第9話 見習い天使も楽じゃない その3

「ケンー! ちいちゃんが、ちいちゃんが大変なんですー! 早くきてくださいー!」


 ユアが教室の入り口で甲高い声をあげて、手をぶんぶん振っている。教室の中はひとときの自習時間の談笑でざわついていたが、そのすべての騒音を圧倒する声量だ。そんなでかい声出すとみんなびっくりするだろーが、と思ったが、ユアの声と姿は他のクラスメートには届いていない。

 わりとただごとじゃない雰囲気に、俺はユアに向かって無言で片手をあげた。これは捨てておけない。前の席でだるそうに突っ伏した学ランの背中に声をかける。


「糸田、俺、ちょっと今からフケるわ。先生に適当に言っといて」

「なんだ、柴崎の体操着姿でも覗きに行くのか。B組は次の六時間目は体育だぜ。女子は体育館でバスケット」

「そんなことするかよ。しかし、おまえ、なんで他のクラスの時間割まで把握してんだ」

「別に知りたかないけど耳に入ってくるんだよ。ちなみに今の時間は体育館は三年生の女子がバドミントンやってるはず」


 他のクラスだけじゃなくて、他の学年まで把握してんのか。こいつの情報力は相変わらず謎だ。そんなやり取りを糸田としていると、ユアが「ケン、なにしてるんですか。早くー!」と教室の入り口で再び大声をあげた。


「まあいいけどな。糸田、あと頼むな」


 糸田は「ん」とだけ言って、まただるそうに机に突っ伏した。それを尻目に、俺は足早に教室の出口へと駆け寄った。


 ◇


「ユア、一体なにがあったんだ? 昼休みから姿が見えないと思ったら、いきなり教室に来て騒ぎ出したりて」


 小走りのユアを追いかけながら、A校舎の廊下を進む。ちょうどチャイムが五時間目の終わりを告げている。廊下からは午後のけだるい校庭の風景が、かげろうのように揺らめいて見える。


「どうもこうもないですー。ケンが昼休みに鼻の下伸ばしておねーさんと話している間に、悪魔が出たんですよー。おねーさんの教室で。その場で退治するわけにもいかないから悪魔を体育館までおびき出したんですー」


 ああ、さっきの昼休み、B組の教室からあわてていなくなったのは、それが理由だったのか。悪魔は天使を追いかける習性があるって言ってたもんな。確かにユアはみんなから見えないからいいけど、柊木が教室でスプレー振り回したら不審極まりない。ただでさえみんなに少々誤解されている柊木が、その上奇人変人扱いされるのも少しかわいそうだ。それに、悪魔が消えるときに出る真っ黒の煙は、ちょっと生理的にイヤなものがある。


「鼻の下伸ばして、は余計だろ。悪魔ってカタツムリのアレか? そんなのスプレーでひと吹きだったじゃん」

「わたしも最初は、これで悪魔退治三匹目ゲットー、いえーい! とか思ったんですよー。ところがですねー、思ったより悪魔が大きくてスプレーが効かなかったんです」

「さてはユアはまたへっぴり腰で闇雲にスプレー吹き散らかしたんだな。それで、柊木が見かねて手伝ってくれたって感じか。ちゃんと一人で悪魔退治できるようにならないと、一人前の天使になれねーぞ?」


 先日の叫び声ばっかり勇ましいくせに、へっぴり腰のユアが目に浮かぶ。今はまだ見習いだからいいんだろうけど、このまま正式な天使になって大丈夫なのか、とは思うぞ。わりとマジで。


「わたしは、あの悪魔が苦手なんですー!」

「わかったわかった」


 ユアはふくれっつらで文句を言いながらも、止まらずに小走りを続ける。A校舎の廊下は次の六時間目の授業に向けて移動する生徒がぱらぱらと見えた。それをすり抜けながら進んでいく。この先にあるのは渡り廊下と体育館だ。


「で、柊木は今どうしてるんだ?」


 ユアの随分な慌てぶりを見ていると、どうも一筋縄で退治できたわけではなさそうだ。しかし、カタツムリ相手に苦戦する柊木のイメージが湧かない。どっちかっていうと、ゴキブリぐらい平気で叩き潰しそうなんだが。ともかく、俺はガラにもなく柊木が心配になってきた。


「とりあえずちいちゃんはスプレーで悪魔を足止めしてくれています。ケン、これ持っててください。ハサミうちにしないと上手く退治できないんです!」


 ユアは小走りを続けながら、どこから取り出したのか、乳児用のプラバットのような棒切れを俺に向かって放り投げた。


「うげ、なんだこれ、めっちゃ軽いじゃん。こんなおもちゃのバットでどうするんだ?」

「バットじゃないですよ。『大きめの悪魔もこれで安心 アクマブンナグール』ですー。これで殻を叩くと、悪魔の動きが鈍って『めっちゃよく効く♡ 悪魔退治ころりんちょスプレー』が効きやすくなるんです。とにかく、早く行かないとスプレーで足止めするのにも限度がありますー」


 そのパステルグリーンの棒切れは、見た目どおりに軽かった。あまりに軽すぎて取り落としそうになったが、なんとか掴んで、ユアに続いて廊下を駆け抜ける。


「『アクマブンナグール』は悪魔を弱らせることしかできません。それだけでは悪魔退治はできないんで、気を付けてくださいね。ある程度弱らせて悪魔の動きが鈍ったら、今度こそ『めっちゃよく効く♡ 悪魔退治ころりんちょスプレー』が効くんで、吹きまくってください。とにかく、ケン、早く行きましょう!」

「わかってるって」


 悪魔に取りつかれて具体的にどうなるのか知らないが、柊木は一人で悪魔と戦ってるってのか。そりゃ早く助けてやらないと。

 A校舎の先の渡り廊下を抜けて、体育館に着いた。まったく、我が県立杉崎高校は伝統校なのはいいとして、無駄に校内が広いのも考えもんだ。俺は体育館の中に入ったところで肩で息をする。体育館では糸田情報どおり、B組の女子がバスケの準備をしているところだった。なんとなく柴崎さんの姿を探してしまうが、今はそれどころではない。


「柊木はどこだよ! いねーじゃん!」

「こっちです」


 ユアは舞台袖の扉をくぐって、ステージの下手の暗がりに駆け上がって行った。俺も後を追う。柊木がかなり大きめのカタツムリにスプレーで対峙していた。柊木の腰くらいの高さがある。


「うげ、でけー! まじかよ! とんでもなくキモいな」

「でしょー? でしょー? でしょー? でも、まだまだこんなの小さい方ですー!」


 カタツムリに向かって、柊木が手に持つスプレーを浴びせている。

 しかしカタツムリは煙を出して消えることなく、柊木に正面から猛然と立ち向かってきた。早い! しかもキモい! その動きの敏捷さに本能的に危機感を覚えてしまった。柊木はじりっと数歩後退したが、背中を壁に阻まれてしまっている。


「柊木! 大丈夫か! 離れろ!」

「ちいちゃん! 離れてくださいー!」


 俺とユアは追い詰められた柊木とカタツムリの間に割って入った。


「石塚、ありがと。コイツ、なかなかしぶといのよ」

「スプレーだけじゃムリだ! まかせとけ! ユア、ぶっ叩けばいいんだな?」


 俺はユアから手渡されたバットを構えて、迫りくるカタツムリのツノに向かって思い切り振り下ろした。


「この悪魔カタツムリヤロー、柊木になにしやがんだ!」


 プラバットが軽すぎて一振りの打撃には、たいして破壊力はない。ぽこぽことカタツムリのツノにプラバットが当たるたびに、ぬめる感触がする。こりゃ確かに気持ちいい物じゃない。

 カタツムリは鎌首をもたげてツノを尖らせた。そして俺をターゲットにしてずいずいと向かってくる。背後は壁だ。な、なんかツノが赤くなってね? やべえ、怒らせてしまった!


「うひー、効かねー!」


 俺は迫りくるカタツムリのツノに身体がすくんだ。カタツムリの顔の正面からのドアップ、キモい! カタツムリの口が間近に迫ってきた。プラバットの乱れうちで近寄るのを防ぐ。振り払おうとプラバットが当たるたびにカタツムリのツノが赤くなり、口が大きく開く。やべー、これは、食われる!

 その時、不意にカタツムリが動きを止め、首をすくめた。


「石塚! 殻を叩かなきゃだめなんだって!」

「ケン、殻を叩いてください! こういう風に!」


 カタツムリの背後にプラバットを持った柊木が仁王立ちしていた。そして、「せーの」の掛け声とともに、腰の入ったフルスイングをカタツムリの殻に叩きつけた。ユアも横からぽこぽことバットで殻を打っている。


「このカタツムリめ、私が受けてばっかりの受け専だと思ったら大間違いだからね!」

「悪魔、許しません! えーい! このヤロー! このヤロー! このヤロー!」


 カタツムリは鈍った動きでもっさりと方向転換して柊木の方向に向き直る。俺の目の前に無防備な殻をさらした。なるほど。叩かれた方向に頭を向ける習性があるのか。

 俺はバットを片手に持つとハエ叩きの要領で、ぺしぺしとカタツムリの殻の尻の部分を打った。柊木みたいにフルスイングするよりも、ユアのように小刻みに打撃を加える方が与えるダメージが大きいらしい。カタツムリは目に見えて弱っていった。


「柊木! スプレーだ!」

「分かってる、まかせて!」


 柊木がバットをスプレーに持ち替えてカタツムリの頭を狙って、思い切り缶をプッシュした。しゅーと真っ白い霧がカタツムリを覆い、あたり一面に黒い煙がもくもくとたち始める。すぐに視界が全部黒煙で覆われた。


「きゃーっ!」

「柊木! どうした!?」

「私じゃない! 誰かいるの?」


 黒い煙を振り払って悲鳴の元に駆け寄ると、黄色のラインの入った体操着の女子が倒れていた。その女子は、ステージの暗幕の向こうから不意に顔を出して、柊木の放つ渾身の悪魔退治スプレーを顔面にもろに浴びてしまったようだ。俺はとっさに女子をだきかかえて、傍らに積んであるマットに倒れ込む。


「柊木、スプレー止めるな!」

「ど、どうしよう? 私、この人に向かってスプレー思い切り吹いちゃった……」


 そう言いながらもスプレーをカタツムリに吹き続ける柊木。周囲の黒い煙がだんだん薄くなっていく。とりあえずカタツムリは退治できたようだ。しょせんカタツムリなのだが、でかくて動きが早いと迫力が違う。俺はほっとして、だきかかえた女子をマットにそっと寝かせた。


「もう大丈夫だと思いますー。除魔剤を忘れないように吹きかけておきましょう。しかし、このおねーさん、悪魔退治スプレーをモロに吸い込んじゃいましたねー。命には、別状ないはずですけど……」


 黒い煙が晴れると、そこには心配そうな柊木と、床に除魔剤を振りかけているユアがいた。


「命に別状はないのね? よかった。このまま死んじゃったりしたら、どうしようかと思った……」

「ひとまず保健室に連れて行くか」


 気を失って倒れている女子は、バドミントンの道具を片付けに来た三年生だ。体操着の黄色のラインで分かる。周囲に散らかったラケットを拾いあげると、俺は倒れている女子の身体をゆすった。お、よく見たら、この人、ダンス部の四天王の一人、川田由乃さんじゃないか。


「川田さん、川田さん、大丈夫ですか?」

「石塚、この人、三年生のダンス部の川田さんだよね? 知り合いなの?」

「俺の方が一方的に知ってるだけだけだよ。顔だけなら柊木も知ってるだろ? 去年のダンスの全国大会で最前列をつとめた四人のうちの一人。校内で有名人だな」


 柊木と言葉を交わしているうちに、長いまつ毛をゆっくりと揺らめかせて、川田さんが目を覚ました。


「んんんー、あれ、私、どうしちゃったんだろ? なんで寝てるのかしら」

「あ、川田先輩、気が付きましたか。私の不注意で川田先輩に向かってスプレー吹いちゃって」


 柊木が膝立ちになって身体を起こす川田さんを支えた。


「スプレー吸い込んで、そのまま気を失われて……。川田先輩、ホントにごめんなさい。大丈夫ですか?」


 そして申し訳なさそうに平謝りする。


「なんか、まだぼーっとしてる。あなたはだれ? そっちの男子は?」

「あ、私、二年F組の柊木千紘です。こいつは同じクラスの石塚健次郎です」

「カレシ?」

「ぜんぜん違います!」


 いや、柊木さ、そこだけめちゃめちゃ力んで否定しなくたっていいじゃねーか。ま、たしかに違うけどさ。


「あら、そうなんだ。ごめんね。こんな体育館の隅でこっそりごちゃごちゃしてるから、てっきりカップルかと思っちゃった。ところで、柊木さん、あなたって……」

「あ、ちひろでいいです、川田先輩」

「そう? じゃあ、ちひろちゃん、あなた実は頭の中エロいことでいっぱいでしょ?」

「え?」


 は? なに言ってんだ、この人。さすがに俺も固まる。


「なんかBLオタクっぽい感じ。もしかしてカバンの中にBLイラストこっそり持ってる系? 男子二人いればカップリングしちゃうタイプ? ガチムチが受けに回る方が萌えちゃうタイプじゃない? あ、私もね、実はそういうの結構、というかすごい大好きだから。いい友達になれそうよね!」


 げげげ、なんだこの人は! まったく脈絡のないBLカミングアウト! 俺は思わずのけぞりそうになったが、すんでのところで思いとどまる。ちらりと柊木の方を見ると、唖然とした顔で川田さんを見つめて、腹話術のごとく最低限の唇の動きでユアにささやいている。


「ユアちゃん、この人のこれ、一体、どういうこと?」

「あー、やっぱりー。完全に副作用が出ちゃってますねー。悪魔退治スプレーを直接吸い込むとそうなっちゃうんですよー。このおねーさん、悪気はないんで我慢してあげてください」

「副作用?」


 頭を振ったりして意識を覚醒させているらしい川田さんに気付かれないように、柊木がそっとユアに聞いた。川田さんはよろよろと立ち上がったが、まだ足元がおぼつかない。


「あぶない!」


 ふらついてまた倒れそうになった川田さんを、俺は抱きかかえた。


「ありがと。キミ、やさしいのね。でも残念だけど、顔はちょっと私好みのBL向きじゃないのよね。健次郎くんだっけ? あ、めんどーだからケンくんって呼ぶね」


 う、この人のテンションに付いていけない。ふらついたけど顔色はいいし、何より屈託のない笑顔でからからと笑ってるところを見ると、身体の方は大丈夫そうだ。身体の方は、な。


 ユアがやれやれと言った感じで説明を加えてくれた。


「悪魔退治スプレーを普通の人間が大量に吸い込むとですねー、簡単に言うと、隠し事ができなくなったり、嘘が付けなくなったりするんですー」

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