第4話
三日後に控えた学園祭の準備のため、放課後の校内は独特の昂揚感に包まれていた。体育祭と文化祭を兼ねた二日間に渡る学園祭は、この高校最大の行事であり、特に三年生は、部活からの解放感と目前に控える受験の狭間で、最後の楽しみを享受しようと躍起になっていた。
小林も少なからず雰囲気に呑まれ、慣れないノコギリや釘打ちに苦戦しつつ、クラスの出し物に使う大道具作りに勤しんでいた。
夕方五時、雨催いの空は暗く、細く開いた窓から土臭い雨の匂いが漂ってくる。
「もう降ってくるかな」
「傘持ってきてないや」
通いの生徒が会話するのをよそに、小林は教室の隅で板を切りながら、佐倉と話していた。
「――それで、今までは一度も無かったんだな?」
「無いはずだよ。オレは朝まで熟睡してるから気付く自信はないけど。でも、一、二年は四人部屋だったろう? 真横に立たれたら、他の二人は気付いたんじゃないかなぁ……。どんなに静かに動いても、気配ってあると思うんだ。まあオレは起きてるとき専門なんだけどね」
佐倉は引っ張り出してきた椅子を逆に
「別に起こされるのはいいんだ。便所なら仕方ないし。でも二日も連続でされると、さすがに気になってくる」
「何日か腹の調子が悪いときはあるけど」
「そう思って昨日の夜は一時間くらい起きてたんだ。でも帰ってこなかった」
確かに長時間は心配だなぁ、と佐倉は眉根を寄せる。口調はおっとりしているが、真剣な目をしていた。
そうして二人とも手が止まってしまったところに、教室のドアが勢いよく開いた。
「誰か金槌持ってないか」
他クラスの生徒だった。走ってきたのか胸が大きく動いている。佐倉を含めた教室内の視線が、板を切っている小林に集まった。
「今日は板切るだけだから、使ってないけど」
「え、ここにも無いのか」
彼は首をかしげる。
「他の所は?」
「三年の教室は全部回ったけど無かったんだ。それで先生に倉庫を探してもらったんだけどさ、三年用の工具は全部出払ってるっていうんだ」
揃わないと怒られるんだよな、と首にかけたタオルの両端を握りしめる。
「とりあえず二年の方に混じってないか探してみるよ」
そう言うと、彼は廊下をとんぼ返りしていった。
「誰か返し忘れたのかなぁ」
「たぶんな」
小林は作業に戻ろうと思い、手を止めた。――確か昨日は、金槌を使っていたはずだ。片方が釘抜きになった、真新しいものだった。何度も失敗しては釘を抜いていたので、強く記憶に残っている。
――もしかして、自分が返し忘れたのだろうか。
かすかに焦燥を覚えながら、立ち上がる。
「ちょっと見てくる」
小林の思考を察したのか「オレも行くよ」と、佐倉も立ち上がる。昨日の作業は空き教室で行い、完成品も置いてある。道具を置き忘れたとすればそこしかなかった。
二人は教室を出ると廊下を直進し、突き当り右の部屋へ入った。厚手のカーテンの閉められた暗い部屋に机や椅子はなく、前方を作業場、後方を大道具小道具の置き場として使っている。
さっそく丹念に床を探してみたが、道具はもちろん、ゴミ一つ落ちていない。昨日自分が掃除をしてから誰も使っていないようだった。
「昨日作ったのはどれ?」
「後ろの端に置いてある。そう、その窓際の――」
言いさして、小林は目を見開いた。昨日作った立て看板、苦心して素人なりに完成させた看板、その表面に赤茶けたいくつもの点がついている。なぜ染みが――そう思って両手で持ち上げ、ようやくそれが染みではなく錆だと気付いた。なぜ錆が――いや、そもそも自立するようV字に二枚の板を組み合わせたはずなのに、片側一枚しかない。恐る恐る裏を向けて、小林は絶句した。
平面であるはずの板の裏は、まるで剣山だった。
――軽々しく手を出してはいけない。
咄嗟に、池の側から逃げ去った八木の顔が浮かぶ。報復、という言葉が脳裏をよぎった。
「……これ釘だよね」
板に刺さっていたのは十数本の錆びた釘だった。無造作に打ち込まれ、板の裏に突き抜けている。
「ひでえ……オレ武田サンに言ってくるよ」
「いや、いい」
駆けだそうとした佐倉を制止する。
「犯人捜しをしても仕方ない。それに壊されたわけじゃないんだ、一枚は無いけど。これは釘を抜けば作り直せる」
「エスカレートしたらどうするんだよ」
「……次に何かされたら、必ずお前にも先生にも言うから。だから今は釘抜きを探そう。頼む、大ごとにしたくないんだ」
校舎内を佐倉に任せ、小林は寮の工具箱を探しにいった。寮母に金槌の有無を訊くと、不思議なことに「誰かが借りたのか、工具箱に返っていない」と言う。どうやら小林以前に、別の生徒が工具を借りに来た際、いくらか中身が消えていると気付いたらしい。
「別の場所を探してみます」と寮から去ろうとしたが、玄関まで戻った辺りで、ふと、深夜に三橋が部屋を抜け出す光景が脳裏を掠めた。
三橋は昨夜も部屋を抜け出した。用を足すには長すぎる時間に何をしているのか、言い知れない疑念が澱のように蟠っていた。関係あるはずがないと思いつつも階段を上る。
二階に着いたとき、廊下の左奥に人影が見えた。制服姿が二人、背を向けて歩いている。八木と三橋だった。二人は一定の距離を保ちながら歩き、突き当りのドアを開けて非常階段を下りていった。
――おかしい。
この時間に寮にいることはもちろん、二人でいることも、非常階段を下りていくことも、何もかもが異常だった。
急ぎ足で自室まで来て、戦慄した。ドアに紙一枚分の隙間が空いている。咄嗟に息を殺して、ドアに耳を近付けたが、室内から物音はしなかった。
今朝、最後にドアを閉めたのは小林だった。確実に閉めたはず――と記憶を探る。
昼間は寮母が廊下の掃除をする。ドアが開いていれば気付いて閉めるだろう。すると午後から夕方の間に誰かがドアを開け、わざと隙間を開けておいた、ということになる。そうなると小林の頭には、つい今しがた見た人間の顔しか浮かばなかった。
覚悟を決めて勢いよくドアを開けた。薄暗い、人気のない空間。窓には重苦しい鉛色の雲が、既に夜の始まった青黒い空に垂れ下がっている。
部屋を見回した。朝出たままの部屋。机を一通り触ったが、何も盗られた様子はなかった。深い息を吐いてベッドに座る。すると三橋側の家具が視界に入った。
廊下には誰もいない。小林は、堅く言い聞かせられた約束を破る子供のような気持ちで、三橋の机に近付いた。
そっと机の引き出しを開ける。数学のノート、消しゴム、ペン。次いで隣の引き出しを開けたが、本が数冊入っているだけだ。小机、衣装ケース、机の下……。手当たり次第に目につく場所を開閉していく。――これでは空き巣だ。自らの内にある野蛮な一面に
引き出しを開け尽くし、最後に狙いをつけたのはベッドだった。
掛布団の丁寧に畳まれたベッドの中央あたりに座る。まず枕をひっくり返した。何もない。頭の下のマットレスに手を入れたが、何も感触はなかった。掛布団を持ち上げ、揺すり、脇へどかして、足元のマットレスの下に手を伸ばしたとき、右腕が何かに触れて引きつった。ざらついた布の感触。袋だろうか、と思いながら掴む。
ずっしりと重さのある袋を、力を入れて引っ張り出していく。それは勢い余ってベッドのフレームに当たると、鈍い金属音を立てた。
寮内の教員室から二人が出たのは、夜も十一時を回った頃だった。夕食後から降り始めた雨は、つい先刻から本降りになっていた。
前を歩く三橋の背中を凝視する。しかし絶え間ない雨音と相まって、彼の心の内はノイズのかかったように読み取れなかった。
「二人とも、大丈夫だった?」
薄暗い廊下で佐倉が壁に寄り掛かっていた。足を止めた三橋に、先に部屋へ戻るよう言うと、小林は一階の薄暗いロビーのソファに腰掛けた。
「俺、三橋のこと分からないや」
俯いて目を閉じると、どっと疲れが押し寄せてきた。
九時過ぎ、自習が終わり寝支度に入った三橋を床に座らせ、自分も向かい合って座った。ベッドに手を伸ばし、袋を取り出して中身を出す。ペンチが一本、釘抜きの付いた金槌が二本、そして錆びついた古釘が数本。
小林には二つの推測があった。一つは、八木が密告された報復のために、小林のみならず、三橋にも腹いせをしたというもの。もう一つは、八木が三橋に命令し、立て看板に釘を刺して、備品を盗ませたというもの。
――今の三橋は、好意も悪意も受け入れてしまうから。
風呂での佐倉の声がよみがえる。意を決して問いかけた。
「これに見覚えはあるか」
目の前に並べられた備品を一瞥して、三橋は頷いた。
「お前が、盗んだのか」
一拍置いて頷く。では、やはり――。
「それは八木に命令されたから、そうだな?」
念を押すように訊く。しかし三橋は無情にも首を横に振った。予期しなかったモーションに小林の思考は乱れた。
「それじゃあ、看板に釘を刺したのも、お前だっていうのか」
躊躇なく頷きかけたのを見て、「言わなくていい」と吐き捨てて目を逸らす。
――なぜ八木を庇うんだ。
必死で頭を回転させる。八木が三橋の弱みを握っているとでもいうのだろうか。いや、たとえ八木が喧嘩を吹っ掛けようと、恐ろしい脅迫をしようと、三橋が動じるとは思えない。ならば本当に三橋が盗んだというのか。
しかし、三橋に盗癖があるとは思えない。そして立て看板に釘を打ちつけるなど、
ならば何故、と苦悶しているところに佐倉が訪ねてきた。
「それ……金槌?」
青ざめていく佐倉を見て、小林は備品を袋に詰めて立ち上がった。
三橋は盗んだと言っている。真実はどうであれ、三橋の言ったことを受け止めたかった。盗んだ、というのなら返さなければいけない。
「返しに行こう、三橋。今言ってくれたことが本当なら、謝りにいかないと」
三橋は素直に立ち上がった。
――好意も悪意も受け入れる。
本当にそうだ、と思った。好意や悪意どころか、言われるがまま、されるがまま。
――もし八木がそれに気付いていたら。
小林は身震いした。あとで話すから待っててくれ、と佐倉に告げると三橋と部屋を出た。
冷たい皮のソファに腰かけ、小林は夕刻からの経緯を話した。佐倉は少し離れた場所に座り、耳を傾けている。
折からの雨は強まりも弱まりもせず、死んだように静まり返った寮内に空しく響いている。風のないぶん、抑揚のない雨音が寂しげだった。
「……さっき、三橋が話しかけてくれたんだ」
「え、本当に」
「声は無かったんだけどな。先生に向かって二人で頭を下げたとき、隣を見たら、三橋もこっちを横目で見てたんだ。そしたら口だけ動かして『ごめん』って」
そうかぁ、と佐倉は嬉しさと切なさの混じった声を出す。雨のせいか、半袖一枚では露出した腕が冷やりとした。それは室温のせいだけではないだろう。
「……なんかさ、三橋が穢されていくようで怖いよ」
小林は正直に胸の内を吐きだす。
「池に落とされて、物の破壊と盗みの罪を着せられて――ここ三日だけでこれだ。もしかしてこれまでも何かされてきたのかもしれない。毎晩抜け出すのだって……」
腹の底に、沸々と悔しさが込み上げてくる。これまで三橋と関りを避けてきた自分に腹が立ってしょうがなかった。
「八木がやったと思う?」
不意に訊かれ、小林は一瞬質問の意味を捉え損ねた。だがすぐに理解し、少々むっとしながら答える。
「こんなことする奴は八木しか考えられない」
「オレも、そう思う」
すぐさま肯定され、小林は拍子抜けした。質問の意図が掴めない。
「そうなんだよ……三橋はそんなことするはずないんだ。わざわざ古傷を
暗いロビーで表情は窺い知れなかったが、その張り詰めた声には不吉な震えがあった。
「とにかく、三橋のことを見ていてほしい。何かあったらすぐに教えて」
佐倉はそう言うと、額の汗を拭いながら自室へ戻っていった。
古傷――。小林は暗号のように、そう何度も呟いた。
その晩も、三橋は深夜に起きて隣に立った。起きようと思っても、彼の視線を浴びると身体が硬直して動かない。
――三橋のことが怖いんだ。
軽はずみに興味を持って池まで追いかけた。問題が起きるたびに、寄り添うように最善を尽くした――つもりでいた。しかし結局自分には何の覚悟も無かったのだ。無表情、無反応と言われる彼が、僅かに感情を漏らすのを見て面白がっていただけ――。だからこうして毎晩部屋を抜け出すのを止めることはおろか、目すら開けられないでいる。
これ以上深く関わってはいけないと、本能が止めているのだ。佐倉が「怖い」と直感した意味が分かるような気がした。そしてそう感じた自分を「情けない」と自嘲した気持ちも。
微かな
「三橋、お前は何をしているんだ」
――俺はどうしたらいいんだ。
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