カスタード・クリーム泥棒の謎

濱村史生

The Casebook of Custard Cream's Missing

〈一〉


 その時、僕は、『魔女の隠れ里』のことを思い出していた。

 はやみねかおるの、夢水ゆめみず清志郎きよしろうシリーズの中の一冊である。

 一度読んだきりなので内容はおぼろげだが、死体隠しゲームのことだけ、やけに印象に残っているのだ。あなたが殺人犯だったら死体をどこに隠すか、という質問への回答の中で、深い谷底が選択肢のひとつとして存在していた。


 死体を隠せるほどの大きさじゃあないが、今まさに、僕、殿山とのやま信太郎しんたろうの目の前にも谷があった。


 今日日きょうび珍しくもきっちり分けられた七三ヘアがトレードマークの、王寺おうじ頼史よりちかの眉間に。深い深い、谷が。



「不味いの?」


 王寺は口に突っ込んだアップルパイをさらにもう一口頬張ることで、僕への問いに答えた。僕は灰色の脳細胞を使って考える。不味ければそこで食べるのをやめているはずだから、答えはノーだろう。


 大袈裟に安堵の意を吐息と肩の上下運動で示してから、僕はアルミホイルに包まれたアップルパイを手に取った。手のひらサイズの四角形は、恐らく持ち帰りを考慮したが故だろう。だけどそれでも十分、口許に運ぶとシナモンのいい香りが鼻をとおって脳に達し、僕の身体に「おいしい時間」の予鈴を鳴らす。つい喉が鳴った。

 一口含むと、パイ生地がサクリ、と音を立てた。焼き立てではないものの、わずかに上唇に張り付くパリパリの感触。気にせず噛むと、わずかに歯ごたえを残した林檎が、まるで霜柱を踏んだときのように声を上げる。

 甘いのに、ちょっぴり酸っぱい。はちみつとレモン。素朴な味だ。手作りが為せる業だろう。僕は口の中を空にしてから、上唇にひっついたままのパイ生地を舐めとり、王寺の言葉を待った。


「……正直なところ美味いことに驚いている」

ほまれがいたら殴られるよ」

「いないから言っている」

「なるほど」


 合点がいって、またもう一口食べ進める。周りを気にする必要は、特にない。ティッシュを机の上に広げて、なるべく生地が落ちないようにだけ気をつけた。


 昼休み。二階建ての新設図書館が敷地内に存在するわが舟堂西せんどうにし高等学校において、僕たちが今いる図書館を利用する者なんて早々いない。特に仕事が溜まっているわけでもないから、僕ら旧図書館委員会キュートは、図書館内を見渡せるガラス張りの司書室に引っ込んだ。

 そして、中学に引き続き高校でもクラスメイトになってしまった愛すべき腐れ縁、日下部くさかべ誉が、調理実習で作ったというアップルパイ。僕が持ってきたこれを、王寺と二人で食していたわけだ。


 王寺は文庫本を片手に、そして僕も今日は珍しく、図書館にあった本を借りた。秋吉あきよし理香子りかこの『暗黒女子』。気になっていたのだ。


 感情表現をいささか怒に傾けがちの誉がいない分、この場は平和だ。特に誉は素直じゃないから、褒めても貶しても「うるっさいわよ黙ってて!」と雷が落ちる。そのくせよくこの場所にやってくるのは盛大な矛盾と思わなくもないが、女の子って生き物は、だいたいが矛盾で出来ていると、僕は知っている。



 だからこそ、不思議だった。



 少なくとも平和だと断言できる今この瞬間、王寺の眉間に、ここまで深い皺が寄っていることが。

 いたってまっさらな自分の眉間を叩いて示してやると、王寺は食べかけのアップルパイを一度置いて、ぐりぐりと人差し指で皺をならしにかかる。


「体調でも悪いの?」

「特にそういうわけじゃあない」

「じゃあなんで? おまえ別に甘いもん嫌いじゃないじゃん」

「ああ」

「っていうか大好きじゃん」

「なんで言い換えたんだ」

「そっちの方が可愛いかと思って」

「……お前が?」

「王寺が」


 人差し指を当てっぱなしだというのに、再び皺が寄ったのを見て僕は笑った。

 食べかけのアップルパイを前に腕を組む姿は、何か考え込んでいるように見えた。

キュートとしてそれなりの期間を共に過ごすなか、王寺は幾つもの不思議な事件を解決に導く、いわば名探偵のような存在だった。さしずめ此処は舟堂西高校におけるベイカー街221B。

 そんなキュートのホームズを悩ませる謎とは、はたして?


「で。さっきからなんでそんな妙な顔してんの?」

「妙」

「妙だろ。甘いものも好物なわけだし不味くない、体調が悪いわけでもない。なのにそんな顔してる理由は?」

「待て。答える前にひとつ聞きたい」

「何」

「俺はどんな顔をしてるんだ?」


 僕は一瞬考えた。


「怪盗に大事なものでも盗まれたような顔」


 すると、王寺はため息を漏らした。

 ため息というのとは、すこし、違うかもしれない。それは文字として表記するならば「ああ」であり、どちらかといえば今まで気づかなかった事に思い至ったかのような、みるみる内に退く雲によりご開帳された太陽のような晴れやかさがあった。


「正解だ」

「は?」

「だから、お前の言っていることが合っていると言っている」


 王寺はメタルフレームの眼鏡を持ち上げる。

 気がつくと、王寺の眉間から、皺が消えていた。


「これは事件だ、殿山。――俺のカスタード・クリームが、盗まれた」




〈二〉


 調理実習の案内を受けたのは、一週間前の月曜日。オーブンの扱いに慣れるとかなんだとかで、各班オーブンを使った菓子ならなんでもいいというお題だった。誉にしては珍しく、和洋中問わず甘味にうるさい王寺の意見に耳を傾けることにしたらしい。


 普段は冷静沈着、表情も然程変化のない男だが、好きなものに傾ける情熱がないわけじゃない。王寺は水を得た魚のように、誉にアップルパイにおけるカスタード・クリームの重要性について熱弁したという。僕はちょうど日直の日で遅れて行ったため初耳だったが、心底日直でよかったと安堵した。


 既にその時には班の中で誰が何を持ってくる、という使命も割り振られた後だったから、卵や牛乳、砂糖や薄力粉など、カスタードクリームの材料も新たに割り振った。かくして、誉の班は、カスタード・クリームの入ったアップルパイを作ることに決まったのだ。



 だから、今日ここにあるアップルパイには、――というのが、王寺の言い分である。



「なのに、このアップルパイにはカスタード・クリームが入っていない」

「はあ……」

「なんだその気の抜けた返事は。これは由々しき事態だぞ!」

「単に忘れたか失敗したっていう選択肢がおまえの頭に浮かんでない方がおれ的には由々しき事態だと思うよ」

「フン」と鼻を鳴らしてから、「その可能性は存在しない」と王寺は言い切った。


 当然のごとく、僕に浮かぶのは「なんで?」の疑問詞だ。


「あの女のプライドの高さを知っているだろ」


 僕は疑問符を押しのけて現れた、誉の顔を思い浮かべる。真っ赤なヘアピンでおでこを晒しているのは、癖の強すぎる天然パーマがこと前髪になると言う事を聞かないから、というのが理由だといつか不機嫌そうに語っていた。そういえば、記憶の中の誉は、いつも不機嫌そうな顔をしているな。


「まあ。プライド高いっつーか、負けず嫌いというか……」

「そう。あいつは負けず嫌いで完璧主義者だ。自分以外の誰かが材料を忘れて作れなかった場合なら、言い訳のように俺にまず言うはずだし、忘れたのが自分の場合、もしくは作るのに失敗した場合は、そもそも俺に食わせない」

「……あげるって約束したわけじゃないの?」

「あげてやってもいいと言われたし、俺ももらってやってもいいとは言ったが、確約はしていない」

「めんどくさいなおまえら」


 一気にやる気を失って、温度の下がった紅茶を呷る。


「お前が食べた方には入っていなかったのか」

「カスタード? ないよ」

「味は」

「普通のアップルパイだよ。なに、王寺のやつ、そんなヘンなもん入ってたの?」


 僕が尋ねると、王寺はアルミホイルごと、食べかけのアップルパイをくるりと反転させた。


 真っ先に目に入ったのは、くれないの色だった。一瞬林檎の皮かと疑ったものの、丸っこい形状から、もしかして、と思いが至るのにそう時間はかからない。


「……さくらんぼ?」

「ああ」と、王寺は頷く。

「ベースはアップルパイ。ただ、一粒だけ入っている。洋酒の香りと、クリームが無いから覗き込んだらこれだったんだ」

「さっきから思ってたけど、おまえまじで甘味になると細かいよな……」


 わざわざ覗き込んだのかよ。と言外に告げてみるものの、眼鏡を押し上げる王寺はどこ吹く風だ。まあ普段から僕どころか他人の言う事を然程気にしている様子もないし、それよりは約束事が違えられたという事実の方が気に掛かるのだろう。


 確かに、王寺が気に掛かる理由は僕だって分かる。誉は女の子の中でも矛盾が多い方だが、約束事を無断で破るような人間ではない。おまけにどんなにぷりぷりしていようが、その本質はお人好しだ。たとえ明確な約束を取り交わしていなくとも、誉は王寺のリクエストを聞き入れ、実際に作ったはずだ。



 ならば、そのカスタード・クリーム入りのアップルパイはどこに消えたのだろう?



 一瞬落とした顔を持ち上げると、片手に開きっぱなしの文庫本をぶら下げながら、腕を組んでいる王寺と目が合った。


「そういえば、お前は何を作ったんだ?」

「え?」

「同じクラスだろう。でこっぱちと」

「ああ……うん」


 まずい。思わず視線が逃げてしまった。項に手をやって誤魔化してはみるものの、こめかみに刺さる王寺の目が痛い。


「…………なるほど」


 自慢じゃあないが、僕は嘘が得意な方だ。特に何もなくても笑えるし、有益な嘘なら躊躇なく吐くようにしている。自分を守るため。誰かを守るため。傷つけないため。それらは全て、悪ではなく仕方のない事だというのが僕の主張だからだ。


 けれど、王寺にだけは嘘が吐けない。なぜか? その答えは簡単だ。



「殿山。―――お前が、カスタード・クリーム泥棒の犯人か」



 王寺には、吐いたところで




〈三〉


「なんでおれが犯人だって思うわけ?」


 名探偵もののアニメやドラマで、真犯人がよくやるように、僕は努めて平静な表情を浮かべていた。


「ならお前は何故でこっぱちと同じ班だって事を隠してたんだ」

「特に言う事でもないだろ」

「ああ。だけどと、は別だ」


 仕方がない。短い息を吐いて、どうぞ続けて、の意を示すかのように肩を竦める。


「そもそも別の班だったなら、自分が作った菓子を持って来ている筈だ」

「ヤロー相手に? おれが? やめろよ、素直に気色が悪いぞ」

「そういう意味じゃない。お前は特別甘い物が好きという訳じゃないだろう。おまけに自分で作った物にそこまで思い入れを見出すとも思えない。かといって家族や友人に渡すような可愛げのある性格をしている訳でもない。体よく消費させるなら、そう考えた時に、格好の相手がここにいる事を、お前が気付かない筈がない」


 自分で言い切って恥ずかしくないのだろうか。ないんだろうな。


 王寺は魔法瓶から紅茶を注いで一息吐くと、食べかけのアップルパイに視線を落とした。


「だから、がそうなんだろう。お前とでこっぱちの班が作ったもので、お前の取り分だったものだ。いや、日下部の分もあるんじゃないか。あの女の事だから、お前に一つやるとか言って押し付けたんだろう」


 もっともらしい仮説に思わず笑いそうになるが、抑える。


「ちょっと待てよ。その口振りだとおまえも調理実習済ませたんだよな? なら知ってんじゃないの。別にアップルパイを作った班が複数あってもいいんだって事」

「ああ。だが、俺の食べた分とお前の食べた分は同じ班じゃなきゃありえない」

「なんでだよ」


 そこで王寺の目線は、アップルパイから他所に移る。その視線を追い駆けて、ある一点に辿り着いた時、僕はまだ気が付いていなかった。


「お前が読んでいた『暗黒女子』。さっき借りたばかりだろ」

「……ああ。ちょっと気になって」

「なぜ気になったか教えてやろうか。それは、この小説とアップルパイに、共通する要素があるからだ」


 沈黙を肯定と受け取ったのだろう。王寺は続けた。



「――だろう」



 常々、名探偵ものの漫画やドラマを見る度不思議だった。どうして犯人は、正体が割れた途端に笑いだすんだろう、と。


 だけど今なら分かる。


 犯人は、謎が解かれないか怯えている一方で、誰よりもその謎を解かれる事を願っている人間なのだ。だから解放感から、嬉しさから、単純なる悦びで笑いが零れる。



 この瞬間の、僕と同じように。



 一頻り肩を震わせて笑い終えた後で、ようやく落とせた第一声は「降参」だった。言葉通り、両手を挙げて武器のない事をも証明してみせる。元々持ってないけどね。



「バレる前におれの分は食べ切ったのに、よく分かったね」

「お前の回答で不自然な点があったからな」

「どこ?」

「味は、と聞いたのに、お前は『そんなにヘンなもん入ってたの?』と聞き返してきただろう。元々妙なものを入れている奴じゃなきゃその質問は出てこない」

「なるほど。つまんないミスしちゃったな、おれも」

「ちなみにお前の方には何が入っていたんだ?」

「はちみつレモン。確かサッカー部のマネジの案かな」

「それも美味そうだな」

「まじで見境ないな」


 慣れない犯人の立場に渇いた喉を潤そうと茶を流し込む。その間に掛けられた「闇鍋はお前の発案か?」の問いには、僅かに首を横に振る事で答えとした。


「誉からカスタード足す連絡が来た時にさ、同じ班のやつが、いっそ他にも材料足しても面白そう、って言い出したんだよね。おれは闇鍋みたいだなと思ったけど、女子がフォーチュンクッキーみたいでいいねって乗り気になっちゃってさ。まあ王寺にとってはアンフォーチュンだったわけだけど……」

「そうか? 種が知れれば悪くない」


 王寺はさくらんぼが一つ入ったアップルパイを食べ進めた。律儀に耐えていたのは一応証拠品だからだろうか。僕は笑った。

 何度か口を動かした後、「そういえば」とふがふが言う声がする。視線を持ち上げて、茶を進めてから続きを促した。


「じゃあ、カスタード・クリーム入りのパイは一体どこにあるんだ?」

「あ~…………」



 ――さて。実のところ、僕は、王寺に伝えていない事実が幾つかある。



 まず、今回の事件は、ひとえにある少女の感情から始まったという事。

 それから、闇鍋の案を出したはその心を知っていたから、不審な声が上がる前に提案をしたという事。

 そして何より、電子レンジで作ったカスタード・クリームをたっぷり入れたアップルパイが、今この時間、可愛いラッピングによって彩られ、放課後この男の前に現れるだろうという事。



 その瞬間を見ないがため、あと数分後、僕は腹を抱えて倒れ込むつもりだという事。


 真実死体は全て、深い深いパイの谷の中に。



    〈了〉

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