第11話 見習い天使は抗議する

 人間界のとある街。季節はもうすぐ冬です。つるべ落としの夕陽が落ちると、すぐに夕闇が迫ってきます。

 この街の中心部から少し離れた高台は、緑豊かな閑静なたたずまいの住宅街です。その一角には大きな神社と、高台の最上段には高校があります。そして住宅街の真ん中にはシックなエントランスのおしゃれなマンションが建っていました。

 

 そのマンションの一室のリビングは、電気も消えていて、すっかり暗闇の中でした。レースのカーテンの向こうには、山際にだけほんのりと紅の暮照が残る秋の空は、すでに夜闇に大勢を占められています。

 闇に沈んだリビングに、玄関のシリンダー錠を開ける音が響きます。かすかな壁のスイッチの音に遅れて、天井の照明がぱっと灯りました。普通のシーリングライトの照明とは違う、乳白色の靄がかかったソフトな光です。


「ふう。やっぱり天上界ダウンライトの光は違いますねー。癒されますー。『天上界特製 ポップアップきらりんダウンライト』は偉大ですー。今日は朝からいろいろあって、なんだかくたびれちゃいましたよー。まあ、人間界のおひさまの光も、ユア好きですけどねー。なんか懐かしい感じがしますし」


 この部屋の主であるユアが戻ってきました。ユアは、窓際のカーテンを閉めるとリビングの小さなソファにぽすんと腰掛けました。そして、仕事帰りのお父さんのような声でつぶやきます。


「いけませんね、天使のすみかに戻ってきただけでほっとしてるようでは。教官に聞かないといけないことがあるのに。でもその前に、とりあえず『天上界特製 旬のいちごたっぷりミルフィーユ』を食べちゃいましょう」


 ユアはキッチンの冷蔵庫からミルフィーユとオレンジジュースを持ってくると、再びソファに座り、テーブルの上のリモコンを取り出して操作しました。ボタンを押すとテレビ画面が明るくなり、通信中のロゴが出た後、天使学園の職員室が映ります。ユアは無人のデスクを映し出すテレビ画面に向かい、すうっと息を吸い込むと、せーのと勢いをつけて甲高い声をあげました。


「アリス―! いないんですかー!」


 ◇


 ちょうどそのころ、天上界の天使学園の教官室では、サイオンジ教官が大きなデスクで書き物をしているところでした。教官が熱心にパソコンのキーボードを叩いていると、ノックの音がしました。


「はい」

「教官、失礼します」


 扉が開くと、事務官兼秘書のアリスが立っていました。アリスは、丁寧にお辞儀をして教官室の中に入ってきます。


「やあ、アリス。遅くまで研修生のモニタリング、ご苦労さん」

「教官、珍しくデスクワークをなさっていたのですか。そういう書類仕事はたいてい私に丸投げされるのに」

「仕事ならアリスにやってもらうよ。その方が圧倒的に早くて正確だ。今打っているのは仕事ではない」

「あら、それでしたら、なにを熱心に打ってらしたのです? ……また怪しい指南書の原稿を書いておられるのですか?」

「怪しい指南書とか言わないでくれないかね。私は、見習い天使たちが人間界で戸惑わないように、ホットでタイムリーな人間界のガイド本を執筆してるだけだ」

「ホットでタイムリーなのは分かりますが、なにもJS女子小学生を騙って書くことないと思いますわ。しかも自分でカリスマJSと書いてしまうなんて、天使の風上にもおけませんね。見習い天使たちも、まさかこんなおっさんが書いているとは思わないでしょうに。それより教官、ユアから通信呼び出しコールリクエストが入っていますよ」


 アリスは手に持ったリモコンで、壁の大型テレビの電源を入れます。カチッと小さな音を立てて、画面には人間界の『天使のすみか』のリビングが映し出されました。その画面の中央、クリーム色のソファで、ミルフィーユを大口を開けて頬張っているユアがアップになっています。


「おお、ユア。どうだ、人間界は。順調にノミニーも見つかったようだな」


 ユアから見ると、突然画面が切り替わり、教官の顔がアップで映し出されたのでしょう。頬張ったミルフィーユで驚きのあまりむせています。あわててパックのオレンジジュースのストローをくわえるユアの姿が教官室の画面に広がります。


「んぐっ、もー、教官、さんざん待たせといて、いきなり大きな声で話しかけないでくださいよ! びっくりするじゃないですか!」


 画面の中のユアは激しくげほげほと息をつきました。


「で、どうしたのだ。淋しくなって天上界に戻って来たくなったか?」

「そんなわけないです! ケンとちいちゃんがいるから淋しくなんかちーっともありませんよ」


 ユアは画面いっぱいに頬を膨らませて抗議しています。


「ユアのバイタルメーターは正常値です。むしろ元気すぎるぐらいですね」


 アリスが手元のタブレットでユアのフィジカルデータをチェックして、教官に囁きます。それを聞いて教官は満足そうにうなづきました。


「そうか。それはよかった。たったの一週間で白旗上げられたら、学園としても不名誉だからな。それでなくても最近は実地研修でメンタルをやられてしまう見習い天使が多くて、困ってるんだよ」

「白旗なんかあげませんよー。それより、教官、実地研修地は除魔クリーンアップしてあるから小さい悪魔はほとんど出ない、っておっしゃってましたよね? わたし、ここ数日、毎日のように小さい悪魔を見かけて退治しているんですけど、それっていいんですか?」


 ユアの訴えを聞いて、サイオンジ教官の目がきらりと光りました。しかしそれを表情には出さずに、教官は努めて冷静な声で画面のユアに向かってゆっくりと話しかけます。


「ほう。小さい悪魔をたくさん見かけるのか。それはおかしいな。ちゃんと事前に除魔クリーンアップしたはずなのだが」

「ぜーったいできてないですー。それか除魔剤の濃度不足ですよー。わたし、こっち人間界に来てから毎日小さい悪魔を退治してるんですよ! このペースだとすぐに『めっちゃよく効く♡ 悪魔退治ころりんちょスプレー お買い得特大サイズ』を使い切っちゃいます」

「なくなればエンジェルフォンアプリで注文すればいいではないか。それよりもユア、よく聞きなさい」


 ふと威厳を取り戻した教官が、ゆったりとユアに言い聞かせます。


「ユア、悪魔は悪意ある人間の魂を食べて、満月の夜に分裂して、『悪魔の種』をまき散らしながら増殖していくのは知ってるよな?」

「知ってますー。いやというほど習いましたー。どんどん悪魔が増えていって収拾がつかなくなるのがイーヴィルパンデミックですー」

「そう。人間社会が相互不信で覆われてしまう事態は、天使が一番避けなければならない、と教えたな。それを防ぐために天使は存在していると言っても過言ではない」


 教官は画面の中のユアをみて語りかけます。ユアも「それも知ってますー」と頷きます。


除魔クリーンアップ済みのエリアに小悪魔が出てくるということは、つまり、ユアの周囲に悪魔に魂を食べられてしまった人間がいる、ということになるのだが、心当たりはないか?」

「えー、悪魔に魂を食べられちゃった人間は顔が黒くなるから、一目見れば分かるはずですー。でも、わたしの見た範囲でそんな人間は一人もいませんでしたよー」

「ほう。魂を食べられた人間はいないのか。だとすると他の原因だ。小さい悪魔が出てくる原因は、他にもあっただろ? 天使が極めて気が付きにくいヤツだ。それも教えたはずだが、覚えてないのか?」

「えー、そんなのありましたっけ? 教えてください! 早く退治しないと、イーヴィルパンデミックになっちゃいます!」

「それを回避するのが、見習い天使のキミに与えられた研修課題だ」

「えー、教えてくれないんですかー? 教官、ケチすぎますー」

「よく考えるのだ、ユア。なぜ悪魔が出るのか。何をすれば悪魔を退治できるのか。自力で解決しない限り本職の天使にはなれないぞ」

「ううう、分からないですー。教官、小さい悪魔は見つけたらすぐに発生源を元から絶たなければダメだって、授業で言ってたじゃないですかー。うわっ、満月の夜って明日じゃないですかー! 早く教えてくださいー!」

「ユア、発生源を特定するのも天使の仕事だ。ユア自身の手で発生源を見つけなければいけない。出てきた悪魔を退治するだけではダメなんだぞ」

「えー、ちょっと教官ー、冷たいですー!」

「いつまでも他のものをあてにしてるようではいかんぞ。がんばれ、ユア。キミならできる」

「……分かりましたー。がんばりますー」

「分かったらお風呂にでも入って、天上界ダウンライトをしっかり浴びて、今晩はゆっくり休みなさい」

「はーい。おやすみなさいですー」


 不満顔ながらも画面の向こうのユアはうなづきました。画面が暗転すると、待っていたかのようにアリスが口を開きます。


「教官、あんなこと言って大丈夫なんですか? もしもユアが発生源を見つけられなかったら、本当にイーヴィルパンデミックの心配しなくちゃならないじゃないですか」

「まあ、ユアのことだ。なんとかするだろう。もしも見つけられなかったり、見つけても発生源を討伐できなかったら……」

「どうなさるおつもりです?」

「アリスに人間界にひとっとびしてもらおうかな」


 アリスはため息まじりで答えます。


「やっぱり私に丸投げなんですね。どうせそんなことだろうと思ってましたけど」


 そしてアリスはリモコンを片付けながら続けました。


「教官」

「どうした?」

「ユアが見たという小さい悪魔というのは、もしかすると……」

「ああ、おそらく誰かが悪魔をのだろう。魂を食べられてしまった人間は、天使は簡単に判別できる。ユアの言うとおり、顔色が黒くなるからな。しかし、悪魔に悪意ある魂を自発的に差し出して食べさせる、つまり悪魔をとしたら、それは天使からは判別できない」

「それしか考えられませんが、普通の人間が悪魔を飼うなんてできるのでしょうか? 悪魔は人間からは見えないんですよ?」


 教官はデスクから立ち上がると、ゆったりとした足取りで窓際のロッカーに向かって歩いて行きます。そして、アリスに向かって講義を授けるかのように話をつづけました。


「アリスガワくん、人間の負の感情を甘く見てはいけない。ねたみ、ひがみ、恨み、羨望、そして破壊衝動。どこで誰が何に対して負の感情を持っているのか、それはなかなか外からでは分からないものだ。たいていの人間はそのような負の感情を恥ずべきものとして隠しているのだがな」


 教官の話にアリスはうなづきます。


「悪魔はそのような負の感情を人知れず食べて、大きくなりますね。それが悪魔に魂を食べられるというパターンです。でもその場合、被害を受けるのは魂を食べられた人だけです」

「そうだ、アリス。しかし、人間の中にはそのようなマイナスの感情を隠さずに、何らかの形にしてしまう人間がまれにいるのだよ。それを悪魔が偶然見つけてしまうと、魂でなくても格好のエサになる。無意識のうちに悪魔を飼ってしまうのだよ。これを天使が見つけ出すのは非常に困難だ」


 アリスは手を止めてじっと教官を見ます。教官はロッカーの扉をひらくと、中をごそごそとかき回し始めました。そのかがんだ背中に向かってアリスが答えます。


「そして、飼われた悪魔は満月の夜に分裂しながら『悪魔の種』をまき散らし、たくさんの人が被害を受ける、ということですね。ホント、厄介ですね」

「そう。悪魔は退治できるが、『悪魔の種』は空中に残って漂い続ける。人間には見えないから、吸い込んでしまっても気が付かない。これを吸い込んだりして体内に入ると、人間の感情が歪む。そして人間の感情の歪みはあらゆる災厄を引き起こす」


 ロッカーから「よいしょ」と教官が引っ張り出してきたのは、荷物のつまった黒革のドクターバッグでした。


「アリスガワくん、出張を手配してくれるか」

「行かれるのですか。人間界に」


 そして手早く上着を羽織るとドクターバッグを持って歩き出しました。


「さすがに見習い天使に任せておくのは危険すぎるだろう。悪魔は満月の夜に分裂して『悪魔の種』を拡散していく。分裂を繰り返して手に負えなくなる前に、なんとかしなければならない。手助けは最低限にしておきたいのだがな」

「……分かりました。一週間ぐらいでよろしいですか?」

「そうだな。それぐらいでいいだろう。ああ、キミも行くのだぞ? 相部屋でも私は構わんが」


 アリスはやれやれという表情で、小脇に抱えたタブレットをさらさらと操作し始めました。


「まあ、それは光栄ですこと……とでも私が言うと思われました? 出張はご一緒いたしますが、相部屋は断固お断りです。まるっきり不倫に誘う上司じゃないですか、まったく。セクハラで熾天使卿に報告しますよ? サイオンジ教官」


 アリスはパタンとタブレットのカバーを閉じて、再び小脇に挟みました。


「手配いたしました。では、まいりましょう、教官」


 サイオンジ教官はえっ、と小さく驚きの表情でアリスを見返します。


「いくらなんでも準備が早すぎないかね。手ぶらで行くのかね」

「職員室に荷物はまとめてあります。ユアから通信呼び出しコールリクエストが入った時点で、だいたいこうなるだろうと思ってましたわ。なんだかんだで教官はユアが心配なのでしょう?」


 アリスはにっこりと笑顔で教官に語りかけました。教官も笑って応えます。


「さすがだ、アリス。でも、ツラいことをしなければならないかもしれないぞ?」


 教官は表情こそ笑っていましたが、その瞳は真剣そのものでした。


「覚悟は、しております。私も天使のはしくれですから」


 教官に続いて教官室を出ると、アリスは教官室に鍵をかけ、「出張につき不在」のプレートをノブに吊るしました。パタンという音を立ててドアノブのプレートが揺れました。


「主天使の位を持つキミがはしくれなわけがないだろう、アリス。謙遜するのもほどほどにしなさい。では、行くとするか」

「はい」


 天上界には季節も昼夜もありません。常に白くて優しい光に満ちています。

 教官とアリスの二人は天使学校の校舎を出て、二人で地上に舞い降りていったのでした。

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