第5話
翌朝、小林は荒っぽいノックに飛び起きた。起きろー、と廊下に響く声を聞きながら枕元のスマホを見ると、もう七時五分前だった。
寮は規則が緩いが、朝食だけは全員揃って食べ始める。急いで身支度をしなければ、とベッドから半身を下ろすと、意外にも三橋のベッドがまだ膨らんでいた。
「もう朝飯だぞ」と声を掛けてみたが微動だにしない。胸騒ぎがして、小林はベッドから飛び降りた。近寄って掛布団を掴む。半分ほどめくったところで、咄嗟に元の位置に被せ直した。
むくりと上体を起こしながら、
「……服、どうしたんだよ」
三橋は上半身裸だった。
寝る前は着てたはず、と思いながら辺りを見ると、枕元のポールハンガーに、黒いTシャツが掛かっている。胸の辺りは乾きかけているが、
雨に濡れたのか、それとも洗ったのか。どちらであっても不穏な想像しか浮かばない。おもむろに手に取ってひっくり返すと、思わずハンガーごと落としそうになった。
酷い破れ傷。まるで獣に引っ掻かれたように、背側の布が引き裂かれていた。
その意味を問うように視線を投げかける。しかし三橋は、まるでそれが当然だと言わんばかりに、こちらを見つめ返してきた。
「ちょっと、後ろ向いて――」
言いながら背後に回り込もうとすると、三橋は自ら壁の方を向いて背中を見せる。小林は絶句した。真っ白な絹のような肌に、幾筋も伸びる赤黒い引っ掻き傷。到底、自らつけた傷ではなかった。
「誰が……誰がこんなことしたんだ」
見つめる三橋の目は、知っているだろう、と言いたげに光っている。
「八木、なのか」
三橋は頷いた。猛烈な憎悪が腹の内に湧きおこる。分かっていたのに。夜抜け出すときが危ないのだと、あれほど――。背中の傷と手に持った服を交互に見やり、一層怒りが膨らんでいく。
「待ってろ」
そう言うと勢いよく部屋を出た。ドアのすぐ外にいた生徒は「危ねーな」と顔を
八木の部屋まで来ると、ノックもせずに扉を開け放つ。今しも部屋を出るところだったとみえ、八木は突如開いたドアに身体を跳ねさせて後ずさった。
「何だよ、急に開けるな」
「昨日の夜、何してた」
唐突な詰問に、八木は顔を顰める。しかし、問われた言葉と、目前の鬼気迫る人物が脳内で繋がっていくのか、じりじりと口角を上げていった。
「昨日は、そうだな、ほとんど眠れなかったな。珍しい客があって、みんな俺の部屋に集まってたんだ」
そう言って、耳を真っ赤にして拳を握り締める姿を、悠々と一瞥する。
「誰だ、その客ってのは」
「ん、知らないのか? まあ、あいつは訊いても答えないか。でも息は出来るんだから、掠れた息遣いだけでも案外――」
言い終わらないうちに、小林の腕は八木の顔面へと突き伸ばされていた。
――これ以上三橋を穢すな。
拳に込めた渾身の力は、しかし、背後から伸ばされた片手に容易く相殺された。
「……なんだよ、面白くねえな」
「面白いことなんてないよ。……小林、衝動で手を出したら駄目だ」
言いながら友人の震える腕を下ろす佐倉の顔は、厳しい表情を湛えていた。廊下にはギャラリーが集まり始めている。佐倉は二人の間に身体を割り込ませた。
威圧に押されたのか、八木は一歩後ずさる。
「二人であいつのボディガード気取りか」ふっと片方の口角を上げて歯を見せる。「お前らが何に怒ろうが勝手だけどな、あいつのこと知らなさすぎなんだよ」
再び小林の身体が衝動的に前のめりになったのを、佐倉が身体で抑える。
「そういや最近、三人で見かけるな。ようやく興味が出てきたか。……そりゃこんなことする奴だとは思わねえよな。知らなかったことが悔しいか。それとも取られたみたいで悔しいか。でも俺らは一年のときから――」
八木が語調を強めた刹那、小林を含めた周囲一同は、その痛々しい音に身を縮めた。水を打ったように辺りが静まる。視界から瞬時に消えた八木の身体は、いつの間にかベッドに横転していた。廊下から覗く生徒はもちろん、殴られた本人でさえ、状況を理解できずに
「小林」静かに拳を下ろしながら、佐倉は振り返る。「三橋を連れて部屋へ戻ってくれ」
言われて振り返ると、ドアに詰めかけた生徒の後ろに、半裸の三橋が立っていた。
「さ、みんなも早く。朝飯に間に合わないよ」
その一言で、周囲は一斉に正気を取り戻したように動き始める。
「全部あいつが悪いんだ! いつもそうだ、昨日も俺を呼び出して――」
憎々し気に八木が吐き散らす。構うな、というように佐倉が目線を送ってくる。背中を押されるがまま廊下に出たところで、耳打ちされた。
「朝飯が終わったら部屋で待ってて。伝えておきたいことがある」
朝食の間、一部始終を目撃した三年生たちは普段通りに振る舞っていた。口止めされたわけではないのに誰も噂しようとはしないのは、明らかに佐倉の人望によるものだ。そんな彼の手を汚させたと思うと居たたまれなかった。
小林の隣りで食事をとる三橋も、心なしか沈んだ調子だった。少しでも明るくなれば、と着せた白いTシャツも、効果はなさそうだった。それにしても、騒動のあと部屋へ戻った三橋が濡れ破れたシャツを着ようとしたのは、小林を心底驚かせた。もしやと思って三橋の衣装ケースを見ると、他にインナーシャツは一枚もなく、驚きを通り越して眩暈がした。
――今までは、もう何枚か持っていたはずだ。
朝食後、部屋に戻って考え込んでいると佐倉がやってきた。三橋が落ち着いているのを確認すると、小林を廊下へ誘導する。
「あまり時間が無いから、これを見てほしいんだけど……」
差し出されたのは透明なクリアファイルだった。十数枚ほどの紙が挟まれている。一番上の紙には、新聞記事のような細々した文字列が透けて見えた。
「これは?」
「三年前の記事だよ。あの事件のとき、三橋の身に何があったのか気になって、記事を集めてたんだ。実家に置いとくと捨てられそうで、寮に持ってきてたんだ。細かいところまでは読めてなかったんだけど、昨日の夜読み直してみて……」
佐倉の声は、徐々に強張っていく。それでも表情だけは気丈を装っていた。
「あの日――三橋が池に落ちた日の夜、小林は俺を心配して風呂で話しかけようとしてくれたね。そこで三橋を心配してるんだって話したけど、本当はもっと具体的な、『池に落ちた』ことが気になってたんだ」
佐倉はファイルを小林の胸に押しつける。
「俺はしばらく戻ってこられないと思う。八木が何も言わなくても、やっぱりこれは傷害だから。俺が勝手にしたことだから気にするなって言いたいけど、もし罪悪感で心苦しいなら、その記事を見てほしい」
そして三橋を止めてくれ――。佐倉はそう言い残して去っていった。
その日の午前中、佐倉、八木、小林ら関係者は順々に呼び出された。事前に取り決めていたように三橋の名前は出さず、小林が八木に因縁をつけられ、佐倉が仕返しをしたということで話は進んだ。真実を伏せたのは、三橋の意向だった。八木はもはや興味を失い、面倒が軽減するなら、と二つ返事で了承した。
結局佐倉と八木は三日間自宅謹慎、小林は午後の授業に出ず、反省文を書くということになった。大事にならなかったのは、八木の親が騒ぎ立てなかったからだ。良くも悪くも、この一家はそういうことに慣れているらしい。骨が折れていなければ気にしない――そう電話越しに言われたのだと、さすがの武田も呆れ顔だった。
小林は自室の窓に寄りかかり、外を眺めていた。昨晩の雨は明け方に上がり、朝方曇っていた空も、午後になって青く澄み渡っている。眼下には黒い池が、変わらず漆黒の水を湛えていた。
小林は手に持った十数枚の記事を見る。
――アパートに父親の遺体、息子失踪。
殊更珍しい事件ではないのに、身近に起きたと思った途端、その文字列が生々しく見える。恐ろしかったが、三橋を知るために避けては通れないのだと、覚悟を決めて読み始めた。
記事は大きく分けて三つの出来事を伝えていた。時系列で追うと、まず、母親が自死して以来父親が姿を消したこと。次に、白昼のアパートで父親の遺体と性的暴行を受けた弟が発見されたこと。そして、父親を殺害したと思われる兄が、山中で消息を絶ったということだった。
どの記事でも個人名は伏せられていたが、小さな田舎町のアパートに警察車両が群がっていれば、匿名など無意味に近い。
そもそも三橋家は、母と息子二人の三人暮らしだった。実の父親は子が小さいうちに事故死し、女手一つで息子二人を育ててきた。元々身体が弱かったところに馬車馬のごとく働いたものだから、上の息子が高校に上がる頃には、薬に頼りながら内職をするので精一杯だったという。
幸か不幸か、そんなやせ細った三橋家に手が差し伸べられる。母親が再婚することになったのだ。相手は仕事の納品を請け負っていた男だった。一家に働き手がいるということは、単に経済的な理由だけでなく、精神的に大きな安心感を伴う。思春期の三橋兄弟は戸惑いつつも受け入れざるを得なかったのだろう、と小林は想像した。
――しかしその男は悪魔だった。
三橋家に上がりこむやいなや、母親を肉体的な満足の道具としか見ず、子供たちにも暴力を振るった。しだいに母親は衰弱し、そしてある日、多量の薬を飲んで亡くなったところを、兄が発見する。――父親が姿を消したのはその日からだった。
――どんなにか悔しかったろう。
兄は逃げた父親に代わって、母親の葬儀をしたという。弟のために高校を中退し、必死でアルバイトをしている間に起こった悲劇だった。
母親の死後、アパートに夜な夜な痛ましい音が聞こえるようになった。壁や物を叩く音、怒鳴り声、呻き、すすり泣き――。残された二人の息子は、遠縁の親戚が引き取ったらしいが、身元を預かるどころか、様子を見に来る姿もなかった。近隣の住民たちが、しかるべきところに相談しなければいけないと、囁き始めたとき、悲愴な事件が起こってしまう。
大家が白昼のアパートの一室で発見したのは、消えたはずの父親の遺体と、布団にくるまって動かない弟の身体だった。大家は最初、警察へ電話をしたとき「二人が亡くなっている」と伝えたという。弟が生きていると知ったあとも、「あの地獄のような空間で本当に生きていたのか」と半信半疑だったらしい。
警察の捜査と弟の供述により、家に帰ってきた父親を兄が刺殺したと判明した。そして犯行後、自暴自棄になった兄は酒を飲んで弟に性的暴行を加え、裏山へ逃亡した。山道に残っていた痕跡から、池に落ちた可能性があるとして徹底的に捜索されたが、何も見つからなかったという。
読みながら、胸に鋭い痛みが走り続けた。今朝のことが脳裏によみがえる。
――繰り返している。
無意識にそう思って、小林は、自分の考えが恐ろしい繋がりを持っているのではないかと戦慄した。細かい記事を舐めるように読みつくす。自分の想像を否定する証拠がほしい――そんな思いも虚しく、小林の顔はみるみる蒼白になっていった。
――身なりが汚れていて怪しいと警戒していた。彼の家庭について噂を聞き、何度か市販薬の万引きを見逃したことがある。
――父親の遺体が身につけていた携帯には、兄からのメッセージが残っていた。これを使って家に呼び出したものとみられている。
小林の背筋に激しい悪寒が走り抜けた。
万引き、性的暴行、父親をおびき寄せるメッセージ。
この一連の流れを、小林は知っていた。モノは違う、やり方も。しかしそれは、三橋がしてきたことと、本質的に同じではないだろうか。盗み、淫行、嘘。――同じ罪。白昼の惨劇、地獄のような空間――地獄、ジゴク、地獄。
小林は立ち上がって、三橋の机を探る。そして数冊の本を引っ張り出すと、自分の机に叩きつけるように広げた。
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