第9話 それは、偶然などではなく

 そうして、円卓会議は閉廷した。

 事を起こした張本人が怪我を負って病院にて療養している以上、その落とし前を付けるのは彼女が完治して再び茨薔薇の地へと戻ってきた時と相成った。


 倉敷八代は己の意思で手を貸したことを認めた為、しばらくの間は謹慎処分を言い渡された。


 これにて一件落着。

 蜜峰漓江によって引き起こされた事件、それを引きずって事の真相を暴こうとした渋谷香菜の計画も、すべて。


 三日月絵瑠に向けられていた疑念は消え去った。

 これで、なにもかも本当に、完膚なきまでに終わりを迎えたはずだ。


 そうであったならば、と。

 この日、ひとりの少女は、引き裂かれそうになるほどの絶望と共にそう願うことになる。


  ◆◆◆


 ふわり、と何かに包まれている感触。

 ぼんやりとした意識の中、僕―――紅条穂邑は目を覚ます。


(ん、あれ。いつの間にか寝てたのか)


 寝ぼけ眼を擦りながら、自分の上に被せられている毛布を手に取った。それからはとても嗅ぎ慣れた香りがする。

 それは他の誰でもない、香菜のものだった。


「そうだ、僕は確か円卓会議で……!」


 勢いを付けて身体を起こす。

 ソファの上で眠っていた自分の身体は、寝相が悪かったのか少しばかり軋んでいる。


 記憶が曖昧だった。

 確かに円卓会議に参加し、事件の真相を暴く百瀬百合花達の問答を目の当たりにしていたはずだ。


(僕は、いつの間にここに? ここは香菜の部屋だけど)


 すぐ側にあるテーブルの上に置いてあったスマホを手に取る。時刻を確認すると既に夕方を過ぎていた。あれから少なくとも二時間以上は経過していることになる。


 その二時間の記憶、それらがぽっかりと欠落していたのだ。


(おかしい、まさか途中で気絶した? いやいや、そんなわけがない。思い出せ、思い出すんだ)


 しかし、どれだけ思い返そうとしても記憶は蘇らない。


(くそっ。ああもう、……!)


 実のところ、こういった出来事は過去に何度か体験していた。

 それは一年前に記憶喪失となった事による後遺症なのか、その理由は不明だが―――時折、まるで本のページを無理やり破り捨てたかのように、記憶がすっぽりと抜かれてしまうというものだ。


 直近であれば、えると共に百瀬百合花に直談判しに行った時。

 僕が倒れたとは聞いているけれど、


 それ以前にも何度か腑に落ちない出来事などもあって、僕は記憶喪失の弊害として無理やり納得してきた。これまでは特に気にするようなこともなかったからだ。


 けれど、今回は別だ。

 こんな最悪のタイミングで邪魔をされてしまうのだけは呑み込めない。すべてを知る為に行動してきたというのに、これでは無意味に終わってしまう。


(そうだ、えるは? えるならなにか知ってるかもしれない)


 僕は慌ててスマホを操作し、三日月絵瑠へとメッセージを飛ばす。


『話したいことがあるんだけど通話できない?』


 そわそわしながら待っていると、ものの数秒で返信が返ってくる。


『ごめんなさい、今は手が離せなくて。明日のお昼では駄目ですか?』


 彼女は百瀬百合花の傍付きだ。恐らく忙しいのだろう。残念ではあるが、明日までお預けということで納得するしかない。


『わかった。また連絡するよ』


 僕はそれだけ送って、深く溜め息をつく。


 覚えているのは、百瀬百合花の宣言―――香菜が計画の立案者だった、という発言まで。それからの事は一切思い出せない。


 虚無のような空白。

 その時の自分がいったいどのような状態であったのかはわからない。けれど、当事者ならば他にも存在する。


(摩咲にも聞いてみるか)


 そうして僕はヤンキー少女にもメッセージを飛ばしてみたが、すぐに反応はなかった。元々あまり好かれているわけでもないので、無視されていたとしても不自然ではないが―――


(はあ。ほんとにどうしてこう、肝心な時に)


 苛立ちはあったが、次第に心も落ち着きを取り戻してきた。

 急いでも何も良い事がないというのは、これまで十分に味わってきたのだ。ここで焦る必要はない。時間はある。明日になれば解ることなのだし、今は別のことをして気を紛らわせるのが得策か。


 そう思い至ると、僕はふとひとりの少女の顔を思い浮かべていた。


(香菜、そろそろ大丈夫かな……?)


 渋谷香菜。

 彼女が何を考えてあんなことをしたのかはわからない。未だに信じられない部分も多々ある。結果として致命傷には至らなかったものの、今もなお病院で治療を受けているのは確かだった。


 蜜峰漓江の真意もわからない。

 あの時に見せた彼女の泣き出しそうな表情、謝罪の言葉―――それが何を意味するのかなんて僕には想像もつかないけれど、何故か悪意はまったく感じられなかった。


 それでも、もし香菜を刺したのが蜜峰さんだとするなら、僕は彼女に対して憎悪を抑えることができないかもしれない。


 僕は香菜へとメッセージを送ることにした。内容は簡潔に。彼女が無理をしない程度に、ただ一言。


『何があっても僕は香菜の味方だよ』


 ちょっと気障ったらしいかもしれないけれど、それが僕の本心だったから。

 少しでも彼女の心を安らげられたなら―――なんて、それくらいのつもりで投げた言葉だったのだが。


『え、急になに?』


 その返信は、すぐに返ってきた。


(香菜、もしかしてもう……!?)


 予想外の展開ではあるが、嬉しさが先行していた。治療が終わり、自由になったのだろうか?


 僕が喜んでいると、すぐさま着信がきた。

 差出人の名前は渋谷香菜。メッセージでやり取りするのが面倒になったのか、直接通話が飛んできたのである。


「は、はい。もしもし、香菜?」


『ほむりゃんどしたのー? なんからしくないメッセージ送ってきてさぁー』


 通話越しの声は元気なものだった。

 いつもの香菜。あれだけの事件の後とは思えないくらい、聴き慣れた、安心感を得られる声色。


「ごめんごめん。ちょっと感傷的になってた。治療は終わったみたいだね。ほんと、無事でよかったよ」


『あ、うん。いやあたしも驚いたよー。まさかなんて』


「え、もしかして誰にやられたか解らないの……?」


『知らないよー! そもそもなんであたしが刺されなきゃいけないわけー!?』


 覚えていない?

 いや、もしかすると意識を失わされた後にやられたのか?


「それって誰から聞いたの?」


『誰って、さっきお見舞いにきてくれた百瀬先輩だけど?』


 なるほど。

 香菜は蜜峰さんに襲われたとはまだ知らないらしい。百瀬百合花はあえて話さなかった、ということか。


「そっか、容態は? すぐ退院できそう?」


『傷はそこまで深くなかったみたい。三日もすればそっちに帰れるらしいから大丈夫、安心してー』


「それならよかった。三日もこの広い部屋でひとりぼっちってのはなかなか寂しいけど、まあ大人しく待ってることにするよ」


『ほむりゃんも寂しいとか思ってくれるんだねぇ、あたしは嬉しいぞー?』


「そりゃそうだよ、せっかく二人で過ごすって決めたのにさ。まあ、申請した食材もそのうち届くだろうし、香菜が帰ってきたら二人で料理の勉強とかいいかもね。ああ大丈夫、ひとりだからって掃除は欠かさずやっておくし―――」


『ねえ、ほむりゃん。ちょっといい?』


「ん、なに?」


『あのさ、さっきから話が見えないんだけど―――?』


「――――――」


 僕は絶句した。

 香菜はいったい何を言っているんだ?


『そもそもあたしが刺されたのっていつの話? 日付的に三日は経ってそうだけど……あたし、その間はずっと眠ってたんだよね? ごめん、ちょっとよく覚えてなくてさー」


「ウソ……だよね?」


『??? あたしが嘘付く必要、ある? ほむりゃんが今どこでなにしてるのかは知らないけど、もしあたしの身の回りの世話とかしようとしてくれてるんだったら問題ないよー? 傷は大したことないし、寮に戻っても一人で暮らす分には何の心配もありませーん!』


 通話越しに聴こえる香菜の声は、どこまでも平然としていて、なんの偽りもない―――以前とまったく変わらないもの。

 だからこそ、僕は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けていた。


「は、はは……冗談も、ほどほどに……してくれよ……」


『ほむりゃん?』


「いや、ごめん……なんでもない。ちょっと用事を思い出したから、また連絡する」


『へっ? え、いや、ちょ―――』


 ブツリ、とこちらから通話を切る。

 目眩がする。全身から血の気が引いていく。


 そうして、気付けば僕はその場で倒れ込んでいた。


「どういうことなんだ……?」


 わからない。

 わからない、わからない、わからない!

 意味不明だ。理解不能の反応だ。あれじゃあ、


 いいや、違う―――ではない。

 彼女は本当に、ここ数日の出来事について何もかも記憶から欠落させてしまっているのだ。


 思えば兆候はあった。

 蜜峰漓江による監禁事件の際、香菜は倉庫に囚われてからほぼ二日という時間の記憶を失っていた。

 その時は意識を失い、眠らされていたのだということで納得したが、それはやはり不可思議な事態であったのだ。


 一年前、記憶を失った自分自身―――あれから定期的に起こる記憶障害。


 同じく記憶喪失となり、施設に監禁されていた少女―――三日月絵瑠。


 多重人格―――解離性同一性障害であるという、蜜峰漓江。


 そして今、まさに記憶の欠落を見せた渋谷香菜。


 これらは偶然なのか?

 いくらなんでもおかしくはないか?

 これまでの一連の事件は、本当にすべてが解決しているのか?


 いいや、まだだ。

 きっと、これらの事象の裏に何かがある。

 その鍵となるもの、僕はそれを見つけなければ。


 倒れていた身体を立ち上がらせる。

 拳を握り締め、脳裏でやるべきことを明確にさせる。


(無関係なんかじゃない。偶然で済ませて良いはずがない。それなら、僕は―――)


 だってこんなの理不尽だ、残酷すぎる。

 もし本当に香菜がここ三日の記憶をなにもかも忘れてしまったというのなら。

 僕と触れ合ったことも、通い合わせた心も、交わした約束も―――なにもかも、すべてがなかったことになってしまう。


 それだけは嫌だ、許容できない。

 もはや事件に関しての記憶なんてどうでもいい。香菜がなにを思って行動したのか、そんなことさえ些末な問題だった。


 ただひとつだけ。

 一年の時を経て二人で導き出した解答こたえを、こんな簡単にあっさりと踏みにじらせるわけにはいかない。


『あたしはほら、ぜんぶ覚えてるからさ。だから、わかるんだ』


 香菜の言葉を思い出す。

 記憶を失った僕を認め、それでも過去を捨てず、ただ代わりに覚えている自分自身こそが示さなければならない―――そう決意してくれた彼女のことばを。


(ああ、そうか。一年前の香菜はきっとこれ以上の絶望に苛まれたんだ。皮肉にも今の僕なら少しだけその気持ちがわかる。……それに、それでも香菜は諦めなかった。一度は愚かにも突き放してしまった僕のことを、決して見捨てたりなんてしなかったんだ)


 ならば、まだ諦めるには早過ぎる。

 僕は自分自身の利益の為だけではなく、大切な人の為にこそ行動しなければならない。


 きっと、それが僕にできる唯一の贖罪だから。

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天使の棺 ー虚ろな罪人と無垢なる少女ー 在処 @aruka_sakura

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