第7話

 夜中の十二時前、小林はベッドに横たわりながら、階下の騒めきを聞いていた。学園祭の後には、毎年のごとく寮生だけの打ち上げが行われている。玄関ロビーの家具をどけ、長机を筋に並べ、菓子やジュースを持ち寄って一晩騒ぐのだ。

 小林は早々に部屋へ引き上げた。八木が帰ってきたらしい、と同級生の一人が気を使って伝えてくれたからだ。律儀に明日の謹慎解除を待つ佐倉が可哀そうだ、と彼は言う。しかし同時に佐倉がいなくて幸いだった、とも漏らした。訊くと、誰かがビールを大量に差し入れてくれたのだ、と笑顔をこぼした。

 深夜も二時を回り、ようやく階下が鎮まりだしたころ、小林は布の擦れる音を聞いていた。いつも息遣いで眠りから覚めていたので、新鮮な感覚だった。

 まるで水面を歩くように静かに近付いた気配は、すぐ左手で止まる。長い長い沈黙。もう寝息を装う必要はなかった。――こちらが起きていることなど、最初から知っていたに違いないのだから。

 目を開けて、暗がりに光る眼を見つける。

「……行くのか」

 三橋は頷かない。確固とした意志が瞳の中に灯っている。

「俺じゃ、力不足だったか」

 自分は何を言っているのだろう。同情をさそって止めようというのか。

「兄貴に、会いたいか」

 ドアに向かって動き出しかけた身体が、糸を張ったように止まった。

 汚い。最後に傷を抉るような言葉を吐いて、彼の背に一太刀浴びせようとしている。

 ――地獄に落ちるべきなのは俺だ。

 目を瞑る。すると、どこからともなく穏やかな音色が降り注いできた。

「……小林くん、君は優しいね」

 身体に温かい熱が湧き出てくる。――思っていたより低い声だ。

「この一週間、たくさん迷惑をかけてしまったね。みんな僕のしたことさ」

 三橋は焦点をこちらに合わせる。少し話を聞いてくれるかい、と言われて、小林は何度も小刻みに頷いた。

「君の知った通り、僕は三年前に家族を失った。母が亡くなり、兄が父を殺したんだ。そして消えた兄は、弟を強姦し親を殺した凶悪犯になった」

 でもね、と幼子をさとすような甘い声で三橋は言う。

「兄は逃げてなんかいないんだ。……あの日、父の身体を床に横たえ、用意してあったリュックを背負うと、兄は僕に部屋を出ないように言って家を出た。僕は満身創痍で後をつけた。そして裏山へ向かう兄を見て、行く先を直感した。……裏山には池があったんだ。この学校のよりは小さい、けれど同じように真っ黒な池が。……半時間ほどで池に着いた。木陰に隠れてじっとしていると、兄はリュックに石を詰め、よろけながら背負って胸のベルトを固く締めた」

 三橋の言葉が途切れる。小林は胸がつまって息を吸うのがやっとだった。

「……池の縁で兄は言ったんだ。『母さんの葬式で泣かせて悪かった。父さんのことは親戚の叔母さんがやってくれる。兄ちゃんの葬式はしなくていいから』と。……言っている意味が分からなかった。なぜ葬式の話をするんだろう、って。でも考える時間はなかった。兄は唐突に池へ飛び込んだから。僕は今更のように木陰から飛び出して呆然としていた。恐る恐る池に近付いたけれど、あまりに突然のことで理解が追い付かなかった。――そうやって佇んでいたときだった、地獄を見たのは」

 地獄――。不意に小林の脳裏に、黒い池を見つめる三橋の姿が浮かんだ。

「池の中心に、小さい渦が巻き始めたんだ。風か魚か、何だろうと思う間に、いつしか黒い水は一層黒々として、それが水だと思えないほど黒く染まっていた。体の芯が恐ろしく震えて動けなかった。渦はだんだん大きくなって、池全体をうねりたてるほどの大渦になっていく。――兄が消えてしまう、と咄嗟に思った。生きてるかなんて関係ない。目の前から消えるものを、ただ掴んで引き戻したかった。それでなんとか池に入ろうと、がむしゃらに服を脱いだんだ。――するともう、そこは元の静かな池に戻っていた」

「……それが、地獄だっていうのか」

「そう。僕はそれを黙っていられずに警察に話したんだ。けれど、どれだけ池を探しても兄は見つからなかった。――ショックで幻覚を見たのだとひどく憐れまれたよ」

 三橋の見たものが現実かは誰にも分からない。しかし兄が忽然と消えてしまった事実が、地獄という幻想に実体を与えていた。

「名前も知らない親戚に引き取られて、汚らわしく扱われた。事件以来声も出なくなっていたけれど、もうどうでもよかった。新しい環境がいいかもしれないと体よく追い出されたときも、何も思わなかった。……でも、この高校には黒い池があった! 地獄へ通じる池が!」

 そこまで言って、三橋は大きく息をついた。

「毎朝あの池を見ては、兄が沈んでいく光景を思い出した。そしていつしか、兄と同じ場所へ行きたいと思うようになった。でも僕の荒んだ心では、それが正しいことなのか分からなかった。だから僕は誰かにその判断を委ねることにした――それが小林くん、君だった」

 三橋は微笑しながら、小林の伸ばした左手の先にふわりと腰掛けた。

「僕は君のことが不思議だった。常に人と距離を保って深く関わることを避けるわりに、周りを人一倍よく見ていたから。そんな君が下す決断に、僕は興味を持った。そんな風に誰かに関心を持つのは、ずいぶん久々だったよ」

 ――三橋も自分に興味を持っていた。それは嬉しいのと同時に、この上なく恐ろしい告白に聞こえた。

「僕が決めたのは簡単なことだった。真意を見抜かれてめられたらめる、止められなければ、計画を最後まで実行する――ただそれだけの、機械的な動作」

 淡々と言って、手を組み合わせる。

「まず僕に興味を持ってもらうために、池に落ちた。君は考え事にふけると身体が途端に動かなくなる。だから朝、意味ありげに君の方を振り向いておいて、だらだら走る八木と近い位置で走ってもらった。結果は言うまでもないね。君は僕を助けようとし、他人同然の僕を擁護してくれた。……正直、警戒すると思っていたけれど、君は想像以上に僕のために動いてくれた。予想とは違っていたけれど、不思議と嬉しかったよ」

 口ではそう言いながら、表情は強張っている。

「次はどうするのだろう、と思いながら盗みをはたらくと、やはり君は僕を守ろうとしてくれた。八木の仕業だと思いつつも、一緒に頭を下げてくれた。そして次の朝も、僕の身体を見ると一目散に部屋を飛び出していった」

 これ以上ないほど穏やかな声なのに、どこか切ない。

「きっと君は僕を止めるだろう、そう確信した。佐倉から記事なんか渡されたら、すぐに僕のしようとしていることに気付くだろう、と。でもね、一つだけ誤算があったんだ。……それは君が優しかったこと。何度も僕を助け、疑っても決して責めず、正しくはなくても味方でいようとした。僕の真意を考え、悩み、夜も眠れないでいた。――いつしか僕は、そんな君を兄と重ねてしまっていた」

 兄と――そう小さく繰り返しながら、小林の顔を横目で見る。

「昨日も、今日も、僕の身体を心配そうに気遣いながら、学校中を連れ歩いてくれたね。一言も喋らない人形のような奴に話しかけ、白い目で見られても気にしなかった。――いや、気にする必要はないと払いのけていた。それは幼い頃から内向的だった僕を引っ張り回してくれた兄と同じだった。……なんて皮肉なんだろう。君が僕を思い遣るほど、決して傷つけぬように悩んでくれるほど、僕は兄が恋しくなった。兄を見捨てて生きながらえている自分に腹が立った」

 三橋は静かに立ち上がると、窓際へ歩み寄る。カーテンを開けて外を見た。小林も上半身を起こして窓際に立つ彼の姿を見据える。

「小林くん。僕はこのまま君に甘えていれば、いつか家族のことを忘れてしまうと思う。兄のことも、遠い記憶として懐かしむ日が来るかもしれない。……君は言ってくれたね。消えた人間のことを気負う必要はないと。その通りだ。誰が見守ってくれているとか、誰の分まで生きるなんてのは、残された人間が悲しみに抗うために作ったまやかしさ」

 だからね、と訴える声は、どこまでも低く甘い。

「だからね、小林くん。僕は僕の意思で兄の元へ行きたい。時間が癒してくれる前に。過去を仕方ないと割り切れるようになる前に」

 三橋は窓から池を見下ろす。

 ――地獄を見つめていたのか。

 兄が吸い込まれていった行く先を思いながら。

「どうか自分を責めないでほしい。僕は三年前に既に死んでいたのだから。肉体だけ生きながらえているわけにはいかない。死んだ人間に意思はない。だから僕のことは忘れて、悪夢でも見たと思っていればいい。僕は大罪を犯したんだから、地獄へと落ちるほどの。――どれだけ言っても、やっぱり君は悲しんでしまうのかな」

 どこからか葉の擦れる音がした。三橋はカーテンを閉め、ゆっくりと滑るようにベッド際に歩み寄り、小林の隣に立った。

「たくさん喋って疲れたよ。君が話しかけてくれたあの夜から、ずっと練習していたんだけどね。……じゃあ、そろそろいくよ。元気で――」

 三橋が一歩足を踏み出そうとした刹那、途轍もない衝動が小林の身体の中に湧きおこった。

 ――目の前から消えるものを。

 小林は半身を飛び起こし、相手の手首を掴む。

 ――ただ掴んで引き戻したい。

 歩みかけていた相手の力と相殺し合い、ちょうど手のひらが重なったところで止まる。

 なんて冷たい手――。彼の、そして何より自分の手の冷たさ。

 それはほんの十秒足らずのことだったが、何時間も手を握ったまま固まっているように感じられた。しかし動悸が落ち着いても、固く握りしめても、二つの手は冷たいままだった。

 ――ああ、悔しい悔しい。

 力が、ない。小林の脳裏に、あの朝三橋の後ろを逃げるように駆けた光景がよみがえる。興味を持ってもらうために? 違う! あれは真実救いを求める眼だった! それを知りながら逃げたのだ。

 二つの手は、氷が融けるような速度で緩慢に離れていく。小林は命綱に縋るように最後の指一本まで懸命に掴んだが、するりと手が空を掴むと、奈落へ沈むように背中から倒れた。

 もっと最初から声を掛けていれば。中途半端な優しさをかけなければ。あと少しでも手が温かければ――。

 背中が小さくなっていく。

「……必ず、兄貴のところへ」

 ドアを閉める間際に見えた横顔は、とても安らかだった。

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