抜け殻と亡骸

真花

抜け殻と亡骸

 少年の頃、蝉の抜け殻を集めたのに、夏を終えた亡骸を集めなかったのは何故なのだろう。

 病に飼い慣らされた訳でも仕事に追い詰められた訳でも、離婚したとか生活に行き詰まった訳でもない。恐らく、普通に、ごく普通にこのまま脱線することもなく、自分で組み立てた毎日を淡々と繰り返していけば、安穏に老人になれる。老人になればその内に死ぬだろう。きっと死後のことまで家族に迷惑のかからないように準備して、きちんと終える。生存が単なる死の予備動作のようにすら感じる。


 砂浜で一人、海をじっと見ていた。遠くから蝉の声が、ツクツクホーシと聞こえていた。海岸線が少しずつ移動して、太陽が同じくらい緩慢に巡って、人が右に左に来たり来なかったり。

 反乱は波風の立たぬようなささやかさで、誰にも迷惑をかけないように仕事の区切りをつけ、恐らく戻る自分を予測して、水曜日に有給を一日取った。朝から電車に乗ってラッシュと反対方向に海岸を目指した。

 特に縁がある場所ではない。

 会いたい人がそこに居る訳でもない。

 ただ、海岸があると言う知識に基づいて向かっただけだ。

 自由とか喜びとかがもしかしたらあるかも知れないと期待したけど、砂の上に着いたときにそんなものは存在しなかった。

 遠くから蝉の声が聞こえて、聞こえる位置だったから、その場に、砂の上に、座った。

 日がな一日海を見ていた。

 あらゆる懸念は手を打って来てある。だから懸念について考えることはすぐに終わった。

 取り巻く環境への関心も次いで失われた。

 精神の開放は待っても来なくて、いずれ諦めた。

「何のためにここに居るのだろう」

 呟いた声を掻き消したのは、風だろうか、波だろうか、蝉だろうか。

「何のために生きているのだろう」

 漏れ出た声が消えずに、自らに反響する。答えがないのではなく、失っているのだと自分で分かっている。

「飽きちゃったんだ。全部」

 吐いた言葉が自分を的確に表現していて、残念になる。勇気ある人はどちらかに行動を起こすのだろう。活動か、死かを実行するのだ。でも、俺はしない。現状を打破する勇気も胆力も、既に擦り減らし過ぎて、つやつやのまん丸になってしまっている。生存のレールを転がるためには最上の形だ。自分で彫り込んだんだ。それで飽きたと言っているのだ。これ以上の自業自得はないだろう。残念だ。

「俺は抜け殻なんだ。もう、俺の本体はどこかに行ってしまった」

「バカじゃないの。あなた自身が本体に決まってるじゃない」

 独白に急に応答されて、全身にビクッと激震が走る。咄嗟に声の方を見る。

 若い、女。成人はしているよう。麦わら帽子。

 俺は再び正面を、海の方を向く。

「俺は抜け殻だ。人生の身の部分を失っている」

「殻がこんなところで黄昏れないでしょ」

「失ったものは失っている」

「失ったかも知れないけど、それはあなたの部分であって、本体はここにある方。喋っている方が本体」

「放って置いてくれよ」

「ダメだね。ねえ、蝉の抜け殻と成虫の亡骸を横に並べるでしょ、十五センチ離して並べるの」

「……それで?」

「抜け殻に至るまでが潜伏している人生。抜け殻から亡骸までが人生。亡骸から後は、知らない」

「さっき君は俺は抜け殻じゃなくて本体だって言った」

 女はくすっと笑う。

「あなたは抜け殻から抜けた方なの。子供が蝉の抜け殻を集めるのは、木にくっついているから。それは生の残存を抜け殻に見るから。亡骸に興味がないのは、そこにはもう生がないから」

「俺は生きていると?」

 女は頷く。

「そうよ。切なくも生きている。亡骸になるために、それも綺麗な亡骸になるために声を張り上げている訳じゃない。死ぬときは汚くて結構」

 言葉が返せない。俺は。俺は。綺麗な亡骸になるために生きているのを許容している。人生のゴールを設定している。そこに向かって帰納的に人生を演算して、今日を毎日消化して。その日々に、飽きたと、今ここに居る。

 自分が自分に課したシステムが、いかにもケチでチンケなものに思えて来た。自分ではない何かのためという言い訳が合理化させていたけれども、実のところは自分で自分を去勢することで、長い長い死へのカウントダウンを無感情に進めることを成立させていたのだ。

「どうあっても、今の俺の状態は、俺のせいだってことだ」

「そうよ」

「選べばいいんだろう? このまま諦観の世界で生きるか、死ぬか」

「バカじゃないの!?」

 急な大声に再び体が跳ね上がる。

「何で……?」

「羽化する道を選択肢から外している」

「羽化?」

「どうして脱皮は一回だと決めつける? あなたの抜け殻がもう一個あってもいいでしょ?」

「変化して、生きる」

「そうよ」

「それは出来ないよ。全てガチガチに固められている」

「やっぱりバカね。固めているのは自分でしょ? 多少時間がかかっても壊していけばいいじゃない。まさか、一日で全部がひっくり返るとでも思っていたの? 綺麗な破壊は綺麗な亡骸よりもずっと難しい。脱皮と言うのはそう言うもの。亡骸は次のことなんて知らないでいいの。でも、脱皮は次のことを考えなくてはならない。そうでしょ?」

 反論出来ない。徐々に説得されて来ているよう。彼女の言う通り、綺麗な破壊を行うのは難易度が高いのだと思う。それは破壊するものと、大切に関係を保つものを仕分けて、大切と認定したものを決して壊さずに、不要なものを壊してゆく。それに加えて自分のやりたいことを探して、それを始める準備を重ねて、実行する。工程が多い。

「飽きた世界から、自分が燃える世界に作り替えるってことか」

「そうよ」

「力がかなり必要」

「間違いなくそう」

「どうすれば出来る?」

「脱皮の意志を、亡骸になんて向かわないぞと言う意志を持つ以外は、自分で考えて、調べて」

「そっか。自分の脱皮だから、自分でしないといけないのか」

 女が薄く笑う気配。

「ちょっと分かって来たね」

「力がないのなら、安定の方で生存して亡骸になり、力があるのなら、亡骸になることなんて考えないで、生きるために脱皮する。そう言うことだ」

「力の有無は、私は評価は出来ないけど、力の使い方はそれでいい」

「抜け殻と亡骸の間に、もう一つ抜け殻を置くなら、あなたは殻だなんてもう言えないでしょ?」

「そうだね」

「きっと羽化した日には、これまでは長い長い人生以前をやっていた、そう言うわ」

「そっか。だから、俺は飽き飽きしているのか。まだ地上にすら出ていない抜け殻の一つも作っていないのかも知れない」

「かもね」

 女がもう一度笑った気がした。俺は暫く海を見ながら彼女とのやり取りを反芻して、やはり同じ結論に至ったことを伝えようと振り向いたら、彼女は居なかった。居なくても、俺はもう一人で進めそうだ。

「お姉さん、ありがとう」

 海に向かって呟いて、起き上がった。

 海の家で訊いてみると、毎年蝉の声が響く間だけ、一人者の客に話しかける女性がいるらしい。正体不明で、単に物好きの女子なのか、ここの近くで亡骸になった女性なのか、蝉の化身の女なのか、全く分からない。そのどれであってもいい。俺は彼女を理由に何かをすることはしない。俺は俺のために羽化をするから。



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

抜け殻と亡骸 真花 @kawapsyc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ