるようにして通学路を歩く。姉は一言も言葉を漏らさずに泣きつづける。いつしか、姉の涙が道路を濡らしてしまうのではないかと思うこともあるけれど、道路には雫一滴したたらない。 

 はじめのうちは、「どうして泣くの?」と問いかけたこともあった。それでも返答はない。生まれてきた赤ちゃんが泣くように、姉もこの世に歪な形で生まれてきて、泣くほかないのかもしれない。言葉を知らないのだ。

 泣き声が途切れるのは、私が学校の敷地をまたいでからのことだった。学校に着くと心からほっとする。一日中あの泣き声を聞いていたら、こちらまでおかしくなってしまいそうだ。退屈な授業をやり過ごし、友達との何気ない会話を交わしていると、ようやく姉の泣き声が頭から離れてゆく。

 私は美術部に所属していて、放課後になると美術室に足を運ぶ。先日は薄闇の中に浮かぶミロのヴィーナスの頭部のレプリカが涙をこぼしているように見えて、思わずひっと声をこぼした。すると、宮園先輩が声をかけてくれて、私はようやく現実に引き戻されたのだった。

 宮園先輩はショートボブに銀縁のメガネが似合うインテリ系女子で、週末になると国立西洋美術館に通っているそうだ。印象派が好きという共通点もあり、私たちはすぐに親しくなった。

 宮園先輩が得意とするのは風景画で、将来の夢は研究者になることだと、私にだけ秘密を明かしてくれた。ご両親からは反対されているけれど、きっと先輩なら夢を叶えられるだろう。美学や芸術学のことなんて、私にはさっぱり分からないけれど、先輩はいつも分厚い本を何冊も携えている。三年生を示す、制服の緑のリボンがとてもよく似合う。

 それでも先輩にも私の秘密は話していない。頭のおかしい子だと思われるのが怖いのだ。この間、「望月さんって霊感がありそう」なんて何気ない口調で他の先輩に云われたときには、思わずどきっとしてしまった。「暗いっていう意味かな」と思ってその日はけっこうへこんだ。

 たしかに友達はそんなに多くないけれど、まったくいないというわけではない。それでも宮園先輩になついているという他には、美術部に親しい人もいないし、どちらかというと人見知りしがちだし、ひっこみ思案なタイプだから、暗そうに見えるのかもしれない。

 それとも、姉のことを見破られてしまったのだろうか。その先輩とはそこまで親しくないから、突っこんで尋ねることもできず、私はもやもやとしたわだかまりを抱えることになってしまった。

 もし他の人に姉が見えていたらどうしようと思うと、夜も不安に駆られてしまう。あんなに泣きつづける姉がいることを知られてしまったら、学校の友達も、そして宮園先輩も私から離れていってしまうかもしれない。

 いや、それだけではない。姉を他の人に知られてしまうということは、私自身の秘密が明かされてしまうということにもなりかねない。誰にも云えない、私だけの秘密──。

「望月さん、筆が止まっているわ。顔色も悪いし、気分が悪いんじゃない?」

 宮園先輩が心配そうな顔をして私を覗きこむ。どうしよう、自分の瞳の奥に眠っているものを見つけられてしまったら。姉の泣き声を聞かれてしまったら。不安とともに鼓動が早くなる。

「あの、今日は早退させてもらってもいいですか?」

「その方がいいわ。部長には私から伝えておくから。くれぐれも気をつけて帰ってね」

 宮園先輩の言葉に、ぞくっと鳥肌が立った。気をつけて帰る。先輩には気づかれていないはずだ。帰り道で胎児のまま亡くなった姉が泣いていることも、その姿が胎児のままではなく、十八歳であることも。

 彼女がちょうど宮園先輩のひとつ年上だとはたと気づく。私は姉の代わりとして宮園先輩を見ているのだろうか。それとも、宮園先輩の代わりとして姉を見ているのだろうか。思考の檻に囚われて、助けを求めるように、私はつい口走ってしまった。

「先輩は、幽霊とか信じますか?」

「ああ、やっぱり見えるのね、望月さん。そういう噂は聞いたけど……」

 私に霊感がありそうという話だろうか。噂になって広まっていると知って、私の鼓動はますます早くなる。宮園先輩にも伝わっていたなんて本当にショックだ。

「いえ、私には見えません。でも、もしかしたらいるのかなぁって」

「望月さんが下校中に何もないところをぼーっと見ていたって話、けっこう聞くのよね」

「たぶん、猫を見てたんだと思います。私、猫が好きなので、つい目で追ってしまって」

 なんとか呼吸を整えて、しどろもどろに嘘をつく。下校中の様子を見られているなんて思わなかった。誰が見ているのか分からないけれど、噂を広めたのもきっとその人なのだろう。

 いじめに遭ったことはこれまでになかったのに。たとえ姉の幽霊が見えたとしても、誰にも話さなければ普通の学校生活を送れると思っていたのに。宮園先輩まで私を霊感があると疑うなんて。

 とにかく急いで帰らなければならない。つい姉に目を留めてしまうけれど、それを振り切ってまっすぐに家に帰らなくては、また変な噂を立てられてしまう。宮園先輩のことを信じていたのに、裏切られてしまったような気持ちになって、私はうつむいたまま学校をあとにした。

 後ろからついてくる姉の泣き声を振り切るように腕を振って歩く。今日はひっそりと泣いているようで、時々かすれたような嗚咽が聞こえてくる。振り返ったら姉の姿が見えるだろう。きっと真っ白なワンピースを濡らして、長い髪を時々揺らしながら泣いている。

「なによ、泣きたいのは私の方だわ」

 そっと胸の内でつぶやくと、姉の泣き声はいよいよ高くなる。そもそも姉はなぜ泣いているのか。赤ちゃんとして生まれそこなったから泣いているのだ。姉は泣くことでしか言葉を伝えられないし、他に気持ちを表すすべがない。仮に泣くことで何かを伝えているのだとしたら──?

 ふと立ち止まって振り返り、姉の姿をおそるおそる見る。白いワンピースから伸びる腕は透き通るように色白で、その指先にはどこから現れたのか、クマのぬいぐるみがぶらさがっている。まるで子どもに捨てられたような、くたくたになったぬいぐるみだ。

 いや、あれはまさしく私が捨てたぬいぐるみなのだった。元々は生まれてくる姉のために母が用意したものを、私がそのまま譲り受けて、成長するとともにいつしか忘れ去ってしまい、やがて生地がくたびれて捨ててしまったのだ。

 そのぬいぐるみを姉が持っている。自分のものになるはずだったぬいぐるみを奪われた悲しみで、姉は泣いているのかもしれない。あるいは恨んでいるのかもしれない。いずれにせよ、姉は言葉を発しないのだから分かるはずもなかった。

 姉はしばらくうつむいたまま泣いていたが、ゆっくりと顔を上げて、前髪の奥からふたつの瞳が私を捉える。すくみそうになる足を叱咤して、私は尋ねた。

「どうして泣いているの?」

 姉の泣きはらした瞳が私を捉える。ゆっくりと唇が動き、何か言葉を紡ごうとするが、声にならないまま唇は閉ざされ、やがて漏れ出てくる嗚咽とともに声にならない声を吐き出す。

 何か伝えたいことがあるのだ。でもそれが何かは分からない。姉は言葉を知っていて、それでも話せないのだと気づいたところで、別の不安が私の胸によぎる。もしもそれが、無事に生まれてきた私を呪う言葉だったとしたら──。

 憶測はどこまでも憶測を呼ぶ。そうして私は噂話のターゲットにされ、今度は私が姉に疑いの目を向ける。渦巻く不信感に押し包まれている。

「姉さんなんて大嫌い」

 思わず声に出して言葉を発してしまい、何人かがこちらを振り向く。ああ、学校に居場所がなくなってしまう。私に霊感があるなんてことを云いふらす人たちが声高に私を糾弾するかもしれない。望月すみれに近寄ってはいけない、と。

 宮園先輩もその輪の中の一員となってしまうのだろうか。銀縁の眼鏡の奥で冷たい目が私を蔑むのを想像して、体が震える。先輩に嫌われてしまったら、私はどうやって絵を描いていけばいいのだろう。

 いずれ先輩をモデルに絵を描きたいと願っていた。読書している姿の少女や貴婦人の絵を好む私は、きっと彼女がうってつけのモデルになると信じていたのだ。私のふところ事情では、まさかドレスを用意するわけにはいかないけれど、ちょっと背伸びをした大人っぽいワンピースを身にまとってもらって、窓辺で本を開いているところを描いてみたい。

 宮園先輩にはきっとモスグリーンのワンピースが似合うだろう。休日にどきどきと胸を高鳴らせながら、素敵な衣装を買って、気に入ってくださるかしらと、枕元にショッパーの袋を置いて眠りに就くのを想像していたのに。そういう切ない思いも打ち砕かれてしまった。

 もしも先輩に嫌われてしまったのだとしたら、私は自分ひとりだけのために彼女の似姿を描くだろう。ひっそりと家で筆を進めて、誰にも見せないまま部屋に飾る。モデルがいないのは困るけれど、ルノワールの「読書する少女」を真似て描いてもいい。先輩の容貌はよく知っているから、そこにかぶせるようにして描けば、きっと素敵な絵になる。そう、きっと。

 私は自分に云い聞かせるようにして下校道を歩く。背後で姉が甲高い声で泣いているのをなぐさめもせずに家に着いた。部屋のベッドに身を投げ出すと、さまざまなことが頭をよぎる。それでも姉の泣き声が脳裏にこびりついて離れない。

 私はそっと自分の胸の内の奥にある扉を開く。そこに姉の面影が眠っていることを私は知っている。母は頑なに姉を流産したことを話そうとはしなかった。

 ただリビングの片隅の仏壇に小さな位牌があって、毎日のようにそれに手を合わせる母の背中を見て育った。はじめは誰の位牌だかわからなかったけれど、成長するにつれて、私には死んだ姉がいることを知った。

 それからというものの、時々私は胸中で姉に語りかけるようになり、姉が今ごろ生きていたらと空想を膨らませるようになった。その形を取ったのがあの通学路で泣いている姉なのだ。だからこのことは決して誰にも話せない。私だけが知っている姉は、私の意思のもとでしか生きられないのだと思っていた。

 しかし状況はどんどん悪くなる一方だ。姉は決して泣き止まないし、学校ではおかしな噂を立てられる。

 もはや私は姉をコントロールするすべを失っているのだろう。それとも、胎児のまま亡くなった姉が、無事に生まれてきた私をコントロールしているのだろうか?

 背筋がぞくっとする。このまま誰からも見放されてしまったら、私は姉とともに、姉だけを心の支えに生きていくほかない。他の誰にも聞こえない泣き声を登下校のチャイムにしながら、これからも私は学校に通いつづけるだろう。周りにはもう誰もいない。宮園先輩も、きっと私を怖がって離れていってしまう。

 その時すさまじい衝撃音がして、私は驚いてベッドから飛び起きた。救急車のサイレンが大きな音を立てて迫ってくる。事故だろうか。

 私は制服のままあわてて靴を履いて外に飛び出す。銀縁の眼鏡が血に濡れて転がっているのを見たとき、私にはすぐにそれが宮園先輩だと分かった。姉が殺したのだ。いや、姉を使って私が殺したのだ。私が帰り道に泣きつづける姉をなだめなかったせいで、大嫌いだという言葉を投げつけたせいで、あるいは姉が宮園先輩に嫉妬したせいで……。思考がまとまらない。

 通学路に飛び出した私は、上空に浮かんだ姉がにこやかな顔をして、声を立てて笑っているのを目の当たりにした。まるでご機嫌な赤ちゃんのように、姉はあどけない声で笑いつづける。他の誰かが気づく様子はない。パトカーがサイレンを鳴らして走ってくるも、何事もないように姉を通り抜けてゆく。

「あいしてる」

 姉はくたくたになったクマのぬいぐるみを胸に抱きかかえて満面の笑みを浮かべて云う。

「あいしてる」

 それは私がずっと胸の内に秘めていた言葉だった。自らに禁じつづけた言葉に他ならなかった。まるで初めて覚えた言葉を幼児が何度も口にするように、姉は同じ言葉を繰り返す。

 ようやく言葉を交わせる喜びに感極まったように、姉はけたたましい笑い声を上げる。私は血塗れた先輩の眼鏡を拾い上げて、それを靴底で踏みにじった。ガラスが割り砕ける音がして、警官が迫ってくるのもかまわずに、私は晴れやかな笑みを浮かべて告げる。

「私も愛しているわ、さくら姉さん」


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