第8話

 彼はその晩、嫌々ながら酒を呑まされ、外へ連れ出された。一年生は自分一人だけ。前を歩く上級生に続いて窓から外へ抜け出たのだが、植え込みに突っ込んでしまい、自分のどんくささにため息が漏れた。

 坂を下り、池の周りで彼らは駄弁だべり始めた。

 彼は歩道脇の縁石に、ひとりで座っていた。目の前には二年生二人が向かい合って談笑している。向こうの木柵に固まっているのが三年生で、寄りかかっているのが二人、そして柵の上に腰掛けているのが一人いた。腰掛けている一人は、缶を手に歯を剥きだして笑っている。

 虫の音のささやかに響く秋の夜に、人の声は極めて異質だった。

(素直な奴だ)

(俺は気味が悪くて近付きたくない)

(呼べば必ず来るんだ)

(犬と同じじゃないか)

 ひとしきりの嘲笑が広がる。

 ――あと半年すれば、あいつらはいなくなる。

 もう少しの辛抱か、と彼がため息をついたときだった。

 強烈な腐臭が鼻腔をついた。沼底を浚ったような腐臭――いや死臭。幼い頃に祖母の家の屋根裏でハクビシンの死骸を見つけたことがあったが、それを濃縮したような、強烈な臭い。

 きん、と何かを弾く音がした。短い、けれども耳に残る音。

 直後、う、と詰まったような叫びが聞こえ、巨大な水飛沫が上がる。同時に草の上に何かが倒れる乾いた音がした。

 目の前の二人が野太く叫んで、池に駆け寄った。彼も腰を上げて近付く。木柵の一部が向こうに倒れていた。池の水面には飛沫が上がっている。どうやら、柵に体重を預けていた三人が同時に池に落ちたらしい。

 陸にいる二人は起きたことを理解すると声を押し殺して笑い合い、スマホを出して写真を撮り始める。黒い池を一瞬フラッシュが照らし、水面を叩く三人の上半身が鮮明になる。

 ――おかしい。

 辛うじて水面に出た彼らの顔は、恐るべき焦燥に満ち溢れている。まるで命の危機が迫った小動物のように。

 彼は前の二人に声を上げた。二年生たちはライトを翳し、池を凝視する。青ざめてもがく三人の姿に、ようやく異常事態を悟った二人は、狼狽しながら話し合い、後ろの下級生に人を呼ぶよう言いつけると、上着を脱いで池に飛び込んだ。しかしどうしたことか、二人は見当違いの方向へ泳いでいく。

 ――溺れている。

 彼は震える脚を叩いて、寮へと走り出した。助けを呼ばないといけない。しかし呼吸が上手くできず、思うように足が進まない。ようやく坂の中程まで来たとき、唸るような轟音がして、垣の向こうを覗いた。

 大渦、だった。巨大な渦が池の中央に巻いている。上級生たちは揉みくちゃに混ざり合い、時折何かを掴むように手が飛び出しては、黒い水面へ沈んでいく。死臭はここまで届いていた。

 ――もう、遅い。

 そう思ったとき、ふと人影が横をすっと通り過ぎた。彼は腰が砕けてその場にへたりこんだ。

 ――足音なんか聞こえなかったのに。

 まるで最初からそこにいたかのように、その人影は突如現れ、坂を下っていく。

 月明かりに照らされて白く浮かび上がる人影は、静かに池へと歩む。もう水面を叩く音は聞こえなかった。ただ渦を巻く水流が、鈍い音を轟かせている。

 人影は倒れた木柵を越えて立ち止まった。感慨深げに渦を眺め、そして次の瞬間、ふわりと跳躍すると、飛沫すらたてずに黒い水へ溶け沈んでいった。



 未明に起きた大騒動は、寮生のみならず近隣住民を跳ね起きさせた。救急車や警察車両が赤いランプを振り撒く中、夜を徹して池の排水作業が行われた。そして明け方頃、泥の中を捜索していた作業員は、ようやく池の底に埋もれた悲愴な光景を拝むことになった。

 遺体が見つかった生徒は五名。いずれも池の中心に空いた奇妙なマンホール大の穴近くに、ヘドロに絡まった身体が発見された。うち一名は、背中に無数の刺し傷があり、池の縁から、釘の刺さった剣山の如き板が発見されたという。

 現場検証は連日に及び、押し寄せる記者の間を、警察に限らず多様な人間が検証に訪れた。

 結論として、池底面の地下空洞への陥没により、渦が発生した可能性があると、警察は発表した。極めて珍しいことだが、池の下に空洞が存在し、何らかのきっかけ――小規模の地震の連続という見方が強かった――により、池の底が陥没した結果、水が大量に流出して渦が起こったという。俄かには信じられないような自然災害だったが、稀に起こる道路陥没や石灰岩地域のシンクホールといった例を引き合いに出し、池では珍しいが起こり得ることだと、各メディアは解説していた。

 高校は、池の管理と寮の監督不行き届きを厳しく糾弾された。校長、教頭は県の役員とともに陳謝し、早急に池を埋め立て、周辺を整備することを発表した。校長は直後に辞職し、教頭は亡くなった生徒の素行の悪さを指摘したことで逆に責任逃れを追及され、結局辞職に追い込まれた。

 一方、寮内で突如姿を消した三橋に、寮生は慄然とした。亡くなった一人が八木だと知った誰もが、この事故に三橋が関係しているのではないかと疑ったからだった。

 三橋の失踪は、池の死亡事故に隠れて、大きく取り沙汰されることはなかった。寮に入る前に三橋を預かっていたという親戚も、失踪届を出しただけで別段騒がず、また悲しみに涙を流す生徒もいなかった。

 池の縁で見つかった釘だらけの板について、制作者である小林は長い取り調べを受けたが、結局無関係だということが証明され、解放されることとなった。


 冬が来た。完全に埋め立てられて更地となった池の端に、ささやかな石碑が建てられ、五人の生徒の名前が刻まれた。

 不慮の死を迎えた生徒らを憐れみ、月命日には多くの人が訪れた。参拝者が口々に憐れみの言葉を交わす中、歩道に制服姿がひとつ立っていた。更地への入り口は狭く、人々は彼を邪魔そうに避けていた。

 あの人は入らないの――花を手にした少女が父親に訊いた。父親は歩道を悲しそうに見遣り、

「きっと怖くて入れないんだろう」

「あたしはこわくないよ」

 少女は得意そうにくるりと回って見せる。

「お、強いじゃないか」

 言いながら、眉根を寄せて彼を見遣る。

 ――初めて死を間近に経験するのだろう。

 それにしても、こんな形で友人の死を送るのは痛ましい――そう思っていると、彼のそばに友人と思わしき制服姿が近寄ってくるのが見えた。背中を押されながら高校へと坂を上っていく彼の表情に、父親は安堵の息をついた。

「ここにはずっと、真っ黒に澱んだ池があったんだ」

 少女は父親を見上げる。

 ――でも、もう誰も落ちていくことはない。

 少女につられて見上げた空は冴えざえと青く、低いところを、ちぎれ雲が悠々とわたっている。清々しい冬晴れに、生まれたての真っ白な砂地が、ぽかんと空を照り返していた。

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黒い池 小山雪哉 @yuki02

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