水の音
白木奏
水の音
ひたひたと、かすかな音がする。
何の音だろう、と足を止めたマシロはあたりを見回した。
早朝の通学路は人もまばらで、からりと晴れ渡った空から降り注がれる日差しはほんのり温かい。
気のせいか、とマシロは通学カバンを右手に持ち替え、再び歩き出した。
ひたひた。
ひたひた。
また音がする。
きっと、どこかの家の蛇口から水が漏れているんだわ。
マシロは自分に言い聞かせながら足をはやめた。
しかし、音はまるで追いかけてくるようにどんどん大きくなり――
「マシロ、おはよう!」
はっと顔を上げると、あかりがいつもの待ち合わせ場所で自分に手を振っていた。
「お、おはよう、あかり」
マシロは縋りつくように小走りで近づき、ひざに手をついて息を吐きだした。
「どうしたの?走ってくるなんて」
もしかして、私に早く会いたかったの、とにやついた顔でからかってくるあかりに、マシロはすっかり毒気を抜かれた。何か追ってきてない、と聞きかけた自分が恥ずかしくて、マシロは慌てて取り繕う。
「でかい蜂が、飛んできて……」
「えっ、まじ!?」
あかりまで焦って見回し、あの一度怒らせると厄介な昆虫が近くにいないことを確認し、胸をなでおろす。
「じゃ、いこうっか」
あかりの声に頷いて、肩を並んで歩きだす。宿題のことやテレビ番組の話をしていると、やっぱり水の音なんて気のせいだったのか、とマシロは思った。
学校にいる時間は、いつもあっという間に過ぎていく。
校門前であかりを待つマシロは通学路を目にすると、また今朝のことを思い出した。一人でいると、余計心細い。
校舎から出てくるあかりの姿が見え、隣には同じクラスのアキオもいる。
「明日土曜だしさ、みんなでカラオケいかね?」
「う――ん、ごめん、パス」
声がかすかに聞こえてくる。あかりは週三の部活以外の日は、必ずマシロと一緒に帰る。
「いいの?断っちゃって」
アキオと別れ、まっすぐマシロのほうに来たあかりに聞いた。
「いいの、あんま気が乗らないからさ」
あかりは曖昧に笑って、手を振った。
(振った男子と一緒にカラオケ行くのが気まずいのかな……)
「アキオくんにこくられてふったのって本当?」
マシロの質問にギクッとなったあかりは声が裏返った。
「なんであんたまで知ってんの!?」
マシロは噂に鈍い子で、私の最後の防衛線兼砦なのにいぃ、とショックを受けるあかりに、言葉の使い方が変よ、とマシロは軽く噴き出した。
あかりはモテる。特別美人でも、愛嬌がある訳でもないが、腫れ物には触らないスタンスを通す多くの人と違って、ふさぎ込んでる人を見つけては突っ込んでいくタイプだ。上辺だけの心配じゃなく、邪険にされてもめげすに手を伸ばすまっすぐさ。そこに惹かれる人は多いし、マシロもそれに救われた一人だった。
「アキオくんもいい人そうだけどね」
「アキオの味方をするなんて、この裏切り者っ」
じゃれあいながら通学路を一緒に歩く。マシロはこの時間が一番好きだ。いつかお礼が言えたらいいなぁ、と思ったその瞬間――
ぽたり。
水滴の落ちる音がした。
「どうしたの」
急に立ち止まったマシロを、あかりが振り返る。
息を深く吸って、気持ちを落ち着かせる。耳の奥にどくどくと血の流れる音が大きく響く。
「……なんでもない」
見え透いた嘘は、あかりを騙せない。
目をそらしたマシロの手を、あかりはぎゅっと握る。
「家に帰りたくないなら、うち来る?」
あかりの悲しそうな表情を見て、マシロはしばたたいた。錯覚かもしれない音なんかより、ずっと嫌なことを思い出した。
マシロの父親は酒に酔うと暴れる人間で、家の恥を晒したがらない母親は暴力を振るわれてもひたすら我慢した。しかしリストラされた父親の暴行は、日に日にエスカレートしていき、妻だけでなく、娘のマシロにも手をあげた。
それに気づいたのはあかりで、怒ってくれたのもあかりだった。先生に知らせたものの、「目立った外傷はないし、大ごとにしなくても」と対応を渋られた。マシロ自身も大丈夫だと言い張ったため、結局うやむやになった。
それでもあかりはそばについててくれた。マシロを気にかけ、ことあるごとに心配してくれた。
「なんかあったらうちに来な、私が守ってあげるわ」
もはや口癖みたいになったそのセリフを聞き、マシロは冷えた指先が少し暖かくなるのを感じた。
「父は……今朝機嫌良さそうだったから、大丈夫だと思うわ」
あかりの手を一度強く握り返し、はなした。
朝は、別に強いわけじゃない。
通学路に立つマシロはぼんやり思う。
ただ、あんまり家にいたくないし。早くあかりに会いたいし。
そう思って、足を踏み出す。
ひたひた。
また小さな音が聞こえ、マシロはカバンを持つ手を強く握り締めた。
振り返りたいのに、振り返れない。
通学路に必ず聞こえてくる音は、何日続いているのか分からない。日を追うごとに鮮明になる音は、追い立てるようにマシロに迫ってくる。
意識から音を締め出そうと気を張っていたら、曲がり角で危うく自転車にぶつかるところだった。
「だからすぐ着くって、あと五分っ、いや三分で!」
片手に持っているスマホに怒鳴りつけながら、運転者は尻もちをついたマシロなど顧みる暇もなく去っていった。
半歩遅れた冷汗がどっと出て、驚きすぎて逆に笑いが込み上げてきた。
「ながらスマホ……もう勘弁してよ、幽霊よりも人に殺される方がずっとリアリティあって怖いじゃん」
(そうよ、人の気配があちこちにある朝に、変なものが出るわけないでしょう)
勇気づけられたマシロは、立ち上がりながら後ろを振り返った。
小さな水たまりが見えた。点々と、まるで足跡のような間隔を空け、来た道に続いている。
ぴたん。
水の膜を隔てて聞こえてくるような音は、とうとう何かを突き破ったように、はっきりと耳元に響いた。
マシロはのどまで出かかった悲鳴を飲み込み、走り出した。
『耳を塞いでも無音にはならないって知ってる?筋肉の動きや、血液が流れる音が聞こえてくるの。思った以上に大きな音でさ、びっくりするよ』
いつかあかりが、得意げに披露したどうでもいい豆知識を思い出し、マシロは試しに両耳を塞いでみる。
耳の奥から音が響く。ひたひた。どくどく。ごうごう。
「そりゃ、人間は七割は水でできてるもんね……」
一人で納得する。
しばらく鉛色の雲に遮られ、濁った黄色の光を放つ夕日をぼんやり見つめ、マシロはまた視線を通学路に戻した。
(もし今日の帰り道も音がしたら、あかりに相談しよう)
「……なんでみんなに何も言わずにやめたんだ」
「別に、ただやめたくなったからやめただけ」
あかりの声が聞こえて視線を向けると、アキオを含む数人のクラスメイトがこわばった顔であかりと何か話していた。
「部のみんなも心配してるから、悩みがあるなら私たち聞くよ……」
あかりに気を使って、恐る恐る話しかける子もいた。
「ありがとう。自分勝手なのは分かってるけど、見のがして」
マシロのほうからはあかりの表情は見えなかったが、あかりを引き止めずにいるクラスメイト達の表情はよく見えた。
「部活、やめたの」
二人きりの帰り道に、マシロは聞く。
「うん。なんかこう、やる気がなくなった、みたいな」
あかりはちょっと大げさに肩をすくめて見せたが、声にハリがなかった。
あかりは最近少しやせた――というより、やつれた――ようにみえる。クラスメイト達とあまり話さなくなり、たまに思い詰めたような表情をする。まるで他人との間に境界線を引き、距離を置こうとしているようだ。マシロだけは線のこちら側にいて、そのことはマシロを嬉しくも、不安にもさせた。
通学路に後ろからついてくるものの相談はためらわれた。
(あんまり甘えちゃあ、だめだよね)
「なんか、雨降りそうだ天気だね」
隣を歩くあかりは目をすがめ、どんよりした空を見上げた。
「……雨は、いやだな」
寒気が足元から這い上がってきたような感覚に、マシロは思わず身震いした。
(雨が降ったら、あの水たまりに追いつかれてしまうかもしれない)
もっと嫌な想像をしてしまった。
(私が追い付かれたら……いつも一緒にいるあかりはどうなるの……?)
頭の芯まで、一気に冷えていく気がした。
「マシロ」
呼びかける声にはっと我に返り、心配そうなあかりの顔が目に映った。
マシロが辛い目に遭った時、あかりはいつも怒ったり、悲しんだりしてくれた。
「あかりも」
マシロは思わず口をひらいた。
「あかりも、つらいことがあったら言ってね」
あかりは僅かに目を見張ってから俯き、いつものように手をぎゅっと握ってくれた。
「うん、そうする」
通学路、振り返るとそこにいる。
ひたひたと、音が追いかけてくる。
でも振り払うように駆け抜ければ、あかりの待つところまでたどり着ける。
追いつかれてたまるものか。
まだ大丈夫。
まだ大丈夫。
この日も、あかりとマシロは一緒に下校した。
まだ学校からそう離れていないところに、二人の歩く歩道を遮るように立っている人がいた。
「そのまま家に帰るのか」
待ち構えるアキオはあかりをじっと見つめ、あかりも負けじとにらみ返した。
「だからなにっ」
「すげえクマできてる。自覚ないのかよ」
一つため息をついたアキオは、少し苛立ちながらも懸命に言葉を選んだ。
「みんな、心配してるからさ。あかり最近変に痩せてくし、話しかけても上の空だし……一人で思い詰めずにさ、もっと俺たちを頼れよ」
自分がこの場にいていいのか、とマシロは少し迷った。
「いこう、マシロ」
あかりは低くつぶやき、マシロの腕を掴んで、アキオの側を通ろうとした。
「やっぱりおまえ、変だよ」
眉をひそめたアキオはあかりの肩を掴み、引き留めようとした。
「関係ないと言ってるでしょうっ!?」
あかりは声を荒げ、アキオの手を振り払った。
「ねえ、あかり……アキオが本気で心配してるみたいだから、話だけでも……」
腕を掴む手から震えが伝わり、マシロはおずおずと言った。
「こんなやつに話すことはないわ。私はマシロとっ」
「いつまでもマシロマシロって……」
アキオはやり場のない怒りをぶつけるように、歩道側の柵を蹴り上げた。
「マシロは、一か月も前に川に落っこちて死んだんだろっ!いい加減現実見ろよ!」
マシロは目を見開いた。
ひたひた。
ぴたん。ぴたん。
聞こえてくる水音にゆっくり振り向き、水の跡を目で追いかける。
水たまりは、点々と足元まで続き、自分の裾から滴り落ちる水滴で少しずつ広がっていった。
その夜も、ひどく酔った父親が母親に拳を上げた。鼻血で口元が赤に染まった母はマシロを引きずって、玄関の外まで押し出した。
大雨が耳をつんざく勢いで降り続け、ドアで隔てられた両親の声がよどんで、ひどく不確かなものとなった。
『何かあったらうちに来な。私が守ってあげるわ』
あかりの言葉が耳によみがえり、ぎゅっと固まっていたものがすこしほぐれた気がした。
あかりの家に行こう。
びしょ濡れの服が体に張り付き、薄着の隙間から風が容赦なく切りつけてきても、不思議と寒くはなかった。
増水した川のあげる轟音を聞きながら、堤の上をひたひた歩くマシロは、黄色くかすむ街灯の光の向こうに、あかりの家が見える気がした。
心が浮ついたように妙にうれしくなって、カーブを描く道から一歩踏み外してしまった。
雨を吸って緩くなった土がぐにゃりとへこみ、靴を履いていないマシロはそのまま体勢を崩し、斜面を転がり落ちた。
守ってあげるって言ったのに、約束を守れなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。
ずっと泣くのを我慢していたんだな、とあかりの涙をぬぐおうと手を伸ばしても、すっと通り抜けてしまうだけだった。
(ずるいよ、自分が死んだって分かったとたんに触れられなくなるなんて)
マシロは、あかりに話しかける。
あかり、まだ私の声、聞こえてる?
自分が死んだのを忘れるなんて、間抜けにもほどがあるよ。思い出せずに、あかりを苦しめちゃってごめんね。
私はただ、あかりにお礼を言いたかったの。
あかりが待ってくれるから、毎日の通学路を歩くのが楽しかった。
あかりがそばにいてくれるから、学校にも居場所があって、楽しい思い出もいっぱいあった。
あかりが守ってあげるって言ってくれるから、私は頑張って生きようって思えた。
つらいこともあったけど、あかりにいっぱいいっぱい、うれしいやたのしいをもらった。
ずっと味方でいてくれて、ありがとう。
言葉がどんどん聞こえなくなり、あかりは必死にマシロの唇の動きを読もうとした。
音のない言葉を紡ぐマシロは最後に手を差し出し、そして少し困ったように首を傾げた。
あかりはつられたように泣き笑いを浮かべた。
「なーんだ。手を握るくらい、簡単なことだよ」
こぼれ落ちる水を手のひらで受け止めるように、軽く指をまげてくぼみを作り、お互いの手に合わせる。
きれいにはまった形が、涙でじんわりとぼやけた。
瞬きで再びクリアになった視界にはもうマシロの姿はなく、ただ橙色の夕日に染まった通学路が先へのびていた。
水の音 白木奏 @Shiraki_Kanade
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