第14話 見習い天使の雲隠れ その3

「柊木、悪い。今日の昼、用事ができたからさ、そのー」


 休み時間、俺は窓際の席に行って、柊木に声をかけた。柊木は使い終わった英語の教科書を丁寧な仕草で片づけているところだった。

 約束を違えるのは心苦しいし、なにより行方のしれないユアが心配ではあったが、事は俺のグローリアスな日々に関わる最重要事項だ。物事には優先順位ってものがある。柴崎さんとのランデブーは全てに、授業にすら優先する。


「あ、そうなんだ。じゃあ放課後……は石塚、今日は委員会だったっけ。どうしよっか」


 柊木は困ったという表情で俺を見上げた。どうしようも何も、ユアが見当たらないから、現状が把握できていない以上、今できることは何もなさそうだ。柊木は下唇の端を噛んでちょっとの間考えた後、口を開く。


「うーん、とにかくユアちゃんが今度姿を現したら、過去のこと、特に川田結愛さんのことには私たちからは触れないでおきましょうか」


 もちろん異論はない。俺も昨日ベッドでそう考えていたところだ。俺は一も二もなく同意する。


「それが最善だよな、今のところ」

「しかし、どこに行ったのかしら、ユアちゃん」 

「ユアは気が付くと、いつでもそこらへんにいたのにな。いないと淋しいもんだ。いると果てしなくノイジーだけど」

「私ね、昨日の夜寝ながら考えたんだけど、それしか思いつかないのよ。なんかユアちゃんを騙しているというか、隠しているみたいで心苦しいんだけど……」


 そうなんだよな。結局ユアに川田さんのことを、川田さんにユアのことをそれぞれ話すかどうか。問題はそこに絞られている。


「そこは割り切るって昨日の帰りに話したじゃん。仕方ねーよ」


 でも結局、俺たちの言っていることが正しいことを証明するのに想像を絶する苦労が必要なわりに、それをユアや川田さんが知ったところでどうにもならない。ユアが川田結愛さんとして生き返るわけでもないし、川田さんがユアのことが見えるようになるわけでもない。そこでいつも思考は行き止まりだ。俺は自分たちの無力さに沈みがちな空気を振り払いたくて、なおも思案顔の柊木に向かって話を変えた。


「それより、柊木、んなこと言ってるけど、昨晩はエロ本三昧だったんじゃねーのかよ。川田さんから借りたあの、なんだっけ、地獄のナントカ攻め」

「言われなくても読んだわよ。すっごい、サイコーだった。あれはただのエロ本なんかじゃない」


 柊木の目がキラリと光って、表情がいきいきとした。ヤバい。これはなんか踏んでしまったかもしれない。


「あれがエロ本じゃないとか、強弁がすぎるぜ」

「エロ本なんかと一緒にしないで! 私の中では、あれは肉欲を超越した純愛の物語なの! だってナツヲが主人公のえーきち様の柔肌をがしがし攻める前に、ちゃんと爪を切ってるシーンがあるんだよ。そういう細かい心情がこう、ぐっと来て、えーきち様の苦悶の表情がただの苦悶じゃないって気づかされる……」

「あー、柊木、分かった分かった。説明してくれなくていいから。ちょっとは場所わきまえろよ」


 なんだこいつ、変なスイッチ入ってんじゃん! そこそこの大きさの声でエロ本の内容を説明し始めた柊木を、周囲を見渡して慌てて押しとどめる。教室の休み時間にする話としては、はなはだしく不適切だ。


「せっかく説明してあげようと思ったのに。だったら変なとこツッコまないでよね」


 柊木は口を尖らせて若干不満顔。うかつに教室でこういう話題を振ると、柊木にスイッチが入って極めて危険だということを痛感した。たぶん柊木をあのままほっておくと、ビジュアルイメージまで解説してくれたことだろう。そんなのイヤすぎる。これから気を付けよう。


「それより、石塚、お昼、なんの用事が入ったの?」

「ああ、その話だったな。聞きたいか? ぐへへへ」

「……なんかその締まりのない顔みたら、想像ついたからいい。どうせ柴崎さんあたりからお呼びがかかったんでしょ?」

「なぜ分かる。今日の昼休みにどうしても柴崎さんが俺に話したいことがあるらしい。ぐひひひひ。柴崎さんとのなれ染めと今日に至るまでの栄光の軌跡を、俺がとくと語って聞かせてやろうか。聞きたいだろ、柊木」

「いらない。全然聞きたくない。そんなの聞きたい人、世の中にいないわよ。だいたい事実認識がすっごい歪んでるんだもん」

「なんだよ、自分だって隙あればBL語ろうとしてたくせに。しかし、残念だったな、柊木。俺の尿道も肛門も、晴れて柴崎さんだけのものになるんだ。ぐひひひひ」

「ばかっ! なんてこと言い出すのよ、教室で!」 


 柊木は珍しく取り乱した様子できょろきょろと周囲を見回した。幸い俺たちの不穏な会話に聞き耳を立てるもの好きはクラスにはいなかった。ただ一人を除いて。


「なんだかなあ。最近のおまえら二人の、二人だけの秘密の会話っぽいのがさ、すげーハナに付くんだけどさ。柊木、ケンジローとまじで付き合い出したのかよ」


 背後から糸田が余計なツッコミを入れてきた。まあこのぐらいの与太話を受け流せない柊木ではない。その点に関しては、俺は柊木に多大な信頼を寄せている。案の定、柊木は眉一つ動かさずに平然と言い放った。


「ぜーんぜん。そんなわけないじゃん。石塚は私の趣味じゃないからねー」


 いやいや、柊木の趣味だったりしたらイヤすぎるぜ。触手に絡まれて恍惚の表情浮かべる俺。ないしは、はだけた浴衣で背後から攻められてる俺。うげー、考えただけで背筋に悪寒が走るじゃねーか。柊木の趣味じゃなくて、俺は心の底からほっとしている。マジで。


「そんなことより、柊木にお客さんだぜ」


 糸田が指さした教室の入り口には、胸元で手をひらひらと振っている川田さんがいた。柊木は驚いた様子で立ち上がって、教室の入口へと向かった。そのセーラー服の背中を見送りながら糸田が感嘆の声を上げる。


「しかし、あの無口で無愛想な柊木とやたら親密になってるじゃねーか、ケンジロー」

「ぜんぜん無口でも無愛想でもないぜ、柊木は」


 ただ、ケタ外れの変態なだけだ。余裕で三ケタは外れてる。


「やけに柊木の肩持つのがさらに怪しい」

「別に肩持ってるわけじゃないさ。周囲の人間の評価なんて、あてにならんもんだなと思っただけだ。おまえの女子観察眼も含めて、な」

「ふん。興味がないだけだよ」


 糸田はニヒルに唇を歪めただけの笑いを残して自席に戻っていく。柊木はどうしたんだ、と教室の入り口に目を向けると、川田さんからビニール袋を渡してもらっている。三年生の川田さんが学年違いの俺たちの教室に来るなんて。しかも柊木に何かを渡すなんて。イヤな予感しかしない。柊木はニコニコ顔で戻ってきた。


「柊木、川田さんから何もらったんだよ」

「ふふふ、いいもの借してもらっちゃった。これで当分楽しめそう。何借りたか、聞きたい?」


 柊木はにんまりと嬉しそうに笑った。こいつのこの笑顔は、ヤバいやつだ。だんだん俺にも分かってきた。


「……聞きたくない。死んでも」

「うふふふ。じゃーん、リアル人肌触手セット! 石塚、使ってみる? ワセリンもあるわよ。貸してあげよっか?」

「やめてくれ! ぜってーいらねー! それに何に使うんだ、ワセリンなんて!」


 ◇


 お昼休み、チャイムが鳴ると同時に、挨拶もそこそこに俺は教室を飛び出した。廊下を走り、階段を駆け上がる。B校舎の最上階、ペントハウスの扉を開けると無機質なコンクリートの屋上に出る。


 屋上が開放されている学校もいまどき珍しいと思うが、わが杉崎高校の屋上は常時フルオープンだ。ただし、見晴らしはいいが、居心地があまりよくない。夏はコンクリートの照り返しでオニ暑いし、冬は風を遮るものがなくてクソ寒い。従って生徒には極めて不人気で、訪れる人も少ない。


 俺は色気のかけらもない、ただっぴろいだけの屋上のコンクリートの上を、あてもなく歩いた。さすがに早く着きすぎたようだ。しばらく屋上をふらふら歩きまわっていたが、すぐに飽きて手持ち無沙汰になってしまった。

 今日もいい天気なのが救いだが、さすがに十一月も終盤。そろそろ風が冷たくなってきている。ブルっと震えがきたので、屋上の真ん中のペントハウス――――ペイントハウスじゃないぜ。ハウスだからな。屋上にポツンと建っている階段室のことだ――――に戻ろうとしたら、扉が開いて、中から出てきた柴崎さんと目が合った。


「あ、柴崎さん」

「石塚くん、こんなところまで呼び出してごめんね」


 柴崎さんはそのまま俺の脇を抜けて、屋上のふちのフェンスまですたすたと歩いて行った。ついてこいってことかな? なんか告白の返事を言うにしては雰囲気が深刻な感じなんだけど。一体どうしたんだ? 妙な違和感を覚えながら柴崎さんの後を追う。


「石塚くん、私ってね」


 高さ二メートルほどのフェンスには、二十センチくらいの隙間が空いた目隠しプレートの板が並んでいる。そこから街並みを見下ろして柴崎さんは、ぽつりぽつりと話し出した。


「自分の外見がイヤでイヤでしかたなかったの。私って全然かわいくないでしょ?」


 かわいくないでしょ、と問われたら、肯定も否定もできないじゃないか。ただ、見た目の情報なんて、あてにならないし、他人の評価なんかもっと無責任なもんだ。それが証拠に柊木を見てみろよ。物静かな文学少女風情? 無口で無愛想で根暗? 笑わせるよな。そんなのまったく違っている。柊木の実態はケタ外れのド変態なんだぜ? それと同じことさ。俺が好きになったのは、柴崎さんの見た目なんかじゃない。

 しかし、俺が反論するよりも早く、柴崎さんは静かに言葉を続けた。


「私、一年の時、ほとんど不登校寸前だったの。学校来ても保健室登校だったし。出席日数ぎりぎりだったの。なんかね、生きてるのが、楽しくなかった」


 俺はなんと反応していいか分からなず、ただじっと遠くの街並みに向かって言葉をつなぐ柴崎さんのうなじを見ている。


「そんな私が曲がりなりにも毎日学校に来られるようになったのは、自宅学習期間中にね」


 そこで柴崎さんは言葉を切って振り返った。柴崎さんの顔はなぜか魂が抜けたような表情だ。赤い唇だけが、やけに目立つ。赤い唇だけが、意志を持って動いているように見える。


「偶然、見つけたの。おまじないを」

「おまじない?」

「私、嫌いだったの。世の中が。平凡に暮らしている人たちが。そして、私自身が。そんな私の恨み言、ネガティブな感情を紙に書きなぐって、私の部屋のコルクボードに張り付けて行ったの。コルクボードがいっぱいになった時、何が起こったと思う?」


 俺は柴崎さんの表情の抜けた顔を見る。


「コルクボードがいっぱいになったある日、恨み言を書いた紙がね、一枚一枚ひらひらとはがれて消えて行ったのよ。紙が消えるたびに、心がだんだん軽くなって、そうしたら急に目の前が明るくなった気がして。自分の感情が軽くなっていったの。実際に二学期になって学校に行き始めたら、いろんな男の人に言い寄られて。今までの私には見えなかった、欲しても手に入らなかった世界が広がっていたのよ」


 ある種の恍惚感をまといながら柴崎さんの赤い唇は、言葉を発し続けた。なにかがおかしい。ホントに、奇妙なセリフを発するこの赤い唇は柴崎さんのものなのか?


「だから石塚くんに告白されたときね、とっても嬉しかったんだよ。C組の田中くん、A組の武田くん、三年の串田先輩、東都大学の君原さん、カナヤマコーポレーションに勤めている栗原さん。ここ一ヶ月で何人もの男の人に告白されたわ」


 え?


「でも、やっぱりその中でも石塚くんがね、なにか特別な感じがするの」


 待て待て待て待て。今、五・六人の男から告白受けたとか、さらっと言わなかった?


「でもね、石塚くん、私のこと、好きなんでしょ? 私のこと、ホントに好きならね」


 そう言うと妖艶な赤い唇が、俺の顔を正面からとらえた。そして、耳元に近づいてきて、そっとささやく。


「あの柊木千紘とは、もう関わらないで。絶対、関わらないで。近づいても、話しかけても、だめ。あの子は、だめ。あの子だけは、絶対だめ」


 いや、そんなこと言われても。最近接点増えたけど、もとから柊木とそんなに仲良かったわけじゃないし、別に柊木に恋愛感情とかがあるわけじゃない。でも、ユアのこと話せるのは柊木だけだし。

 俺が戸惑った表情をしていると、赤い唇はゆらゆらとうごめきながら、さらに近寄ってきた。


「ね、石塚くん。柊木千紘に近寄らなければいいの。そうしたら、石塚くんに私、もっと近づくことができるから」


 どんどん赤い唇が近づいてくる。鼻先がもうほとんど当たるぐらいだ。ここまで女子の顔をドアップで見たことなんてない。


「ね、石塚くん。お願いね」


 赤い唇が動いて、最後の数センチを詰めようとしてきたその時。俺は反射的に身を引いて、柴崎さんの肩に手をかけた。腕がつっかえ棒になって、にじり寄ってくる赤い唇を押しとどめる。これで、少なくとも腕の長さより手前に赤い唇が近寄って来ることはない。


「分かった。分かったから、ちょっと離れようよ、柴崎さん。それに柊木に近づくなとか急に言われても……」

「柊木千紘は私たちにとって害悪にしかならない存在。決して近寄ってはいけないの。大丈夫、関わらなければ。石塚くんは、それだけを守ってくれればいいの。ふふふ」


 どこか浮わついたような笑い声。


「きっと石塚くんは私の言うとおりにしてくれる。きっと。ふふふ」


 赤い唇は最後にそういい残して、すたすたとペントハウス階段室の中へと消えて行った。


 屋上に取り残された俺は、冷たい秋風に身体をさらして、呆然とその後ろ姿を見送るだけだった。



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