第3話

 鞄を抱えて寮に帰った。あのあと、半ば早退のような格好で寮へ戻った三橋みつはしは、シャワーを浴びにいったらしい。普段お多福のように笑みを絶やさない寮母も、さすがに泥まみれの三橋に不穏な空気を感じ取ったのか、不安そうに口をゆがめていた。

 夕食中に三橋は戻ってきた。食堂の入り口付近に陣取っていた八木が、何かよからぬいさかいを起こすのではと緊張したが、八木は横目で一瞥しただけで、三橋に至っては避ける素振りさえなかった。

 三橋は佐倉に手招きされるがまま、奥のグループの席に混ざった。

 声を発さない三橋が障害なく高校生活を送れてきたのは、やはり佐倉の庇護ひごによるところが大きい、と思う。

 佐倉は、およそ他人との間に壁というものを持たなかった。誰からも頼られ、誠意をもって返すことを生業なりわいとしているような人間だった。おまけに柔道をしていて恰幅が良い。その存在感と面倒見の良さ――父親と母親の面を持ち合わせている佐倉は、三橋にとって最良の庇護者に思えた。

 しかし、目の前の佐倉の様子は普段と違ってぎこちなかった。三橋を招き入れたものの、話しかけたり目を合わせたりはしない。いつもなら――ほとんど三橋は反応しないが――進んで話しかけるのだが、なぜか今日は、ちらちら様子を窺うだけで、時折三橋のたてる食器の音に身体を震わせていた。

 ――まるで爆発物を扱っているみたいだ。

 普段悠然と構えている人間が、落ち着きなく怯えていると、こちらまで不安になってくる。「腹の調子が悪いのか」と正面の生徒に指摘されて、小林は自分の箸が止まっていることに気付いた。

 他人のことを考えるのは神経を擦り減らす。しかし、当分はその呪縛から逃れることは出来なさそうだった。


 夕食を終え、風呂に入る。一番風呂は三年生の特権だった。身体を洗って汗を流し、熱めの湯船につかると、肉体も精神も蕩けそうになる。

 小林は湯をかき分け、佐倉の隣に腰を下ろした。普段なら「極楽極楽」と上機嫌で湯に浸かっている佐倉だが、今日は魂でも抜かれたようにぐったりしている。

 調子を聞こうと隣に陣取ったものの、なんとなく話しかけ辛くて黙っていると、佐倉の方から口を開いてきた。

「あのさ、三橋が池に落ちたって本当?」

「……誰から聞いたんだ」

「田代が話してるのを聞いたんだ。三年に広めてるみたいだった」

 田代は八木の取り巻きの一人だ。八木たちは好きな時間に風呂を占領するため、今はいない。そういう横柄が黙認されているのも、この学校に良くない印象を抱く理由の一つだった。

「走ってる最中に消えたのは気付いたけど、まさか池に落ちてたとはね」

「よく見てるんだな、三橋のこと」

「それなりに。でも三橋のペースについていけなくて見失ったんだ」

 丸々と筋肉の付いた身体を揺らしながら、佐倉は切なそうに笑う。湯の熱さで気が緩んでいるのか、二年半で培った関係性のお陰か、三橋の話題に抵抗を見せなかった。

 誰もが黙々と身体を洗い、湯船に浸かり、短い入浴時間を存分に味わっている。タイルを打つシャワーの音だけが夜雨のように心地よく耳を刺激した。

「八木が突き落としたって?」

 小声で訊かれ、小林は無意識に浴場を見渡す。

「……俺は、そう思ってる。その瞬間を見たわけじゃないけど、それ以外に考えられない。三橋に理由は無いし、八木は理由なく人に当たるから」

 確かにそうだ、と佐倉は小さくため息をつく。

「心配そうだな」

 佐倉は目を逸らして頷いた。何か心の中でくすぶっている思いがあるらしく、口先をもごもごさせている。湯けむりの中でしばらく葛藤したのち、言葉を漏らし始めた。

「……三橋とは中学のとき、ほとんど接点がなかったんだ。クラスも違ったし、オレは柔道ばかりしてたから。でも三年のとき、委員会が一緒になって初めて喋ったんだ」

「中学のとき、三橋は喋れたのか」

「うん。口数は多くないけど、自分の考えを持ってる奴だった。……初めて話したのに、三橋は自分のことをたくさん話してくれたんだ。よく知らない相手だから、むしろ話せたのかな。……三橋は、家が大変だから高校に行けるか分からない、兄が自分のために高校を中退したのが申し訳ない、って言ってた」

 当時を思い出すように、佐倉は目を閉じている。

「その翌月、三橋は家族を亡くしたんだ」

「家族を」

「そう、両親とお兄さん――自分以外の一家全員だよ」

 全員――。小林は水に打たれたように身体を硬直させた。

「声を掛けることすら出来なかった。三橋は学校に一度も戻らないまま、遠くへ行ってしまったから。……高校で再会したとき、あんまり変わってたから本当に驚いたんだ」

 見た目も、中身もね、と静かに言って水面を見つめる。――まるでおぞましい光景が水面に映っているかのように。

 仔細を何ひとつ知らない小林でも、脳裏に悲惨な想像が浮かんだ。佐倉は陰鬱な空気を払拭するように、両手ですくった湯を顔に浴びた。

「目が虚ろで、何も喋らない三橋を見て、怖いって思ったんだ。ああ、もう知ってる三橋とは別人なんだって。……オレは、そう思った自分が情けない。三橋は地獄を味わっても高校へ進学して、独りきりでも寮に入って生きてきたんだから。だから勝手に見守ってるんだ。今の三橋は、好意も悪意も関係なく受け入れてしまうから」

 誰かが守らなくちゃ――と佐倉は自分に言い聞かせるように呟く。

 佐倉が浴場から出たあと、小林は首までとっぷり湯に浸かって動かなかった。一人二人と湯から上がり、シャワーの音も消えてしまったころ、小林の脳裏にある一つの考えが形になっていた。


 夜の自習時間は八時から九時まで割り当てられている。

 思いがけず三橋の過去を知り、小林は興奮していた。三橋が喋らなくなったのは、おそらく佐倉の言う「家族の死」がトラウマになっていると考えるのが妥当だろう。武田の言うように、第三者が出来ることは少ない。しかし、三橋に直接話しかけてみない限り何も始まらないことも確かだった。

 今朝、池の前で佇んでいた姿を思い浮かべる。三橋は感情を失ってなどいない。ロボットでも人形でもなく血の通った人間なら、傷を癒すことも出来るに違いない。

 ――大変なことに手を出そうとしている。

 他人と関わることを嫌ってきた自分が、自発的に他人に介入しようとしているのが、不思議でたまらない。いつもと変わりなく自習を始める三橋を見て、小林はひとり胸を躍らせていた。

 八畳の洋室はシンメトリーになっている。入って左右の壁に、手前からベッド、衣装ケース、小机と続き、広めの勉強机が壁との間にきっちりと嵌っている。奥の壁の中央には大きな引き違い窓が取り付けられているが、夜は厚い緑のカーテンで塞がれていた。

 泊まりの教師が順々に部屋を回るが、この角部屋に到着するのは当分先のことだ。黙々と課題をこなす後ろ姿に、小林は満を持して「怪我はなかったか」と問いかけた。

 三橋は動かしているペンを僅かに緩めた。しかしすぐにまたペンを走らせる。

 そう簡単にはいかないか、と思ったとき、彼はごく自然に頷いた。――まるで、そよ風に葉が揺れた、そんな首肯だった。

 腹の内に熱いものが込み上げてきた。思うままに言葉を継いでみる。

「今日は災難だったな」

 これには反応しなかったが、話を続けた。

「岩でも落ちたかと思って駆けつけてみたら、池から泥まみれの人が現れたから驚いた」

 また手元が止まったのを見て、話を踏み込んでみる。 

「八木も肝の小さい奴だよ。すぐ助けりゃいいのに、俺が近付いたら走って逃げやがるんだから」

 言外に精一杯皮肉を含ませたつもりだった。突き落としたのだから助けるはずがないよな、と。しかし小林の思いも空しく、三橋は再びペンを動かし始めた。

 他人の心を引き出すのは簡単ではない。ましてや初めて話しかけたのだ。三振でベンチに戻るようなやるせなさを感じながら、小林はおもむろに立ち上がり、窓際へと近付いた。

 カーテンを片目分だけ開ける。月明かりの無い暗闇に、ぽ、ぽ、と街灯がともっているのが見えた。そのかすかな光を反射して、池の輪郭がぼんやり浮き出ている。

「この池、不思議と見入っちゃうよな」ふと言葉が漏れる。「今朝、三橋もこの池を見てたよな。……考え事してたみたいだから、邪魔したら悪いと思って素通りしちゃったんだけど」

 何かしてたのか、と振り返って息を呑んだ。

 今朝と同じ目。池の前で振り返ったあのどんぐり目が、真っ直ぐこちらを向いている。自分を見ているのか窓を見ているのか焦点は定かではないが、その瞳から窺えるのは間違いなく「興味」だった。

「……この池、好きなのか?」

 深く考えずに訊く。すると三橋は我に返ったように視線を外し、首を横に振った。一拍置いて机に視線を戻す。もう眼光は消えて虚ろな瞳に戻っていた。

「悪い」咄嗟に漏れた愚問に我ながら呆れる。「あんなことがあったばかりなのに、好きなわけないよな。俺もこの池は苦手だよ。真っ黒で濁ってて、吸い込まれるような感じが」

 失敗したな、と後悔しながらカーテンを閉めて席に戻る。しかし、意思疎通ができただけでも、大きな収穫であることは確かだった。

 ノートを広げ、ペンを持つ。

 ――明日も話しかけてみよう。

 ひとり頷いて、手を動かしかけたそのとき、どこからか低い音が聞こえた。風のような音、そう思って窓に目を遣るが、今しがた見た外の光景は、とても静かだったように思う。

「今の音、聞こえたか」と後ろに問いかけたが、三橋は首を傾げる。どうも音に過敏になっているらしい。そう思っていたところに、乾いたノック音が響いた。

「よしよし、ちゃんと自習してるな」

嬉しそうに顔を見せたのは武田だった。

「今日は早いんですね。他の部屋は」

「まだだ。珍しく逆から行きたい気分だったんでな」

 そう言って武田は調子を伺うように視線を向ける。小林は軽く三橋の方を見てから武田に頷き、微笑を返した。――十分ではないが健闘したのだと伝わるように。


 その晩、小林は夢を見た。真っ暗な中に自分ひとりが佇んでいる。その暗さは夜の闇かもしれないし、あるいはあの黒い池かもしれない。

 白いもやがあたりを覆い始めた。徐々に靄は一つに収束し、目前に白い人影を作る。

 小林はその影に無性に手を伸ばして触れたくなった。突き倒そうとしているのか、引き戻そうとしているのかは分からない。白い影は三橋にも、八木にも、そして自分自身にも見えた。

 触れようとした白い影は、こちらに近付いてくる。緩慢に歩みより、その頭部と思わしき部分が、自分の左頬へ寄ってくる。耳に触れる生温かい息。身体は麻痺したように動かない。じわり、じわりと頭部は下へ移動していく。蟀谷こめかみを、頬を、そして首筋を吐息がなぞるのに身震いしたとき、意識は唐突に現実に引き戻された。

 枕元に息遣いが聞こえた。――誰かが側に立っている。

 小林は起きていることを悟られまいと、瞬時に目を閉じたまま自然な寝息を装おうとした。誰だ、何をしてる、早く行ってくれ、何もするな、頼む早くお願いだから――。

 祈り続けた効果か、ふと異様な圧が途切れた。ドアが開き、足音が出ていく。

 弾かれたように起き上がって反対側のベッドを見た。三橋の布団は空だった。

 小林は長い息を吐いた。強張った筋肉が弛緩していく。

 ――なんだ、三橋か。

 ならばトイレに行ったのだろう。自分の異様な緊張がおかしくて、上がった息に合わせて苦笑が漏れた。ベッドに背を倒し、目を閉じる。しかし再び寝ようとすると、沸々と疑念が浮かんでくる。

 ――用を足しに行くなら、何故自分の寝息を窺っていたのだろう。

 寝息を窺うのは眠っているか確かめるためだとして、それをする必要はどこにもないはずだった。冷静になった頭で考えると、三橋の行動は奇妙だった。

 十分ほど待っていたが、三橋は帰ってこなかった。小林は夢で見た靄のような掴みどころのない不安を感じながら、知らず知らずのうちに眠りについた。

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