第16話 見習い天使が銃を撃つ その2


「満月の夜は、つまり今晩です。今晩の『悪魔の種』の拡散は、わたしが阻止します! そのためには今晩中にダンス部のおねーさんを、この『超強力デビルイレイサー ガツントケシサールMK5』で撃たないといけないんです!」


 天使に不似合いな物騒な銃火器。それを握りしめてユアは固い意志を込めて言い切った。いつものおちゃらけな雰囲気はない。コーヒーショップの店内の照明にギラリと黒光りするピストルを見て、柊木はおそるおそるという感じで尋ねる。


「ユ、ユアちゃん、それで撃たれたらどうなるの?」

「悪意が完全に消し飛んで、まったく穢れのない完全にクリーンな精神状態になります。超強力です。強力すぎて、記憶が部分的にごっそり消えちゃうんですけどね。あ、生活の知識とかお勉強して獲得した学問的な知識みたいなのは消えないように設計されていますよ」


 ん? それってどういうことだ? 俺は考える。生活と学問の知識以外は、全部忘れてしまう。ということは?


「ユア! それってほとんど別人になってしまうってことじゃないのか!」


 その威力の恐ろしさに思い当って、俺は思わず叫んだ。


「そうですよ。浄化された悪意のないクリーンな魂になって、人生を再スタートできるんです」


 ユアはこともなげに答えた。そしてピストルを構えて高らかに、きっぱりと断言する。


「今晩『悪魔の種』が拡散するのは、絶対防ぎます! 見習い天使の、このわたしが、絶対に防ぎます!」


 その時、ユアのポシェットがぶるっと震えるのが見えた。


「あ、アラートが出ました! エンジェルフォンの『天上界健康省指定 悪魔追跡アプリ アクマトレース』が反応しています。今回の『悪魔の種』の拡散は、ダンス部のおねーさんがおおもとの発生源に違いないです。わたしが絶対、阻止しますからね!」

「あ、待て、ユア!」


 ユアは俺の静止も聞かずにコーヒーショップを飛び出して行った。俺も後を追おうと立ち上がる。


「あんなので撃ったら、川田由乃さんのユアの思い出が全部消えちゃうじゃないか。そんなのダメだろ。ちくしょう、止めなきゃ、ユアを。柊木、俺、行ってくる!」


 柊木も立ち上がった。


「待って、石塚。私も行く」



 俺たちはコーヒーショップを飛び出した。夕暮れ迫る街の中を一目散に学校へと足を向ける。ユアは見た目以上に足が速い。その後ろ姿はもう見えなくなっているが、行き先の見当は付いている。川田さんを狙っているとしたら、行き先は学校しかない。この時間だと、ダンス部の練習がちょうど終わったころだろう。下校時間までみっちり練習するのがわが校のダンス部だ。


 十分ほど駆け足して学校手前の通称杉高坂に着いた。だいぶ息も上がってきた。気合いを入れなおして、杉高坂を上り始めようとする俺に、柊木は制服の袖をぐいと掴んだ。


「石塚、ちょっと待って。あれ!」


 見ると、女子と男子がなごやかに話をしながらゆっくり坂を下ってくるところだった。その見覚えのある女子は、……柴崎さんだった。柊木はなおも俺を引っ張って、二人とも脇道の電柱の陰に身を隠した。


「あれ、A組の武田くんと柴崎さん、だよね? ……なんか雰囲気が怪しくない?」

「ああ、武田にも告られてるって柴崎さん言ってたからな」

「え? ホントに? それちょっとひどくない? 石塚もなにヘーキな顔してんのよ! あんた、カレシ候補なんでしょ? 怒っていいところじゃない?」


 ん? ひどくない、ってなんの話だ。なんでそんな話になるのか訝しんでいると、柊木が顔を上げた。


「武田くん、うちのクラスの平井さんと小学校からずっと一緒で、付き合う寸前だったのに。それなのになんで急に柴崎さんに乗り換えて告ったりするのよ。ああ、そっか。それで平井さん、ここんとこ元気がなかったんだ」

「柊木、つまり、柴崎さんが武田を平井さんから横取りした感じってことか? いわゆるNTR的な」

「表現がアレだけど、まあそんな感じだと思う」


 そう言っている間に、目の前を柴崎さんと武田がにこやかに談笑しながら通り過ぎて行った。俺はそれをじっと見つめる。

 不思議な感覚だった。俺は、怒っていいはずだ。俺は、妬いていいはずだ。俺は、苦しんでいいはずだ。しかし、不思議に俺の心は山奥の静謐な湖面のように凪いでいる。何よりも驚いたのは、何の感情もなく二人を冷静に見送っている自分に対してだ。俺は、柴崎さんのことを好き、なんじゃなかったのか? 柴崎さんこそ至高、なんじゃなかったのか?


「柴崎さんて……、なんか信じられない。石塚、あんたこそもっとショック受けるべきなのに」


 柊木が俺を気遣ってくれるが、自分でも不思議なことに、ぜんぜん平気だった。


「柊木、今はそれどころじゃないだろ? 川田さんのところへ行かなきゃ。ユアを止めなきゃならないだろ? さ、行くぜ」

「でも、あれってどう見ても……」


 むしろ柊木の方が動揺している。いつもクールな柊木がうろたえているのを見てると、かえって冷静になる。


「ぐずぐずしてると置いてくぜ!」


 柴崎さんたちが角を曲がって見えなくなったのを確認して、俺は電柱の陰から飛び出した。


 ◇


 陽の落ちかけた杉高正門前の坂を駆けあがって、校内に入った。下校のチャイムが鳴っている。校舎からは部活を終えた生徒たちがぞろぞろと出てくる。俺はハタと足を止めた。うしろから柊木が息を切らして追い付いてきた。


「い、石塚、このあとどうするの?」


 とりあえず学校に来たはいいが、どこへ行けばいいんだ。迷っている暇はない。もう下校チャイムが鳴っているということはダンス部の練習はすでに終わっているはずだ。だから体育館に行ってしまうと後手を引く。絶対先回りしないといけない。シャワー室か? いやこの寒いのにシャワーは浴びないだろう。だとすると着替えるために更衣室に向かったか? それとも、もう着替え終わってグラウンドから校門に向かっているか? 更衣室に行くなら校舎内を突っ切って行く方が早いが、着替えが終わっているならグラウンドで待ち伏せするのがいい。二択だ。どっちだ!


「更衣室だ! 急げ、柊木! 校舎を突っ切って行くぞ!」


 イチかバチかの賭け。まだ川田さんたちは着替えていない方に賭けた。昇降口から校舎に入り、そのままの勢いで廊下を駆け出した。土足のままだけど履き替えてるヒマがない。確率はロクヨンぐらい。

 もし間に合わなかったら、ユアがあのピストルを川田さんに向かって撃ってしまったら、それはつまり川田結愛さんがこの世に生きていた痕跡が一つ消え去るってことだ。いくらユアが人間界での記憶がないからって、そんなのあんまりだ。だいたい川田さんが悪魔を飼っているなんて本当なのか? 確かに思い出してみると悪魔カタツムリは川田さんのいるところでばかり出ていたけど……。


「石塚! あそこ見て!」


 考え事をしながら校内を走っていると、俺の後ろを追いかけてくる柊木が声を上げた。立ち止まって柊木の指さす先には、渡り廊下を走るユアの後ろ姿がちらっと見える。


「ちくしょー、なんでアイツ、走るのあんなに速いんだ。追い付けねーよ!」


 俺は再び走り出す。校舎の廊下の突き当りを右に曲がると体育館に繋がる渡り廊下だ。渡り廊下をまっすぐ行くと体育館の入り口。渡り廊下の屋根を右手に外れて建物ぞいを行くとグラウンドの側の更衣室、その向こうはグラウンドだ。もうすっかりあたりは暗くなっている。


「ユア、待て!」


 渡り廊下に入ったところでユアの背中に向かって怒鳴る。ユアは声が聞こえていないのか、まっすぐに体育館の入り口に向かっている。見ている間に体育館の電気が消えた。

 ぞろぞろとダンス部の部員が体育館の入り口から出てくる。みんな部活で身体を動かした後の心地よい疲労感を味わっているようだ。ところどころ楽しそうな歓声が上がり、めいめい話しながら更衣室の方へと歩いて行く。その先頭は三年生の四人だ。

 俺は渡り廊下のすのこをべこべこ言わせながら必死で走った。ユアの背中まであと三十メートル。ユアの数十メートル先にはダンス部の一団。川田さんは、後輩と談笑しながら更衣室へ向かって歩いていた。ユアは立ち止まって仁王立ちでピストルを構えた。


「ユアー! やめろー! 撃つな!」


 間に合わない! 俺は必死で手を伸ばした。


「撃っちゃダメだ!」


 俺の大声に気が付いたユアが、一瞬注意をこちらに向けて振り向いた。すっかり陽の落ちた秋の夕空は、紅と紫色と濃紺のグラデーション。

 黄昏をバックに、俺はヘッドスライディングさながらに飛び込んで、ユアの腕をつかんだ。その細くて小さい腕は小学生の腕そのものだった。

 ユアは顔をあげて叫び声を上げる。


「ケン、なんでですか! なんで止めるんですか! 悪魔は退治しなきゃならないんです! 『悪魔の種』の拡散は、止めなきゃいけないんです! それが、それが、天使の仕事なんです!」


 俺に腕を掴まれてユアはもがいている。俺はユアの手からピストルをもぎ取ろうと細い手首を握り込む。


「たとえそうだとしても、他に方法があるだろ? それを考えてくれよ! そのピストルで川田さんを撃ったら、川田さんの記憶が消えちゃうんだろ? 全部消えちゃうんだろ? それじゃ、ダメなんだよ。川田さんの記憶を消しちゃ、ダメなんだよ!」

「なんでなんですか! 浄化された魂で新しく生まれ変われるんですよ? それでいいじゃないですか! みんなが幸せになれるじゃないですか! おねーさんの記憶が少しぐらい消えても、誰も困らないじゃないですか!」

「ユアちゃん、待って」


 後から追い付いてきた柊木も声を上げる。ユアは俺の腕を振りほどこうとして、必死にもがいた。目の前を川田さんと数人の後輩が数十メートル先を笑いながら通り過ぎて行く。俺と柊木の声には、後輩と和やかに談笑している川田さんは気が付いていない。


「ケン! 離してください! 早く撃たないと、おねーさん行っちゃいます!」

「ユアちゃん」


 柊木が走って追い付いてきて、ユアの目線まで腰を落とす。柊木は、三回ほど呼吸を整えるように深呼吸をし、さらにもう一度、息を吸い込んで静かに諭し始めた。


「ユアちゃん。川田由乃さんはね、あなたの生前の、あなたが人間界で生きて暮らしていた時の、あなたの実の妹さんなのよ。あなたが人間界で生きていた時の、大事な妹さんなの。だから、撃っちゃダメ。由乃さんの思い出を消しちゃダメ」


 柊木のセリフに驚いた拍子に、俺は思わずユアを捕まえていた腕をゆるめてしまった。柊木、それ、言っちゃっていいのか?


 俺の腕のゆるんだ隙を逃がさずに、ユアは腕から抜け出して数歩俺から距離を取った。中庭はすでに宵の闇が落ちて、照明灯から離れたところは暗くなっている。

 ユアは、半ば呆然と柊木を見つめ、ピストルを持つ腕をだらりと垂らした。


「ユアちゃん、いい? よく聞いて。あなた自身は忘れていてもね、みんな、あなたが確かに生きていたことを覚えているの。みんな、今でも、あなたのことが大好きなの。それはとても大きくて、大切な思い出。どういう理由があったとしても、思い出を全部消してしまうようなことをしちゃダメ」


 柊木は一気にそう言うと、ユアに近づく。ユアは信じられないといった瞳で柊木を見つめている。力の抜けた腕からピストルがカラリと音を立てて地面に転がった。


「ユアちゃん、それを渡して。お願いだから、渡して」


 柊木は、懇願しながら伸ばした白い指先で、ユアの足元のピストルを拾おうとした。が、暮れた空色を鈍く反射するピストルに手が届く寸前に、ユアがはっとして一足先にピストルを拾い上げた。そして胸にピストルを抱く。その拍子にユアは尻もちをついてしまった。


「イヤです。ちいちゃんのお願いでも、それはできません。わたしは、わたしは、天使なんです!」


 そして、これまでに聞いたことのないような低い声でうめいた。


「仮にわたしが本当に前世で人間として暮らしていて、そして仮にあのおねーさんが本当にわたしの前世の妹だったとしても、今のわたしは、天使です。今のわたしは、まだ見習いだけど、天使なんです! わたしは、天使の名において、あのおねーさんを撃たないといけないんです! それが天使のお仕事なんです! わたしが天使として生きている証なんです!」


 尻もちをつきながら、再び手に持ったピストルをダンス部の一団へ向けた。部員たちは、すっかり陽が落ちた校庭を更衣室に向かって和気あいあいと歩いていく。


「わたしは、まだ見習いだけど、天使です! 物心ついた時から、天使なんです! 今のわたしは、見習い天使のわたししか知りません。今のわたしは、人間界で生きていたことを、一切覚えていません。全然、覚えていないんです。だからこそ、今のわたしは天使の名において、『悪魔の種』がばらまかれていくのを見逃すことは、できません。絶対に、できないんです」

「ユア!」


 俺はユアを捕まえようと手を伸ばす。ユアはゆらりと俺の腕をすり抜けて、二三歩離れたところで足を踏ん張った。そしてピストルを構え直して、ダンス部の一団の先頭近くにいる川田さんに銃口を向けた。


「ユア! よせ!」

「ユアちゃん、やめて!」


 俺と柊木の叫び声は、月夜の空に響くクラシカルな一発の銃声にかき消された。


 ユアの手元のピストルから放たれた一筋の閃光が、夜闇を切り裂き、川田さんの身体を貫いていった。


 銃声のエコーが残り、そして、月明りの照らす校庭を、濃い静寂が支配した。

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