朝の匂いは、恋の色

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朝の匂いは、恋の色

 今日の天気は、晴れのようだ。「スウッ」と吸いこんだ匂いには、朝の光がほのかに漂っている。家の玄関までつづいている廊下にも、その鱗粉りんぷんが綺麗に散りばめられていた。少年はその廊下をすすんで、家の玄関にいき、愛用の運動靴をはいて、玄関の中から出ていった。玄関の外は、少し寒かった。町の中心部にあるビル街からは暖かい光が見えるが、それも建物の反対側を主に温めているだけで、少年のいる位置にはほとんど届いていない。彼の頬をかすめていく風を少しだけ温めてくれただけだった。


 少年はその涼しさを感じつつ、家の敷地を通ってから、いつもの散歩道を歩きはじめた。散歩道の両側には電柱が十数本、そのいくつかには電灯がもうけられていたが、今の時間がまだ早いこともあって、電灯の明かりがいまだにいている。少年がいま通りすぎた電柱の電灯も、その光をこうこうと照らしていた。

 

 少年は、その光を意識に入れなかった……いや、「入れられなかった」といった方が正しいかもしれない。目の前の風景を見つつも、あさってのことを考えていた彼には、散歩道の途中にある曲がり角も、その曲がり角からしばらく歩いた先にある自動販売機も、ただ視界の中に入ってくる物体でしかなかったのだ。「はぁ」と無意識にもれたタメ息すらも、耳の中にたまたま入った表音でしかない。

 

 少年は意識と無意識、現在と過去をすっかり入れかえて、本来なら見えない過去や無意識に現在の意識と風景を重ねあわせた。それが胸の緊張をさらに激しくさせるともしらず、過去の記憶を一枚、一枚、丁寧にめくりはじめてしまったのだ。そこに書かれた想いを読みかえすように、そして、その想いにまた文字を書きいれるように。すべてのはじまりを、自分に生まれた恋の始点をもう一度形づくってしまったのである。

 

 少年は、その内容をゆっくりと思いかえした。それのはじまりは、今の学年に上がってからしばらく経ったころだった。彼は教室の男子たちと話している最中さなか、ある女子生徒にふと目をとめてしまった。周りの女子たちとは少しちがう……なんてことはないが、見るからに大人しげな少女。彼女は自分の席に座って、一冊の詩集を読んでいた。

 

 少年は、その姿に思わず見ほれてしまった。彼女とは、ほとんど話したことがなかったのに。彼女が詩集のページをめくって、その内容に思わず笑ったり、あるいは、無意識に悲しんだりする姿を見ると、自分もなぜか温かい気持ちになってしまったのだ。それこそ、ずっと探していた宝物でも見つけたかのように。自分の内側が、急に熱くなってしまったのである。

 

 少年は、その熱に息を飲んだ。それの正体は分からなくても、ことは分かったからだ。も、それと関わる大事な感情であるに違いない。

 

 少年は、その感情が何であるのかを確かめる……必要はなかった。その時には「大事な感情」としか分からなくても、自分の家に帰ってからすぐ、それを「あれこれ」と考えれば、感情の正体も当然に分かる。それがどんなに唐突で、特急列車のような速さであっても。ベッドの上でもだえながら感じた想いは、まぎれもない自分の初恋だった。

 

 

 

 少年はその想いに恥ずかしくなってしまったが、一方では「彼女とたくさん話したい。たくさん話して、彼女と仲よくなりたい」とも思っていた。


「明日、あの子に話しかけてみよう」


 少年は、その想いに勇気をふりしぼった。教室の中で彼女にそっと話しかける勇気を、そして、その彼女に「なに読んでいるの?」ときく勇気を。周りの目をうまくごまかして、彼女と自分との間に何とか線をつなげようとした。「きのう、たまたま見て。その、なんとなく」


 気になって……。そういえば、とくに怪しまれないですむ。そんな子どもじみた計算だったが、まだ小学生だった彼には、それが精いっぱいの作戦だった。「自分も、きみと同じものが好きなんだよ」と。男子と仲よくなるコツを使えば、彼女ともぜったいに仲よくなれる。確かなことは何もなかったが、今の彼には、それにかけるしかなかった。

 

 少年は期待半分、不安半分で、彼女の顔を見つめた。彼女の顔は無表情、ではない。最初こそ無表情だったが、それは単純に「え?」と驚いていただけのようで、彼がきこうとしていたことが分かると、どこかうれしそうな顔で笑いはじめた。

 

 少年は、その笑顔にあかくなった。その笑顔が、本当にかわいかったから。昨日の休み時間に感じた熱が、彼の頬をまた熱くさせてしまったのだ。彼は何も着かざっていない、素朴な感じのかわいさに頭がクラクラしてしまった。

 

 少女は、彼に自分の読んでいる詩集を教えた。それは有名な女性詩人が書いた詩集で、少年にはその詩人が分からなかったが、いま一番売れている詩人作家らしい。詩集のカバーには、彼女の顔らしい写真がモノクロでのっていた。


「わたし、この人の作品がすごく好きで」


「ふ、ふうん。そうなんだ」


 何ともぎこちない返事だったが、彼女の方はとくに気にしていないようだった。普段の彼女は、これとまったく逆なのに。自分の好きなものを話す時は、いつもの引っ込み思案がどこかに消えてしまうようだった。


「いつも読んでいるの」


 彼女は定価がたった五百六十円の詩集を、まるで宝物のように何度も何度もなでつづけた。


 少年は、その光景にふしぎな感覚をおぼえた。自分と彼女の間に線ができて、それが美しい言葉に変わっていく感覚を。そこから生じた想いにずる賢さ……とまではいかないが、会話のネタが見つかった感覚を。何の理屈も考えないで、感覚から「それ」をおぼえてしまったのである。


 少年は学校の昼休みや放課後なんかの時間をいかして、自分の気持ちが彼女にバレないように、でもそれとなく分かってもらうように、ありったけの注意を払いながら、彼女との距離を少しずつちぢめていった。


 その努力はたぶん、「実った」といっていいだろう。最初はやはりぎこちなかったが、彼女の好きなものを何とか学び、そこから自分の見える世界を広げて、彼女の考えていること、思っていることを感じられるようになれば、ときどき気まずくなることはあっても、すぐに仲直りできたし、それがきっかけになって、もっと仲よくなることもできた。ある日の放課後なんかは、彼女が指さす詩集の詩を読もうと、彼女のすぐ近くまで顔を近づけて、その詩をのぞきこんでしまった。


 彼女は少しあかくなったが、その顔をこばもうとはしなかった。


「この詩が一番好き。朝の匂いは、恋の色」


 それは、どういう意味? そうききかけた少年だったが、その疑問をすぐに飲みこんでしまった。そんなことをきいても意味はない。「詩」というのは、感覚の世界。そこから広がる情緒じょうちょをあじわう世界だ。情緒に理屈をもとめるのは、恋に理論をもとめるよりもおろかしい。

 

 少年はまだ少年だったが、「詩」という世界をしってから、その感覚が何となく分かるようになっていた。


「おれも、好きだな。その詩」


「ほんと!」


 少女はうれしそうに笑い、少年も照れくさそうに笑った。二人はたがいの笑顔をしばらく見あったが、図書室の終了時間がせまっていたので、「そろそろ帰ろうか?」といいつつ、椅子の上から立ちあがっては、それぞれの鞄をせおって、図書室の中から静かに出ていった。


 図書室の外も静かだった。そこから階段の踊り場までつづいている廊下も同じで、廊下の窓からさしこんでいる光がどこかものさびしいこと以外、何の感想もいだけなかった。すべてがいつもの空気、下校時刻の雰囲気につつまれている。二人が並んでおりた学校の階段も、彼らが楽しげに話していなければ、二人の足音だけがひびく、ただの階段になっていただろう。


 二人は学校の階段をおりきると、その昇降口にいって、上履きから自分の靴にはきかえた。


「それじゃ」


「うん、バイバイ」


 二人はたがいに手をふりあって、自分の正面にくるりと向きなおった。普通の友だち以上になった彼らだが、その家だけは反対方向にあったからである。だから、二人で帰ることはできない。昇降口の中から出て、正門までの道のりを一緒に歩くことはできても、そこから先は別々にならなければならなかった。


 少年は、その現実にさびしさを感じた。彼女ともし、一緒に帰られたら? きっと、いま以上に楽しくなるだろう。彼がいつも通っている帰り道には、とても感じのいい駄菓子屋があるのだ。子供たちは(本当はダメだが)そこで駄菓子を買い、それをパクパク食べつつ、友だちとの帰り道を楽しむのである。彼もまた、そんな少年の一人だった。いまは彼女との時間を大事にしているが、そうなる前は、学校の友だちと楽しい時間をすごしていたのである。


「はぁ」


 少年は、恋の副作用をしった。だったからである。自分がいままで、「当たり前だ」と思っていたことを。だが……。


「そうだとしても」


 やはり大事なものは、大事なものだ。自分にとって、かけがえのないものだ。ぜったいに失いたくない宝物。「その宝物にもっと近づきたい」という気持ちは……たぶん、ワガママかもしれない。恋の中でも一番みにくい、自分勝手かもしれない。自分の気持ちを自分勝手に打ちあけるのは……でも、それでも、おさえられないものはある。


 


 少年は、彼女に「自分の気持ちを打ちあけよう」と決めた。だが物事は、そう単純にはいかない。告白の意思は固まっても、それをやるのはなかなかに難しかった。「告白」というのは、思った以上にこわい。いままでは自分だけの恋にそまっていたが、「それ」を相手にも伝えるとなると、いろんな恐怖が生まれてくる。

 

 彼女にことわられたら、どうしよう? あなたのことは好きだけど、それは「友だち」としての意味で。それらの不安がつぎつぎと、波のようにおそってくるのだ。彼女は、自分のことを「友だち」としか思っていないかもしれない。


 そんな時に自分の想いを打ちあけたら? 考えただけでもこわい。いままで築きあげてきたものが、一瞬の内にくずれされるような怖さだ。一度くずれたら、もう二度ともどらない関係。その関係を失うのはやはりこわかったが、それでもおさえられない気持ちがあったことも事実だった。

 

 お前は欲しい物を買う時、相手にも金をちゃんと払うだろう?

 恋も同じだ。

 失うことをこわがっていては、本当に欲しいものは手に入らない。

 虎穴こけつらずんば虎子こじを得ず、だ。

 

 少年はそう自分に言いきかせて、次の日、彼女に「ある場所に来て欲しい」と頼んだ。そのある場所というのが、現在の彼が向かっている公園である。公園は二人の家のちょうど真ん中あたりにあったが、「自分の心を落ちつかせたい」という思いから、公園に行くまでの道もいつも歩いている散歩道を使い、彼女にいった約束の時間も、彼女が自分よりも五分ほど遅れる感じにした。

 

 この五分が、すべての分かれ目。

 

 

 少年は心の不安と必死に戦いながら、約束の公園に向かって歩きつづけた。……そこに着いた正確な時間は分からない。公園の電灯はまだ点いていたが、周りの光がそれと同じくらいになっていたので、だいたいの時間は分かった。どうやら、自分の決めた時間には間に合ったらしい。彼女の姿はまだ見られなかったが、それがわずかな余裕をあたえてくれた。

 

 少年はその余裕を使って、告白の言葉を必死に考えた。「どの言葉を使えば、この想いが通じるだろう?」と。数少ない言葉のカケラを集めては、それらを何とかいかそうと頑張りつづけた。だがいくら頑張っても、素敵な言葉は出てこない。ただありきたりな言葉が、つぎつぎとできあがっていくだけだった。

 

 少年は、その現実におちこんだ。彼女は、詩的な言葉を愛する。あの詩を、「朝の匂いは、恋の色」を思いかえしてみても。彼女の心は、単純な言葉では動かせないのだ。


 少年は、自分自身に悲しくなった。


「おれは……」


 そこから先をいわなかったのは、ある意味で幸運だったかもしれない。彼が「おれは」とつぶやいた瞬間、その目の前に彼女がふと現れたからだ。


 少年は「ハッ!」として、彼女の方に目をやった。彼女は、やさしげに笑っていた。たぶん、自分の持っている一番かわいい服を着て、彼との約束もきちんと守ってくれたのである。彼女は朝の光が頬にあたっているせいか、普段よりもずっと美しく見えた。


 少年は、その姿に息を飲んだ。


「おは、よう」


 彼女の返事も、ぎこちなかった。


「お、おはよう」


 二人はたがいの顔をしばらく見あったが、みょうな気恥ずかしさを感じたらしく、少女から順に視線をそらしてあってしまった。


 少女はうつむいたまま、目の前の少年にきいた。


「あ、あの?」


「な、なに?」


「『話したいこと』ってなに?」


 思考停止。「それは」の返事も、うまくいえない。


 少年は自分の頭を何とか動かそうとしたが……もう、やめよう。変に背伸びした告白も、無理に着かざった言葉も。そんなものは、自分の想いに対する冒涜ぼうとくでしかない。

 

 少年は、彼女にもっとも単純な想いを打ちあけた。


「おれは、きみが好きです。だから、おれと付きあってください」


 少女は、その告白におしだまった。十秒、二十秒、三十秒と。その沈黙をつづけては、告白の返事を必死に考えているようだった。

 

 少年は、彼女の返事をじっと待った。

 

 彼女の返事はただ一言、「夢みたい」だった。それ以外の言葉は、何もいわない。少年が「そ、それは、どういうこと?」ときいても、うれしそうに笑うだけで、「夢みたい」の意味をまったく教えようとしなかった。

 

 少女は、公園の空気を吸った。


「いい匂い」


 少年は、その言葉に不満をおぼえた。確かにいい匂いかもしれないが、いまの彼がききたいのは、そんな言葉ではない。「告白の返事は、どうなのか?」という事だった。それが分からなければ、心のモヤモヤがいつまでもつづいてしまう。


 少年は真剣な顔で、少女の顔を見つめた。


「ヒントは?」


「ヒント?」


「そう、返事のヒント。それがなきゃ、いまの答えが分からない」


 少女はその言葉にイタズラっぽく笑ったが、やがて「それはね」といいはじめた。


「朝の匂いは、恋の色」


「それがヒント?」


「うん。その詩はね、『わたしも、あなたが好き』って意味なんだ」

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