第6話

 翌日から二日間続いた学園祭は、ふと気付くと終わっていた。人生における学生時代が短くはかなまれるように、高校における学園祭も、終わりと同時に遠い過去となって惜しまれた。

 夕方六時前、小林は三橋を誘って校舎の外へ出た。教室に残って思い出を語り合う生徒の笑い声が、歩くうちに少しずつ遠ざかっていく。人気のない方へ静かな方へと歩み、いつしか二人は池のそばまで来ていた。

 小林は池の南側まで来ると、おもむろに木柵へ寄りかかった。毎朝二人が佇んでいた、ちょうど中間あたりの場所だ。早くも日は落ち、左にいる三橋の表情が判別できないほどかげっている。

「寒くないか」

 腕をさすりながら、白いTシャツ一枚の三橋に視線を送る。あのとき自分の衣装ケースから咄嗟に引き抜いたものだったが、今考えると、普段黒い服ばかり着ているのを不吉に感じて、白い服を選んだのかもしれない。体育祭の間はずっとそれを着ていたので、体操服は捨てたのだろう。驚きはしなかった。――彼がそれだけの覚悟をしていると分かっていたから。

「ちょうど今日で一週間だな、初めて話しかけてから」三橋の肩がぴくりと動いた。「この二年半を全部ひっくるめても勝てないくらい、色んなことがあった気がする」

 池を見つめたまま三橋は動かない。小林も同じように黒い水面を見つめた。

「俺、八木に『三橋のことを知らなさすぎる』って言われて、本当にそうだと思ったんだ。佐倉から少し聞いてはいたけど、……そうだな、遠くの被災地を想うような、素直な思い遣りでも、どこか現実味がなくて、言ってしまえば他人事だったんだと思う。――でもようやく少し分かったんだ。三橋が味わったこと、そしてこれからすること」

 ほんの僅か、彼の視線がこちらに注がれる。――悪戯を見つかった子供のような、無邪気で、ちょっぴり嬉しそうな目。

「兄貴の罪をなぞっている。そういうことだろう?」

 それが小林の導き出した答えだった。

 三橋の兄は母親のために薬を買っていた。アルバイトで稼いだなけなしの金で、母親の要望に出来るだけ応えようとした。しかしどれだけ買っても薬は恐るべき速度で消えていく。ついに兄は万引きをするようになった。

 また母の死後、兄は苦心惨憺の末、どうにか父親を家に呼び出すことに成功した。父親は金庫に隠しておいた金を回収するつもりだったらしい。「家の鍵を開けたまま留守にしておく代わりに、回収した後は幾ばくかの金を置いて帰ってほしい」といった内容のメールが、兄から父へ送られていた。その後の捜査で、中身が空の、鍵がかかった金庫が見つかったというから、兄は最初から、金を前に油断したところを狙っていたのだろう。

 そして、弟への飲酒強要と性的暴行に至る。三橋本人の証言が無かったため、父親殺害との前後ははっきりしないが、三橋への身体検査でその二つが明らかに認められた。

「盗み、妄言、飲酒、邪淫……殺生。兄貴が犯した罪は、地獄へと落ちる罪だ。引き出しに入っていた本を読んだよ。仏教とか地獄観とか難しくてさっぱりだったけど、兄貴がそれほどの罪を犯したと考えてることは、よく分かった」

 佐倉はずっと引っ掛かっていた。トラウマであるはずの兄の罪を、三橋が繰り返していることに。そんなことをしても自分が辛いだけ。なぜ自身を痛めつけるのか。兄が地獄へ落ちてしまったことを恐れるなら、同じことはしないはず――。しかしそれは逆だった。

「地獄へ落ちるために罪をなぞったんだな。兄貴と同じように」

 三橋には頼れる人間が兄しかいなかった。そして兄は弟のために力を尽くした。兄と同じ場所へ行きたいと願っても、不思議ではない。

「今まで犯したのは、盗み、妄言、邪淫だ。そして残っているのは飲酒と……殺生」

殺生とはたとえ小さな虫でも罪に当たるらしいが、兄と同等の罪を望んでいるのなら、それで済まないことは明らかだろう。

 この二日間、小林は考え続けた。どうすれば凶行を止められるのか、何を言えば彼の心を変えられるのか。

 悩みに悩んだ末に得た結論は、止める方法はないということだった。力ずくで止めたところで、彼の覚悟は消えないだろう。やめてくれと懇願したところで、果たして彼と自分の間に、諫言を素直に受け入れる絆があるかは疑問だった。

 三橋はきっと、全てを終えたあとに兄と同じ道を辿るだろう。家族を失い、友人も作らず、物への執着も捨てた今、三橋を繋ぎ止めるものはあるのだろうか、と思う。そう考えたときに唯一浮かんだのは、佐倉や小林のために生きてくれということであり、結局三橋のためではなく、自分の利己的な理由に過ぎなかった。

 ――人は自らのためにしか生きられない。

 ふと顔を上げて池から目を離す。池を向いていたはずの三橋は、いつしか柵に腰掛けるような格好をしていた。真っ直ぐ小林の目を見据え、ただ待っている。

 その視線に、小林は体内が浄化されるような感覚を抱いた。彼を止めなければいけない、という重責がどこかへ消え、ただ自身の内側にわだかまっていた思いが漏れ出した。

「ごめんな。俺では、お前を止められないよ」

 三橋は思いがけず笑みを溢した。素直に吐き出された言葉に、自然と顔がほころんだようだった。

 ――やっぱり池のそばでは、感情が出るんだ。

 溢れ出てくる言葉を、なんとか繋いで声に出す。

「……最初は関わるつもりなんて無かったんだ。不思議な奴だと思って、ちょっとした興味で追いかけただけだった。でも池に落ちて以来気になって、佐倉から話を聞いたあと、守りたいと思うようになった。盗みを告白されたときも、傷ついた身体を見たときも、ただ三橋のために必死だった……。でも、こんな偽善は誰のためにもならないんだよ」

 幼い頃から他人に気を使い過ぎると言われてきた。教室で花瓶が割れたときは自分のせいにして片付け、喧嘩をしたときも必ず自分から手を出したことにした。

「良かれと思ってやったことも、周りにしてみれば気持ち悪い行動なんだ」

 特別親しくもないクラスメートの万引きを一緒に謝ったときなど、彼はひどく怒り、頭がおかしいと言った。面と向かって言われ、もう人と軽はずみに関わるべきではないと決めた。しかし結局本質は変わらず、精一杯生きようともがく子犬を、無知からみすみす死なせてしまった。

「もう何にも関わりたくない。責任を負いたくない。自分のせいで誰かを傷つけたり、ましてや生死を左右することは耐えられない」

 でも、と言葉が詰まる。

「でも……お前が二度と戻れない場所へ行ってしまうのは、どうしても耐えられない」

 三橋の兄が、全てを終えて忽然と消えたように――。

「兄貴は望んでないとか、兄貴のために生きてくれなんて言わない。消えた人間のことなんか忘れて、自分のためだけに生きろとも、とても言えない」

 死はそんな簡単に割り切れるものではない。

「けれど、せめて気負わずにいてほしい。普段は毅然きぜんとしているけど、池を眺めているときだけは、悲しそうな顔をしてるように見えたから。本当は、きっと――」

 そこまで言って、三橋が再び池の方に身体を向けていることに気付く。小林は、体内に熱くたぎっていたものを出し尽くして、身体が虚ろになっているのを感じた。

「まだここにいるか」と訊くと三橋は頷く。「先に戻ってるからな」と言い置いて、寮へ歩き出した。

 辺りはすっかり闇に覆われている。三橋の身体だけが、街灯の光を浴びて仄白く浮かんでいた。

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