僕の夕暮れ、君の夜。
佐渡 寛臣
僕の夕暮れ、君の夜
空に海を描いていた。魚の鱗を星の輝きとして、光る大きな鯨のあくびが彼女にとっては三日月であった。
美術室の片隅で油絵の具で汚れたエプロンをした彼女がいた。筆と指を汚しながら、笑顔で絵画に向き合っている。亜麻色に染めた髪を白いシュシュで結び、健康的な肌色の頬には薄化粧をしているのか淡いピンクのチークがのっていた。
楽しそうに彼女は目をきらきらとさせて、空に浮かぶ魚の鱗に光を描き込んでいく。
生きている世界が違うのだと、僕は思う。平々凡々な夕焼けに染まる街を描きながら、そう思う。
これだって部の課題は美しい街並みだったはずだ。僕は学校の帰り道、歩道橋から見た夕焼けに染まる街がどこか綺麗で、それを題材に描き始めた。
だけど彼女は違う。彼女はいつも独創的な世界を彼女の調子でいつも描く。
――見えている、世界が違う。
自分の描く絵はどこにでもある風景だ。
友人からは褒められる。絵が上手いと煽てられて、描くのは好きだし、少しずつ技術も上がっている。だけど彼女の絵を見てしまうと、何かが崩れたような気がしてしまう。
僕が苦しみながら描いた絵を、彼女は楽しそうに自由に描く。
(一度見たら忘れられない絵だ)
彼女の絵を初めて目にしたとき、僕はそう言った。そうして僕は自分の絵を眺める。そのどこにでもあるような風景画は、記憶に残らないつまらない絵だ。
チャイムが鳴った。部活の終わりの時間だ。彼女も顔を上げて、僕のほうを向いてにっこりと笑う。
「――あっという間だねぇ。秋月くん」
「そうだね。豊峰さん」
僕も筆を置き、椅子から立って片づけを始めた。彼女がエプロンを外す姿を横目に見ながら僕はあまり進まなかった自分の絵を見下ろした。
塗りかけの夕焼け。つまらない絵だ。
「これって帰り道の歩道橋のところだよね」
後ろから声をかけられた。豊峰さんが僕の肩越しに作品を見ていた。驚いて僕は彼女に振り返り、そして頷く。
「――うん、そうだよ。まだ描きかけなのによくわかったね」
「なんでだろうねぇ。すぐにわかったよ」
豊峰さんは普段はのんびりとしている。絵を描くときのきらきらした笑顔は殆どなく、どこか眠たそうな目でゆっくりと言葉を紡ぐ。
僕たちは片づけを終えて、美術室を出ると鍵をかけた。職員室に鍵を返して、いつも通り僕たちは一緒に帰り道を歩く。
豊峰さんと出会ったのは、僕が部活に入部した初日の事だった。二年生の部員はおらず、その年の入部は僕たち二人だけだった。
「一年二組の豊峰です。絵を描くのが好きです」
彼女の自己紹介はそんな短いものだった。ぼんやりとした女の子だと僕は思った。それから三年生の先輩と顧問の美術の先生に教わりながら僕たちの部活は始まった。
豊峰はいつも自由に絵を描いていた。初めはふざけているのかと思っていた。しかし初めて完成させた一枚を見て、僕の認識は大きく変わった。
――豊峰の絵は、忘れられない絵だと。
僕は、絵を描くことが豊峰ほどに好きなのだろうか。ふとそう思うようになっていた。上手いと煽てられて描き始めた僕は、本当に絵が好きで続けているのだろうか。
下足室で靴を履き替えると、僕は首を振って考えを外へ押しやる。同じく靴を履き替えた豊峰が校舎の玄関口で僕を待っていた。
帰る方角が一緒の僕らは自然と共に帰るようになっていた。夕暮れに染まり始めた秋空を見上げながら二人並んで歩く。
「ふふふ」
豊峰が笑った。隣を見ると空を見上げている。高い空には薄らとオレンジの雲が見え、白と朱と空色が混じりあって広がっていた。
「――何を笑ってるの?」
「うんとね。――今日のこの空は私の好きなものばっかりだなって思って」
僕は豊峰と同じように空を見上げる。秋の空は高く、どこか澄んでいるように思える。乾いた空気がそう感じさせるのかもしれない。豊峰はこういう空気感が好きなのだろう。
「豊峰は……絵を描くときいつも笑っているよね」
僕は彼女の絵を描くときの表情を思い出しながら言った。いつも楽しそうに絵を描く姿。僕がいつも羨ましいと思う、その姿。
僕の言葉に、豊峰は少し驚いた様子で瞬きをした。
「――私、笑ってる?」
「うん。いつも楽しそうにしているなって」
思案するように豊峰は視線を空へと泳がせる。僕の頭の中で彼女の頭上で光る魚が跳ねるような光景が思い浮かんだ。
「私、笑ってるのかぁ。笑って絵を描いてるなんてとんだ変なやつだねぇ。気をつけないと」
そういって一度笑ってからきゅっと一文字に口を結んだ。どこか芝居めいたその言い方に今度は僕が笑う。
「秋月くんは、いつもまじめにキリっとして絵を描いているよね」
「そんなことないよ」
それはきっと眉間に皺を寄せて悩んでいるからだと思う。自身の絵を前にして、いつも僕は迷いに迷う。未だに、空の色を決められずにいるくらいだ。ありきたりな朱色にするのか。どうなのか。
しばらく歩くと歩道橋の前に差し掛かった。信号は青色。少し走れば渡れそうだった。
走ろうか、そういう僕の服の裾を彼女が引いた。絵の具で少し汚れた細い指。
「――歩道橋、渡ろうよ」
彼女を振り返り、その瞳を見つめる。空はいつの間にか朱色に変わって差し込む西日が、彼女の目をきらきらと輝かしてみせた。信号は点滅し、赤に変わっていた。
ゆっくりとした足取りで僕たちは階段を上がる。次第に開けていく景色はいつもより少し高く、道路の真ん中あたりに差し掛かると、彼女はその歩みを止めた。
そこが、僕の絵と同じ視点だった。
「どうしてここの絵を描こうと思ったの?」
彼女が軽く首を傾げて、僕に流し目を送る。僕は顎に手を当てて考える。
どうしてだろう。どこにでもあるようなそんな景色のはずなのに、どうしてか僕はその絵を描き始めたのだろう。
「わからないな。何となく……かな。どうしてそんなことを聞くんだい?」
「――あまり順調って感じじゃなさそうだなって思って。だからちょっと聞いてみたかっただけ」
彼女はどこか困った様子で笑った。それはどこか哀し気で、僕はどうして彼女がそんなにも悲しい表情をするのかわからなかった。わからないことが申し訳ないように思えた。
だから僕は考える。どうして僕はこの絵を描こうと思ったのだろうか。
「――豊峰は……絵を描くとき、どうしてって理由はあるのか?」
「えぇっと……好きだから書くかなぁ。見上げた空が星の海みたいに思えたから、なんだかそれを忘れたくなくて、描いているのかもねぇ」
思いのままに好きな絵を描いているのだろう。僕も同じなのだろうか。だとしたらどうして僕はこの風景を好きなんだろう。
「前もここの歩道橋を一緒に渡ったよね。あの日も部活帰りで夕焼け空でさ」
まだ夏の出来事である。僕も記憶に残っている、あの夏の帰り道だ。二人で並んで歩く街並み。歩道橋を歩こうと言った彼女。今日と同じように、歩道橋の真ん中で僕らは立ち止まった。
見上げる空の夕焼けは色鮮やかに街を照らし、そして彼女の照らしていた。
汗ばんだ肌に浮かぶ水滴と、亜麻色の髪をかき上げるその仕草。僕はそんな彼女に見惚れたのだ。
そうしてその日も、彼女は空を指さしていったのだ。
「――月!」
彼女はあの日と同じように空を指さしていた。見上げると夕焼けに染まる空の片隅に白い月が浮かんでいた。
「――秋の……月だね。秋月くん」
(この空は私の好きなものばっかりだなって)
彼女は微笑んで僕を見つめる。同じ部活の、同じ学年の絵を描くことが好きな、女の子。どうして僕は、この景色を好きなんだろう。そんなことは考えてみれば当然のことだった。
僕は彼女と一緒に見たからこの景色が好きだったんだ。
何気ない、平々凡々な景色だけれど、それが色を取り戻すように僕の視界を鮮やかにしていく。
彼女を中心に。
彼女を通して。
僕の中に目覚めたときめきが、熱を帯びて身体に駆け巡る。
「――秋月くん。私は好きだから絵を描くの。たった一人でも私の絵を忘れられないと言ってくれたから」
彼女は指を重ねて目を閉じる。薄暮の空が青を深める。彼女の好きな星のある夜に変わっていく。
僕の好きな夕暮れと、彼女の好きな空の海。
重なり合う僅かな時間。
一歩踏み出した。彼女に触れられるくらいの距離に。
僕は口を開く。伝える言葉は決まっている。
僕の好きが詰まったこの時間。彼女の好きが満たされるこの時間。
――想いを伝える、この時間。
僕の夕暮れ、君の夜。 佐渡 寛臣 @wanco168
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