黒い池

小山雪哉

第1話

 奈落の底にも似た闇が、その池を満たしていた。波紋ひとつない水面は墨を塗った鏡のよう、そこにうろこ雲が哀しげに映る。楕円に形成された池の縁は、長年の侵食で無骨に歪み、全体としてこの場所は、無造作に掘られた墓穴を彷彿とさせた。

 小林は腰の高さほどの木柵に両手をかけ、その死を具現したような池を見つめていた。

 無音の水面を、時折一枚の葉が滑っていく。何かに引かれるように巨大な弧を描きながら回遊し、ふと興味を失ったように静止する。

 酷く孤独な風景だ、と思う。さして美しいわけではなく、九月の朝らしい風情ふぜいも感じられない。しかし、不思議と目を奪われる光景だった。それは惹かれるというより、同情に近い感覚かもしれない――そう思いながら顔を上げた。

 池の向こう岸にせり上がった崖、その上の広々とした土地には、巨大な白い校舎の上半身が見える。小林の通う高校だ。元々小高い山である周辺一帯が、高度成長期に宅地開発されると共に、頂を削って建てられたのだという。静かに眠っていたところを踏み入られ、切りひらかれ、余計な土砂を端へ端へと押しやられ――数多あまたの責め苦に耐えて辛うじて残ったのが、この池だった。

 白く朝日を吸い込んだ校舎と黒くよどんだ池。もし、学校が清く正しい人間を製造する容れ物なら、精製過程で出た不純物はきっと、こういう場所に吐き出され、沈殿していくのだ。

二年半生活してきた校舎の両翼には、真新しい棟が増築されたばかりだったが、小林の目には、まるで両手を広げて勝ち誇る巨人のように映って忌々しかった。

 誰からも見放された黒い池――。小林は触れている木柵を、左へと目線でなぞる。

 ――それなら彼は、見放された孤独を池に重ねているのだろうか。

 直線に伸びた木柵の先、池の南西の角に彼は佇んでいた。小林と同じく柵に両手を置き、じっと池の中央を見つめている。

 ――毎朝飽きずに見つめて、何を考えているのだろう。

 池を凝視し佇む彼を見つけて二週間になる。朝食後に姿がないと気付いたのは今年の四月が始まってすぐだったから、もしかすると半年近く、毎朝ここに来ているのかもしれない。

「おかしな奴」

 そう呟いて、柵にかけていた体重を引き戻す。木が腐っているのか釘が緩んでいるのか、手を離すと大きくぐらついた。池も周囲も手入れが遠のいて久しい。歩道のアスファルトなど、雑草が伸び散らかして歩き辛いことこの上ない。小林は足元に注意し、朝露の光る草を避けながら歩道を進んだ。

 池は四角く取り囲まれている。北は崖に、南東の二辺は歩道に面した木柵に、そして西は正門への急勾配に面した躑躅つつじの生け垣が、それぞれ池への侵入を阻んでいた。小林が物思いにふけっていたのは南東の角だ。

 正門へ戻るためには、南西に佇む彼の側を通らなくてはいけない。逆回りなら彼を避けられたが、どうせ後ろを通っても反応しないのだ。緊張する必要はなかったが、小林は一種の癖から俯いて歩き始めた。

 ――彼が何をしていようが、関係ない。

 残暑をはらんだ微風は水面を撫で、かすかに泥の臭気を運んでくる。どこか遠くの方で百舌鳥もずかまびすしく鳴いていた。


 小林が彼――三橋みつはしを最初に認識したのは、二年半前、入学直前の三月だった。市民ホールで入学説明会が終わったあと、引き続いて行われた寮の説明会に、彼はひとりで参加していた。

 三橋は吹けば飛ぶような胸の薄い小柄で、どんぐり目をした、少年のあどけなさの残る風貌だった。説明会は寮の費用や生活内容など保護者向けの話が中心だったため、ひとりで大丈夫なのだろうか、と心配したのを覚えている。

 県内では珍しい男子校で、地域では一応、進学校として名が通っている高校だった。部活や学業に専念するために寮を希望した生徒も少なからずいたが、やはり大半は、親と離れた生活に憧れ、人生に少々の新しい風を吹き込ませたい、と興味本位な生徒ばかりだった。――小林もその一人だ。

 しかし、三橋が寮に入る理由は誰とも違う気がした。説明会の帰り際、駐車場で彼を待っていた五十代くらいの女性は、明らかに彼を嫌悪していた。後部座席に乗り込んだ彼をちらりとも振り返らず、不愛想なタクシー運転手のごとくエンジンを噴かせて走り去る様子に、小林は呆気に取られていた。ほんの一瞬、窓の外を虚ろに眺める彼の姿が目に入ったが、表情がないにも関わらず、ひどく悲しげに見えた。――家庭に深い事情があるのだろう、そう察せずにはいられなかった。

 入学前から、彼の前途にもやのような不安を抱いた。そしてその直感は当たっていた。

 三橋は入学早々、好奇を浴びることになった。入学式で名前を呼ばれても返事をしなかったからだ。小林は印象とは違った反抗的な態度に驚いたが、数日後、それが大きな誤解だったことが判明する。

 三橋は入学式のみならず、学校でも寮でも一切喋らなかったのだ。会話どころか、声を発することさえなかった。

 珍しいものには人が群がる。三橋を馴染ませたいという思いもあったのだろう、男子校の気風そのままに、当初は誰もが気さくな態度で接しようと努めていた。

 しかし、三橋は反応しなかった。無表情、無反応を貫いた。しだいに話しかける者が一人二人と減り、一学期が終わる頃、三橋に話しかけることは一種のタブーとなっていた。

 異常なことだったが、誰もが異常ならば、それは普通になってしまう。同学年の生徒のほとんどは、三橋を軽蔑こそしなかったが、まるで影のように扱い、ごく自然に視界に入れなかった。

 そうして二年が過ぎ、今年の四月、小林は三橋と寮で同室になった。

「おとなしいからって苛めんなよ」

「案外気が合うかもよ」

「喋らないのに、合うも合わないもないだろ」

 周囲は総じて小林を揶揄からかったが、皆三橋と同室でなかったことを安堵したに違いない。

 この頃になると、噂の質も相当下がり、声を聞くと呪われるだとか、目の合ったものは殺されるといったオカルトチックなものから、声を出さないのをいいことに慰み者にされているなど、下世話なものまで多様だった。

「お前らと一緒だと、気が散って第一志望に受からないからな」

 小林は冗談交じりでそう返していたが、内心は疫病神扱いされる三橋が不憫ふびんでたまらなかった。同室になって以来、三橋に対して妙な仲間意識が芽生えたらしかった。

 実際のところ、三橋と同室でいることは気が楽だった。三橋は寮で過ごす大半を、自室での読書に費やした。あまり社交的ではない小林にとって、同室の相手が沈黙を貫いていることは想像以上に居心地が良かった。

 それでも、言葉も表情もなく、人形のように静的な三橋を不思議に思っているのは事実だった。なぜ三橋は喋らないのか、いや喋ることが出来ないのか――。

 毎日注視してみたが、彼はあくび声一つ出さない。稀に問いかけに首肯しゅこうすることはあったが、どれも極めて機械的なものだった。

 唯一分かったのは、朝食後に姿を消すということだった。どこへ行っているのだろうと不思議に思い、寮内を探し歩いたが見つからない。気にはなるが、後をつけるのもはばかられたので、一旦は忘れかけていたのだが、新学期が始まった二週間前、気紛れに外へ出たときに、偶然池の側で姿を見つけたのだった。

 一心に池を見つめる目は、何かを深く考えているように見えた。悲しげな表情をするのは、こうして池の前に佇んでいる間だけ。三橋には意思がある――それが三年目にして唯一の発見だった。


 甲高いブレーキ音をたて、颯爽と自転車が通り過ぎる。はっと我に返ると、再び立ち止まって池を見つめていることに気付いた。

 ――気味の悪い池だ。

 気が付くと目線が吸い寄せられている。魅力というには恐ろしい、魔性ともいうべき不可抗力が、この池にはあった。

 小林は目前に佇む沈黙した同級生を見る。黒のスラックスに黒のTシャツ、袖から伸びる腕は白く、石膏のように生気がない。

 最初に彼を発見したときは、危ない、と思った。今しも池に飛び降りてしまいそうな格好だったからだ。それでも声を掛けなかったのは、その光景がひどく似つかわしく思えたからだ。不謹慎な想像だとは思う。三橋に飛び降りてほしいわけでもない。しかし、微動だにせず池を眺める彼の姿は、まるで最初から黒い池の一部であるように調和していた。

 崖の上から校舎のチャイムが聞こえだす。寮に戻らないと、と三橋の後ろを早足で通り過ぎようとしたとき、前触れなく彼が振り返った。

 小林は息を呑んだ。――一度も振り返ったことはないのに。

 目が合うと殺される、という言葉が反射的に浮かんだ。どうしよう、何か言うべきか―――脳内が激しく渦巻くのと反対に、身体は硬直して動かない。あ、と言葉にならない音が口から漏れたとき、再び予兆なく、三橋は池に向き直った。

 ほんの数秒のこと。しかし小林の心臓は、弾けそうなほど胸を打っていた。

 逃げるように走って角を曲がる。坂を駆け上ると額に汗が滲んだ。正門まで上ったところで後ろを振り返り、息を整える。ここまで上ると池の全景が見渡せた。

 暗い池だった。縁には雑草が茂り、歩道には広葉樹が等間隔に並んで影を作っている。四月には桜がまさしく吹雪ふぶくのだが、九月も半ばの今はすっかり生気を失い、早くも黄や茶に色の抜けた葉がしがみついていた。

「……やっぱり、おかしな奴だ」

 同じ場所で幽霊のように立ち尽くす三橋を見て呟く。しかし自分も同じように池に魅入られていたのだ――そう思うと安易に三橋を否定できなかった。

 正門を越えてすぐ左手の二階建てが寮棟だった。校舎と寮の壁時計は共に八時を指している。小林は体内の毒素を絞り出すように深呼吸すると、重厚なガラス戸を大儀そうに引いて中へ入った。

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