第2話

 六限目のことだった。

 反時計回りに池周りを五周するのが、秋時分の体育の恒例だった。池自体はさほど大きくないが、公園と職員用の駐車場が隣接し、五周すると四キロ弱の距離になる。

 一日の疲労が積もった六限はただでさえ気が重いのに、小林はこの日ずっと、三橋みつはしの向けた意味ありげな視線を思い出して神経を消耗していた。

 ――何か伝えたいことがあったのだろうか。

 そう考えては、ある記憶が脳裏によみがえる。

 小学生の頃、小林は下校途中に子犬を見つけたことがあった。道路脇に五匹、段ボールの中で懸命に泣き叫ぶ姿を、友達と珍しそうに眺めていた。雨が降り始め、友達は帰った。小林は濡れて耳の萎れた子犬をそのままにしておけず、近くの橋の下で雨宿りをさせた。子犬たちは安心しきって寝息をたてていた。その晩、稀な豪雨が山の方に降り注いだ。翌日川を見に行くと、箱を置いた場所は増水して跡形もなくなっていた――。

 無知な人間が軽々しく手を出してはいけない――。以来小林は、あらゆることに触れず関わらず距離を取るようになった。あの出来事がトラウマになっているとは思わないが、未だに折に触れて思い出してしまうことに、自分の本質が露呈ろていしているような気がした。

 さりとて、人の性質は簡単に変えられるものではない。悪い癖だ、と思いながらも、少しだけなら、とつい三橋のことを考えていた。

 朝から頭の隅を探し続けても、三橋に関する情報は驚くほど出てこなかった。まともな噂がないのは、中学以前の彼を知る生徒が極端に少ないからだ。レベルはどうであれ、この高校には県内各地から生徒が集まってくる。三橋と同じ中学だったのは、もう一人、佐倉という生徒しかいなかった。

 佐倉は数少ない、三橋に関わろうとする人間だった。

 佐倉も寮に入っている。寮でも学校でも、食事のときにはいつも三橋を仲間内に呼び寄せ、彼がひとりでいることのないように気を付けていた。三橋と佐倉は三年間クラスが同じだというから、そういう役割として、学校側で何かしら配慮されているのかもしれなかった。

 一年の頃に一度だけ、「なぜ三橋は喋らないのか」と訊いたことがある。別に深い事情を聞けるとは期待していなかったが、佐倉は微笑しながら「そういう奴なんだ」と答えるだった。

 人は誰しも踏み入られたくない領域を持っている。佐倉は、無口な三橋の代わりにその領域を守ろうとしている、そんな印象を抱いた。

 佐倉とは二年半で互いに友人と呼べる程度の関係になったが、あれ以来、彼の口から自発的に三橋の話題が出たことはない。小林もあれ以来追及することはなかった。


 取り留めのない考えを巡らせていると、小林は四周目で周回遅れになってしまった。

「二十五分越えたらもう一周だってよ!」

 後ろから威勢の良い声が掛けられるやいなや、インパラのように颯爽と跳ねる集団に抜かれていく。小林も流れに押されるように足を速めた。

 とはいえ三橋のことを考えないようにすると、空いた思考の穴に、別の考えが舞い込んでくる。――なぜ黒い池の周りを一心不乱に回っているのだろう。どこか儀式めいて気味が悪い。池の底から大蛇や龍でも飛び出すのだろうか、それとも生贄を投じる祭祀なのか――そうやって隙あらば妄想を繰り広げてしまう自分に気付くたび、苦笑が漏れる。

 集団に抜かされると静寂が訪れた。笑ったせいで心なしか身体が軽い。あと一周半だ、と意気込んだそのとき、電気が走ったように力の抜けた身体が強張った。

 鈍い音。左手の方から、どぼ、と水気を含んだ音が鼓膜を震わせた。

 左手にあるのは池だが、垣が遮っていて音の出所は見えない。小林は無意識に足を緩めて坂を下った。この先を曲がれば、毎朝池を眺めている場所だった。

 恐る恐る左に曲がって目に入ったのは、紺の体操服姿。見覚えのある顔、そう思って近付いた瞬間、その生徒は小林を一瞥して全速力で向こうへ走りだした。

「なんなんだよ、あいつ……」

 訳も分からず、彼が立っていた場所まで来ると、不意に柵の向こうで、黒い飛沫が跳ねた。

「わ」と小林は短く叫び、咄嗟に半歩身を引く。

 真っ黒な水が再び飛沫をたてた。もがくように水面に突き出たのは人の手、間髪入れず頭が覗き、顔があらわになる。――泥にまみれていても、それが三橋だとすぐに分かった。

「おい――」

 三橋の顔は沈みそうになっては浮いている。小林は柵を乗り越え、手ごろな草を掴みながら、慎重に傾斜を下って池の縁に駆け寄った。片手で丈夫そうな草を掴み、身体を出来る限り伸ばし、そして三橋の細い二の腕を掴むと、思い切り岸まで引いた。

 水を飲んだのか三橋は咳きこんでいたが、身をよじらせて陸に上がった。

「大丈夫か、息できるか」

 小林が背中をさすろうとすると、三橋は立ち上がる。

「無理したら駄目だ。先生を呼んでくるから、しばらく座って休んで――」

 そう言う間にも、三橋は斜面を登り、木柵を跨ぎ越す。そこに小林など存在していないかのように、言葉を発さないのは当然のこと、目線を遣ることさえなかった。

 全身泥水に塗れていることに頓着せず、袖で顔を拭うと再び走り出す。

 小林は呆然として、彼の去った方角を見つめるしかなかった。


「八木が突き落としたんです」

 放課後のほこり臭い空き教室で、主張を熱弁する生徒を前に、担任の武田は腕組みをして唸っていた。三十半ばの落ち着いた男教師だったが、このときばかりはどうしたものか困惑している様子だった。

 六限が終わるやいなや、小林は武田に、八木が三橋を突き落としたのだと告発した。一瞬しか見えなかったが、確かに八木という生徒の顔だと確信していた。

 小林は八木が苦手だった。横柄で感情の起伏が激しく、常に取り巻きを連れていて、見るからに近付き難い。女性教師など彼らを見ると廊下の真ん中でもきびすを返すくらいだった。寮生でもある八木は、当然のごとく寮内でも幅を利かせ、三年になってからは後輩を好き放題にこき使っている。

「信じてやりたいが、見てはいないんだろう?」

「見なくたって分かります。池に落ちる音がして、すぐ駆けつけたんです。そこには八木がいて、真横から三橋が浮かび上がってきました。柵があるのに、池に突っ込むはずがないです。俺、嘘はついてません」

 嘆願するような口調に武田は短く苦笑を漏らしながら、仁王立ちでこぶしを握る生徒を正面から見据える。

「お前の言うことは正しい。でも、問題はあの二人なんだ」

「八木はなんて言ってるんですか」

「自分は突き落としてない、の一点張りだ」

 ――あいつならそう言い張るだろう。

「じゃあ、三橋は」

「誰かに突き落とされたのかと訊けば、首を横に振る。つまずいて転んだのかと訊けば、頷く」

「そんな」

 やるせない思いに駆られて、小林は下を向いた。それでは、当事者二人の言い分が一致していることになりはしないか。三橋が躓いて池に落ち、その場に八木が居合わせた――ただそれだけの、いわば不注意による事故。

 西日に反射した埃の粒子が、星空のように瞬いている。しばしの沈黙を破って、武田が口を開いた。

「俺だって真実を知りたいと思うよ」普段は先生、と自称する武田が俺、と言うのは、にわかに距離が近くなったような気がした。「けれど、二人しか真実を知らない以上、当事者の言うことを真実と捉えるしかないんだ。外野の俺たちに出来ることは少ない。そしてそれは、本当のことを言えと口を割らせることじゃない」

 小林はおとなしく頷くしかなかった。武田の言うことはもっともだったし、胸の内では理解しているつもりだったからだ。しかしどうしても気は晴れない。

 低いとはいえ木柵があるのに、躓いたくらいで乗り越えてしまうほどバランスを崩すとは思えない。しかし柵さえ越えれば、急に落ち込んだ斜面を池まで転げることは造作もない。柵の向こうに越えれば。――向こうにさえ突き倒せば。

 無意識に奥歯を噛みしめていることに気付いて我に返る。――また悪い癖だ。なぜこんなにも三橋をかばおうと躍起になっているのだろう。唯一の目撃者である義務感からか、八木への嫌悪からか、はたまた池を見ていた三橋にシンパシーを感じたからか――武田に諭されている間、そんなことを考えていた。

 話が終わり、項垂うなだれて教室を出ようとする生徒を見て、武田は、

「確か小林は、三橋と寮で同室だったな」

「……はい」

「あいつは家が色々と大変だったんだ」

 初めて耳にした信憑性のある情報に胸が高鳴ったが、武田はそれ以上話すつもりはないようだった。

「会話することは難しいが、時間はたっぷりあるんだ。卒業までと考えると短いかもしれないが、小林なりに気にかけてやってくれると嬉しい」

 武田の願いに、小さいながらもはっきり「はい」と答えた。

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