第22話 見習い天使は待っている

 ぼやけた視界に広がる一面の白い天井。

 俺は、長い夢を見ていたのだろうか。

 それとも今見ているのが夢なのか。

 真新しいシーツの肌触り。

 薬品の匂い。

 腕に繋がれた点滴のチューブ。


 ゆるやかに意識が覚醒してくる。


 部屋の中の様子が少しずつ脳裏に像を結んできた。冷たい白さで輝く、壁際に並ぶ二つのシルエット。小さい方のシルエットは、あれは、見習い天使のユアだ。大きい方のシルエットは、……柊木か? それにしては、髪型が違うし……、なんか、少し年を食ってるような気がするなあ。

 そう思った途端、目の前が一瞬オレンジ色の光に包まれて、俺の身体をばちんと強烈な電撃が襲う。俺は思わず叫び声をあげてしまった。


「うひいっ!」

「あー! アリスー! なにいきなり雷撃してるんですか! せっかくケンが目を覚ましそうだったのに!」

「あら、ごめんなさい。貴重なノミニー候補者を傷つけるつもりはなかったんだけど、なんだか『ずいぶん年食った女子が見えるなあ。あれはどう見ても柊木じゃない。目覚めた時に最初に目に入るのがこんなオバさんだなんて、世の中理不尽だなあ』とかいう罵詈雑言が聞こえた気がしたのよ。手元が狂ってうっかり雷撃しちゃったわ」

「アリス、そんなフルパワーで雷撃したらケンが死んじゃうじゃないですか! せっかく『最高位の天使の羽 プレミアムハイグレード』を使って助けたのに、アリスの雷撃で死んじゃったら意味ないじゃないですか!」

「まあ、死んじゃったら死んじゃったでさっさと天使学校に入校してもらうだけだけどね。入校猶予は特例なんだから」

「でもそれが願い事だったんだから、勝手に殺しちゃダメですよー」


 俺はえいっと身体を起こした。身体中の痛覚が一斉に悲鳴をあげる。


「うっ、いてー!」

「あ、ケン、目覚めましたね? よかったですー。ナースコール押しておきましょう。でも、まだ起き上がるのは無理だと思いますよ。屋上から地面まで四十メートルは落ちましたからねー」

「うぎぎぎ、いてー。ん? 俺、死んだの? ここは? 天上界?」


 全身が軋むのを我慢して聞いてみる。イマイチまだ状況が把握できない。


「死んでませんよー。アリスが『最高位の天使の羽 プレミアムハイグレード』で助けてくれましたよー」


 ああ、俺、助かったのか。ようやく見えてきた視野から察するに、ここは病院の一室らしかった。


「しかし、なんか雷撃くらった気がするんですけど。ああ、いてー。アリスさんは、オニですか。死神ですか」

「あら、ご挨拶ね。主天使の位を持つ私を死神扱いするなんて。死神は私たちとは別にちゃんと本職がいるわ。でも、ま、たしかにノミニーの中には、私たちが見えることと自分の死期を無理やり関連付けちゃう人がいるけれどね。私たち、ノミニーにはわりとよく死神と間違えられるのよ」


 アリスさんは黒のビジネススーツ、ユアは紺のトレーナーにスカート姿だ。俺の腕はギプスで固定されている。


「あ、そうだ! 柊木は! 柊木はどうしているんです!?」


 思い出した! 屋上の手すりを越えて落ちていく柊木を助けようとして、俺も一緒に落ちたんだった! あいつはすっかり死ぬ気でいた。俺だけ助かってるなんてことはないよな? どこ行ったんだ、柊木は!


「ちいちゃんも無事ですよー。すぐ戻ってくると思いますー」


 ユアがそう言った時、廊下をぱたぱたとスリッパの足音が聞こえた。病室の扉が開いて柊木が顔を出した。入ってきた柊木はしばらく静止して俺をじっと見つめて固まった。


「柊木! 無事だったのか! よかった! いてててて」


 ああ、とにかく柊木が無事でよかった。安心した。まったく心配させんなよ。動いた拍子にさらに腕に痛みが走る。身体を起こそうともがく俺を見て、柊木は固まっていた。ようやく動いたと思ったら顔を伏せて、今度はぷるぷると震えている。


「どうした? 柊木?」


 柊木は拳を握りしめると、手を離したチョロQみたいなダッシュでベッドの俺に突進してきた。ギプスで固められた俺の右腕に突っ込むように頭をうずめる。


「がああ、いたたた! 柊木、いたいいたい、やめろ! 俺を殺す気か!」


 とっさにガードしようと左腕で振り払おうとしたが、あいにくそっちの腕には点滴がつながれていてる。肩のあたりにうずめた柊木の頭の重みが少し暖かい。


「ばか! 石塚のばか! なに無茶してんのよ! 死んじゃうかと思った! 死ぬのは私だけでよかったのに!」


 なんだ、柊木、泣いてるのか。まあ、なんにせよ、無事で良かったよ。結果オーライ。


「あら、柊木さん。石塚くんが死ぬなんてことは絶対なかったから、心配しなくてよかったのに。この私が直接受けた願い事だからね」

「そうですそうです。ちいちゃん、主天使のアリスに直接願い事したんなら間違いないですー」

「ただ、無理な態勢で柊木さんをかばって下敷きになったのは、ちょっと計算外だったわね。もう一枚『天使の羽』を使っておけば良かった」


 アリスさんが優しい声でしゃくりあげている柊木に話しかけていた。横からユアがジト目でアリスをにらむ。


「教官もケチですけど、アリスもたいがいケチですねー。『最高位の天使の羽 プレミアムハイグレード』の耐荷重は一枚につき百キログラムまでって書いてありますよー。一枚でケンとちいちゃん二人分の体重受け止められるわけないですー」

「一枚三万円もするから必要最低限しか使わないようにしてるのよ。ユアも天使として活動し始めたら分かるわ」


 アリスさんは何食わぬ顔でさらっと答える。え、『天使の羽』って有料なの? コンビニのレジ袋かよ。でも三万円で命が助かるなら安いもんだ。どうも天使の金銭感覚は俺たちとはだいぶ違うらしい。


「えー、ああいうのって支給されるんじゃないんですかー?」

「何言ってるの。アイテムは全部自費調達よ。領収書集めておきなさいよ。二月には確定申告しなければいけないから。いつまでも学生気分じゃだめよ」

「めんどくさいですー」

「そのあたりは学園でまた教えるからね。あ、そろそろ行きましょう。ユア」


 アリスさんはユアを急かして立ち上がる。ギプスに取りついて泣いていた柊木も顔を上げた。ユアはくるりとその場でターンすると、スカートの裾を優雅につまんで膝を折った。


「ケン、ちいちゃん、わたし、研修課題が終わったので明日、天上界に帰ります。おかげさまで正式な天使になれましたー。今から『天使のすみか』のお片付けに行きますー」

「そういうわけだから。柊木さんと石塚くんの入校は、教官が熾天使卿にかけあって無期延期にしたから。もうしばらく人間界で頑張ってね」


 そう言い残すとアリスさんとユアは連れ立って出て行った。

 病室には、俺と柊木が残された。

 柊木はまだ鼻をぐずぐず言わせている。


「柊木、あのまま落ちて死んじゃってもよかったのかよ」

「……それも運命かな、とは思っていた。だからアリスさんにはお願いしていたの。死んで天使になるのは、私だけにしてください、って。私ね、誰かのためになりたかったのよ。天使になるのって、手っ取り早くだれかのためになれるじゃない?」

「まあ、それが天使たちの仕事、みたいだからな」

「でもね……石塚が助けようと手を伸ばしてくれて、嬉しかったよ。もう少し人間界で生きていてもいいかな、って本気で思った」


 柊木は顔を上げて少し笑った。俺も、この笑顔を見ていられるのなら、人間界も捨てたもんじゃないな、と思った。

 病室の壁は白さがやたらまぶしい。窓は換気のために少し空けてある。気が付かなかったが、外はスカッと爽やかな青空だ。吹き抜ける秋風が病室のカーテンを揺らしている。


「……なあ、柊木」


 だいぶ落ち着いてきた柊木に向かって俺は声をかけた。そう言えば、いつからだろう、柊木と二人きりになっても気まずさを感じなくなっている。今さらそんなことを考えながら、さっきから気になっていたことを聞いてみる。


「このベッドのそばに置いてあるこれ、なに?」

「これ? ああ、看護士さんが借してくれたの。使えるかなーと思って」

「念のため聞きたいんだけど、誰に使うつもりなんだ? これを」

「あら、決まってるじゃない。石塚に」

「おい、柊木! たしかに綿棒とワセリンと歯ブラシは好きに使っていいって言ったけど、こんなのいいとは言ってないぞ!」

「男のくせに往生際悪いわね。せっかく看護士さんが貸してくれたのに。なんなら今から」

「イヤだー! やめてくれー!」


 ベッドのそばには、一リットルの極太浣腸がひっそりと不気味な存在感を放っていた。


 ◇


「で、柴崎にフラれて飛び降り自殺までしようとしたおまえが、なんで柊木とラブラブしてるわけ?」


 特に身体に異常がなかった俺は昨日のうちに病院を退院して、というかさせられて、今朝から学校に来ている。俺は二日間病院で寝込んでいたらしいが、ちょうど週末だったので学校は欠席せずに済んだ。先日の屋上でのひと騒動も金曜日の夜の出来事で、ほとんどの生徒が知らないはずだった。

 しかし、糸田は柊木にかばんを持ってもらって登校してきた俺をちらっと見るなり、いきなりそんなことを言い出した。まったく興味なさそうに鋭い質問をしてくるのやめてほしい。どこでそんな情報仕入れてくるんだ、こいつは。俺は「なんて答えたらいい?」という視線とともに、柊木の顔をそっと伺った。柊木は苦笑している。


「アリスさんと教官さんの記憶操作が効いているのよ。話に合わせておけば?」


 ごく小さい声で柊木は言った。なんだか納得いかないが、これは真実を話せば話すほど嘘くさくなってハマるヤツだ。しょうがないなあ、とため息をついて、俺は糸田の話に適当に合わせた。


「いや、飛び降り自殺じゃねーよ。屋上でたそがれていたら急に風が吹いて、落ちそうになったところを柊木に助けてもらった、それだけだ。ころんだ拍子に腕折っちゃったけどな」


 嘘八百を並べまくる。でも、一応これでも四十パーセントぐらいは真実だからな。幸い糸田はそれ以上ツッコんで来なかった。


「まあ、いいけどさ。お前と柊木の仲がどう進展しようが、俺の人生には一切関係ないし。しかしなあ、柊木。変なBL漫画をつーに貸すの、やめてくれねーかな。なんだよ、あの『どこまでも広がる僕の穴』とかいう漫画。あれ、柊木がつーに貸したらしいじゃねーか。目を血走らせて読んでてこえーよ」

「ああ、あれつむぎちゃんのとこに行ってるんだ。私は川田さんに貸したんだけどね。面白いから糸田も読んでみたら? 人生観変わるわよ?」

「けっ、俺がそんなの読むわけねーよ。遠慮しとく」


 そういうと糸田はいつものようにだるそうに机に突っ伏した。



「なあ、柊木」

「しゃべってると食べさせてあげないわよ? ほら」


 柊木は卵ハムサンドを俺の顔の前に突き出してきた。

 今日は曇りのどんよりした天気だ。空を覆う雲は厚くて重たい。少し肌寒かったが、俺たちは高校の敷地のすみにある古桜の下のベンチに並んで座っていた。俺の右手はギプスで吊られている。左手だけでも食べられなくはないので教室でもよかったが、なんだかんだで柊木に押し切られて二人で昼飯を食べにここに来ている。


「『悪魔の種』入ってないだろうな?」

「ふふふ、入れといたわよ。たっぷりと。ひょっとしたら感情が歪んで午後の授業中にムラムラ催しちゃうかもよ?」

「やめろよ、シャレにならないぜ。しかし、柊木、おまえ変態なのを隠そうともしなくなったなあ。しかもどんどん下品になっていってるし。嘆かわしい」

「べぇーだ。これが私の本性なの! 文句ある?」

「別に文句はないけどさ」


 サンドイッチを受け取ろうと左手を伸ばすと、柊木は手を少し引いた。そのまま黙って俺を目力を込めてにらんでいる。


「あー、分かったよ、ちくしょーめんどくせーやつだなあ」


 観念して柊木の手のサンドイッチに直接かぶりついた。


「それで、いいのよ。ふふふ」


 そのとき、空を覆っていた雲が切れて、太陽の光が差し込んだ。

 空にはふわりと漂う白いローブの女の子。女の子は古桜の側までゆっくり旋回しながら高度を下げて来た。


「ユア!」

「ユアちゃん! その恰好、どうしたの?」


 地面に降り立ったユアは白いローブの裾をふわりとつまんで膝を折った。頭上には金色に輝く天使の輪。


「ちいちゃん、ケン、お世話になりました。わたし、天上界に戻ります。今日のこの服、天使の正装なんですー。これ、かわいいでしょ?」

 

 ユアはローブを見せびらかすようにその場でくるくるとターンした。


「とってもかわいい」

「うん。かわいいな」

「もう行かなきゃです。午後二時から天使学校の卒園式なんです。名残惜しいけど、これからもずっとケンとちいちゃんたちのこと、見てますからねー」


 そう言うとユアはふわりと浮かびあがった。徐々に旋回して高度を上げていく。


「ケンとちいちゃんが天使学校に入学するの、天上界で待ってますからー。天使の寿命は人間の三十倍ですー。七十年ぐらいあっという間ですー。二人が天上界に来るまでに、わたし、アリスみたいな立派なレディエンジェルになってますからねー」


 ユアは手を振りながら、ゆっくりゆっくりと雲間から差し込む太陽の光を昇っていった。俺と柊木も手を振ってそれを見送る。空まで続く光の花束。それを巻くように、天使のユアはだんだん小さな光となっていき、やがて見えなくなった。


「天使のキザハシだね」

「そうだな」


 ユアの消えて行った空を、俺たちはいつまでも見ていた。柊木の黒い髪がなびいている。


「お別れ、じゃないもんね。また、会えるんだよね」


 柊木が肩を寄せて来た。俺の左腕に少しもたれるようにして、空のかなたを見上げている。ほのかに柊木の体温が伝わってくるようだ。


「ああ。いつかは必ず。その時は、俺たちも見習い天使、だな」


 俺たちは二人並んで、ずっと、ずっと、雲の切れ目の青空を見上げていた。柊木は澄んだ瞳で、ユアの消えて行った空のかなたを見上げていた。


「……なあ、柊木」


 柊木の横顔を見て、俺はふと言葉が口をついて出てきた。俺の顔に視線で「なに?」と問い返してくる。


「俺たち、付き合おうか」


 は? 俺、なに言ってんの? 頭おかしいの?

 柊木が正面から潤んだ瞳を向けてくる。ただ、じっと俺を見つめている。随分長い間停止して、そして、ふふ、と小さく笑った。俺は、自分の口から出たセリフにただひたすら驚愕している。


「死んでからも一緒なのに、わざわざ今付き合うこともなくない?」


 そりゃ、そうだよな。まったくごもっともな意見だ。俺もなに言ってるんだ。断られてよかった。こいつにこんなこと言うと……。


「でも、ま、そこまで言ってくれるんなら、今日の放課後、一緒に行こ!」


 柊木は満面の笑顔を見せると、ギプスのない方の俺の手を握って、走り出した。


「ど、どこへ!」

「決まってるじゃない。ドラッグストア。せっかくだからいろいろと試してみたい!」


 こいつにこんなこと言うと、実験台にされるに決まってるじゃないか! なんて浅はかな俺!


「や、やめろ、柊木! なにを試す気だ! やっぱ今の話、ナシで! あれは『悪魔の種』で歪んだ感情ががががが」


 柊木はこっちを振り返ってにっこり笑った。

 

「だーめ。男に二言、なし!」

「ひいいい、口は災いのもとー!」


 曇り空の下、俺たちは、手を取り合って駆けて行く。


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