第3話 偶然困っている美少女を助けたとか


「……」


 手の感覚も脚の感覚も無い。意識はしっかりしているのに、動くことができない。まるで波にただよっているかのように、浮遊感ふゆうかんに包まれた俺の身体。ただサクヤの声だけが、俺の意識の中に響く。


――あとは頼んだぞ、イーナよ。


 サクヤの声で、はっと目が覚めた俺。目の前には先ほどまでサクヤと会話していた洞窟の天井が広がっていた。灯りに照らされた天井は、ずいぶんと遠くにみえていた。背中にはごつごつとした感触が伝わってくる。どうやら俺は、洞窟の床に直接寝そべってしまっていたようだ。


 もうすっかり手の感覚も脚の身体も戻っていた。いつまでもこうして寝ているというわけにもいかない、起き上がろうと、そっと手を動かそうとした俺は違和感に気が付いた。ずいぶんと手が縮んでしまったかのような感覚。そして、今までよりなんだか手が重く感じる。


 何とか起きないと……


 そう思った俺は床に手をつきながら自らの身体を起こそうとした。だがどうにも上手くバランスが取れない、力が入らない。確かに俺の身体であるはずなのに、俺の身体とは違う身体になってしまった。そんな妙な感覚に俺は囚われていた。


――目が覚めたようじゃな。


 頭の中にサクヤの声が響き渡る。ああそうか、そういえば九尾になるって約束したんだっけ。それにしても先ほどから何とも身体が動かしづらい。手だって思うように……


「……え?」


 確かめようとして目の前に持ってきた俺の手は、いつもの俺の手とは全く違っていた。ごつごつとした筋肉は消え去り、まるで赤ちゃんの肌のように真っ白ですべすべの肌が見える。


「……え?」


 手を握るという俺の脳からの指令は、確かにその『いつもと違う手』に伝わっていた。うん、確かにこれは俺の手だ。間違いない。握れと命令を出せばきちんと握ってくれるし、伸ばせと命令をすれば、小さな手は俺の指令通りに広がるのだ。


 違和感は手だけではない。先ほどからなんだか妙に顔や首元がくすぐったい。ちくちくと長くなった髪が俺の肌に刺さっているようだった。


 まだどことなく違う人間のものに思えるような自らの手で、俺は自らの身体に起こったであろう変化を確かめてみた。まずは頭だ。先ほどからちくちくと顔に触れる髪は、肩に掛かるほどまでに伸びており、今までのごわごわした髪から、柔らかくつやつやした髪の毛に変わっていた。そして他の部位も確かめてみる。細くなった脚、柔らかくなったお尻、そして何故か膨らんでいる胸元……


「え……?」


――イーナよ、無事におぬしの中に入り込めたようじゃ、ちょっと失敗してしまったがのう……まあ問題は無いじゃろう!


 待って…… 待って!


 極めつけは…… 俺の…… いや、男のシンボルマークが消え去っていたのだ。


「えええええ!!!!」



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「いや、ちょっと待ってよ!」


 思わず俺は自らに憑依しているであろうサクヤに向けてそう叫ぶ。もしここに誰か別の人がいたとしたら、完全におかしな奴だと思われるに違いない。俺以外誰もいない空間で、ただ空に向かって叫んでいる妙な女。今の俺はそんな存在である。


――すまんの…… どうやらおぬしの力とわらわの力のバランスが取れなかったようでな…… わらわの影響が強く出すぎてしまったようじゃ……


「いやいや、まって20数年間共に過ごした相棒だよ! 俺の…… 俺のエベレストが……」


――『えべれすと』とは何じゃ……?


 真面目な様子で聞かれると、なんだかこっちが恥ずかしくなる。そんな恥ずかしさをごまかすように、俺は再びサクヤに向けて声を上げた。


「何でも無いよ! じゃなくて! まって! 急に女の身体になって…… 俺どうやって生きていけば……」


――大げさじゃな…… 別にそこまで変わらないじゃろ……? それにどうせあのままの姿でいたところで、すぐにくたばっていたのは明らかじゃ。 まあ、わらわの力を使えるのだから、そのくらいいいじゃろ?


「いーや違うのです! とにかく違うのです!」


 そんな言い合いをしていた俺達であったが、俺はふと洞窟内に『別のもの』の気配を感じた。先ほどまでは全くなにも感じなかったが、確かに今はわかる。あの岩陰の奥に何かがいる。何処か懐かしいような感覚。何処かで会ったような感覚。


――それは九尾になったおぬしの力の一つじゃ。わらわは最初からわかっていたぞ。やはり人間はたいしたことないの……


 何故か得意げに語るサクヤ。顔こそ見えないが、どや顔で笑みを浮かべているサクヤの姿は容易に想像が出来た。何となく負けたような気がして気に食わないが、それはそれとしてだ。先ほどから感じてくるその何者かの正体を確かめたい。その一心で俺は気配のする方向へと脚を進めた。


 まだ慣れない身体で何とかバランスを取りながら、脚を一歩一歩と前に出していく。身体はずいぶんと軽くなったが、それも相まってなかなかに歩きにくい。この身体になれるのにももう少し時間がかかりそうだ。


 そして、何者かの気配がしていた岩陰、そこからぴょこんと首を覗かせていたのは、先ほど俺をこの洞窟へと導いたあの小さな狐であった。


「ああ、こんなところにいたのか……」


 俺はしゃがみ込んで、狐に向けてゆっくりと手を差しのばした。こちらを伺うような様子を見せながら徐々に近づいてくる狐。まだ警戒こそしているようだが、なかなか人なつっこい狐のようだ。


――ルカよ、今日からこの者がわらわに変わって九尾になる。


 サクヤの声が洞窟内に響き渡ると共に、俺の掌に顔を触れていた小さな狐は人間へと姿を変えた。毛並みに似た、黄色が買った長い髪、そしてくりくりの目。まるで小学生か中学生かと思うような何処かまだ幼さが残る少女は、俺に向かって笑顔を浮かべる。


「あの…… 九尾様を助けてくれてありがとう! それに…… えーと……」


 ちょっと恥ずかしそうな様子でもじもじとする少女。よく見ると少女の手には、俺が先ほど怪我をした狐に巻いたハンカチが握られていた。間違いない。この子は、さっき手当てをしてあげた狐である。


――こやつの名前はイーナじゃ。ルカよ。


「あのね、ルカを助けてくれたイーナ様なら、きっと九尾様も助けてくれると…… 信じてたんだよ!」


 目の前の少女が浮かべた満面の笑みに、俺は思わずきゅんとしそうになってしまった。何とも新たな趣向が開けそうになってしまいそうになったが、俺は必死で自らを律していた。つい抱きしめたくなってしまったが、そんな事をしたら事案になってしまう。先ほどの狐の姿であればまだしも、今目の前にいる少女、ルカは完全に人間の姿であったのだから。


「そっか君が…… ルカがここに俺を連れてきてくれたんだね!」


 なんとか冷静を保ちながら俺はルカに言葉を返した。だが、不自然に開いた俺とルカの間の距離に、ルカは不思議そうな様子でこちらをじーっと見ていた。


「……イーナ様どうしたの?」


――こやつはうぶな男じゃからな。いや、今はもう男では無いか!


 かっかっかと笑うサクヤ。なんとも他人事である。だが、俺はサクヤの言葉で『重要なこと』を思い出した。今の俺はもう九尾の少女イーナであるのだ。九尾だ何だというのはさして重要ではない。「少女」というところが最も重要なのだ。


 そう、今の俺は少女の姿である。ならば、目の前のルカに近づいても事案にはならない。これは、女の子同士のコミュニケーションなのだ。そう、これはあくまでただのコミュニケーション。何ら問題の無い行為なのである。


「ルカよろしくね!」


「うん!」


 ルカに手を差しのばした俺。ルカは再び満面の笑みを浮かべながら、差し出した俺の手を握りかえしてきた。柔らかい、そして温かいルカの手の感触が伝わってくる。


 女の子として生きるのも悪くない。心からそう思った瞬間であった。

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