第19話 見習い天使が駆けつけた その1

 月夜の学校の屋上は、思っていた以上に暗くて退廃的な場所だった。言うなればデストピア。人類が死滅した後の暗がりって、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。

 俺は屋上のふちの手すりに手をついて街を見下ろしていた。もうすぐ約束の九時だ。隣では髪を夜風になびかせた柊木が、俺と同じように街明かりを見下ろしている。


「柊木、寒くないか?」

「大丈夫。石塚こそ、薄着だし、湯上りだし、風邪、ひかないでよね」

「ああ」


 会話はそこで途切れる。柊木も俺も、天使のすみかを出てからここに来るまで最低限の会話しかしていない。きたるべき決着に向けて緊張感が高まっている。


「石塚、あんたさ」

「ん? どうした?」

「私、そういう経験ないからよく分からないんだけどね。いきなりよく知らない人を好きになったりして、自分でおかしいな、とか思わなかったの?」

「……今となっては、ホントに好きになっていたのか、そこからすでに怪しいんだよなあ。見えなくなるもんなんだな。自分自身のことなのに」


 俺は自嘲気味に笑った。自分の意志とは関係なく一目で人を好きになる、いわゆる一目惚れ。それはある意味とてもロマンチックなものだ。それこそ大昔から時代や国を問わず詩や物語の中で語られてきている。人間の普遍のテーマなのかもしれない。

 それが、どうだよ。何かのせいで歪められたものだったとしたら。自分の心を自分でコントロールできていない、ということでしかないじゃないか。なにが『悪魔の種』だよ。

 今日もこの月明りの下で、誰かが自分の心のコントロールを失っているかもしれない。そう考えると、自然とため息とともに恨み言がこぼれる。


「なあ、柊木。人を好きになるって、なんなんだろうな。俺、信じられなくなったよ。自分の気持ちが」

「たまたま今回の石塚はちょっとアレだったけど、それもまた、恋、なんじゃないかな。ほら『一目で恋に落ちなかったのなら、それは恋とは言えない』っていうじゃない? 私は憧れることはあっても、否定したりはしないよ、その気持ち自体はね」


 柊木は唇の隅っこだけで少し笑った。俺も薄い笑いを返す。


「柊木、おまえって、やっぱいいヤツだよな。ド変態だけど」

「ふふ、ばーか。変態は余計よ」


 月明りの屋上には、ロマンチックとは対極の寒々しくて音のない暗がりだけが広がっていた。


「石塚、来たわよ」


 柊木の声に緊張が走った。屋上のペントハウスの扉がぎぎぎとかしいで開く。中から制服姿の女子がゆっくりと歩き出てくる。俺はそのかつて一度は焦がれた姿に向かって声をかけた。


「やあ、……遅かったじゃないか、柴崎さん。来てくれてありがとう、っていうのもなんか変だけどな」


 うつむきながら近づいて来るその表情は陰になってよく見えない。ただ赤い唇だけが、それ単独で生きているかのようにうごめいた。


「石塚くん、その女と関わっちゃダメだって、あれほど言ったのに。聞いてくれなかったのね?」


 そう言って顔を上げた柴崎さんは、コントラストのない視線で柊木を睨んだ。


「柴崎さん、私、あなたのこと、よく知らないんだけど。そこまで嫌われているなんて光栄ね」

「柊木千紘、話するのは初めて、かな? 私はね、あんたみたいなツンと澄ましている女が嫌い。ひょうひょうとスカしているくせに、平穏に学校来て、そして何の苦労もなく石塚くんと仲良くなっていく。そういう恵まれた女が、だいっ嫌い。自分が恵まれてることに気が付かないところがもっと嫌い」

「別にあなたに嫌われても構わないし、どうでもいい。だけどね、石塚の感情を歪めてまで自分のものにしようとしたのは、許せない。絶対に許せない。私はまだ天使じゃないけど、そんなのが許されてたまるもんですか。あなたなんでしょ? 手当たり次第に男子たちに『悪魔の種』を食べさせて、たぶらかしてるのは」


 柊木がドスの効いた声で反論する。

 そうなんだ。

 俺の一目惚れは、柴崎さんに食べさせられた『悪魔の種』の効果だった、らしい。

 そう言えば、たしかに柴崎さんにサンドイッチをもらって食べたことがあった。あれに『悪魔の種』が付着していたんだ。

 好きだからサンドイッチもらえて嬉しかったのか、サンドイッチもらって食べたから好きになったのか。今となってはどちらが先だったのかよく分からない。当てにならないもんだ、人間の記憶なんて。

 おそらくここ最近柴崎さんに告白した男どもは、俺も含めてみんな何かしら『悪魔の種』の影響を受けてのものなのだろう。そうでなければ、いきなりモテだすのはあまりに不自然だ、と天使のすみかからの移動中に柊木が言っていた。

 お笑いぐさだぜ。俺の初恋が、俺の一目惚れが、全部悪魔が見せた虚構フィクションだったなんて。


「柊木、まあ、ちょっと落ち着け。柴崎さん、一つ聞きたいんだけどさ」

「なに? その女と離れる気になった?」

「いや、柴崎さんは、なんで『悪魔の種』を食べさせる相手に俺を選んだんだ? 聞かせてくれないか?」

「ふふふ、『悪魔の種』ってのがなんのことか分かんないけどね。たまたま、石塚くんが身近にいて、私の中の何かが、石塚くんに話しかけろ、サンドイッチを食べさせろ、って囁いたから。サンドイッチあげたら、石塚くん、いきなり告白してくるじゃない? 石塚くんの反応が一番早かったわ。ふふふ」

「……つまり別に俺でなくてもよかった、ってこと、なのか?」

「もちろんよ。私はね、試したくなったの。私が手にした不思議な力。石塚くんみたいに私があげたものを食べるだけで、みーんな私を好きになってくれたの。田中くんも、武田くんも、串田先輩も、君原さんも、栗原さんも。みーんな私のことを好きになってくれたの! あはは」

「やっぱり、みんな『悪魔の種』にやられていたのか……」


 予想はしていた。浮かれていた自分が滑稽だ。柊木にもユアにも糸田にも、柴崎さんはやめておけ、とさんざん言われていたのにな。


「柴崎さん、柴崎さんは自分の負の感情を書き出してボードに貼りつけた、って言ってたよな。それ、悪魔の餌になってるんだよ。やめてくれないか。でないと、柴崎さん自身の感情もどんどん歪んでいってしまう」

「あはは、なんの話をしているの? 悪魔の餌ってなんのこと? 石塚くんは、私だけを見ていればいいの。私だけを好きになってくれればいいの。みんなが私をすきになってくれる不思議なおまじない、やめられるわけなんてないじゃない」


 表情のない柴崎さんの赤いくちびるは、ぬめぬめとうごめいて呪うようなトーンで声を出し続けている。それは「声」というよりも「音」だった。


「このおまじないのおかげで今、私は毎日がとっても楽しい。みんな私の思うがまま。みんな私を好きになる。とっても楽しいわ、いろいろな男の人から言い寄られるのって。あはは」


 ちくしょう。なんか腹が立つ。いいように好きという感情をコントロールされて非常に不愉快だ。しかし、不思議と悔しいとか悲しいとかいう気分にはならない。不愉快、その一言に尽きる。

 むしろ柊木の方がゆらゆらと話をする柴崎さんの言葉に、怒り心頭だったようだ。黙って話を聞いていたと思ったら、いきなりキレ始めた。


「いい加減にしなさい! あなた、そんなので男子と仲良くなって嬉しいの? 意思とは関係ない虚構フィクションの告白されて嬉しいの?」

「ふふふ、柊木千紘、あんたの言うことなんて私には一切届かない。あんたみたいに何もかも恵まれてる女には絶対分かんない」

「私のなにが恵まれてるってのよ! なにも知らないくせに!」

「なんとでも言って。柊木千紘、あんたなんかどっか行ってしまえばいい。ほーら」


 柴崎さんはそう言って柊木に向かって腕を振り上げ、すっと指さした。


「痛い!」


 柴崎さんの指先から何かが飛び出したかと思うと、柊木が悲鳴をあげて顔を手で覆う。あ、柴崎さん、なにか柊木に向かって投げつけてるのか? いや、違う! ピンポン玉ぐらいの大きさのカタツムリが柊木めがけて飛んできているんだ。あぶねー、小石投げてるのと一緒じゃねーか。


「危ない! 柊木、俺の後ろに隠れてろ!」


 俺は柊木の前に両手をあげて割って入った。びしっびしっと体にカタツムリが当たって弾ける。柴崎さんが腕を振るうたびにカタツムリが飛んでくる。なんだ、もっといてーのかと思ったら大したことねーな。俺は背後に隠れている柊木に声をかけた。


「これぐらいならなんとかなるな。柊木、スプレーをくれ」


 そう言って振り向くと、柊木の頬に一筋の血のあとがついていた。


「あのカタツムリ、当たるとすっごい痛いんだけど。きゃっ!」


 俺の背中に向かって投げつけられたカタツムリが一匹、柊木をかすめた。その白くてか細い手の甲にうっすらと血がにじんで来る。


「おい、大丈夫か!? 柊木?」

「痛い! これ、当たるとすごい痛い!」


 俺の背中に当たったカタツムリもぽこぽこと弾け飛んでいるが、痛みはほとんど感じない。ほおずきの実が当たってるみたいだ。しかし、柊木に当たったカタツムリは、当たるたびに確実に柊木を傷つけて行ってる。


「柊木千紘、痛いでしょ? そうでしょ? もっと痛がるといいわ。あんたなんか、痛みで苦しむといい。あははは」


 柴崎さんは何度も肘を曲げて執拗に柊木を指さし、そのたびに小さなカタツムリが飛び出してくる。


「なんだ? 柊木に当たるカタツムリだけ固いのか? ちくしょう、なにしやがんだ! やめろ、柴崎さん! やめろよ! 柊木に手を出すな!」

「石塚くん、まだこの女のこと、かばうの? そんなにこの女がいいの? 私じゃなくて、この女の方がいいの? そんなはずがないよね? 私のこと、好きなんでしょ?」


 次々と飛んでくるカタツムリから柊木を守るには俺自身が盾になるしかない。幸い俺にはカタツムリが当たってもほとんどダメージがないので、いくらでも盾にはなれるのだけど、これじゃいつまでたっても反撃ができない。受け一方だ。俺は両手を目一杯広げて柊木の前に立ち尽くすしかできない。まるで武蔵坊弁慶の仁王立ちだ。


「柊木にカタツムリをぶつけるの、やめろよ! 狙うなら俺を狙え! 卑怯だぜ」

「カタツムリ? 石塚くん、なんの話をしているの? あははは。でもいい気味ね。もっと傷つけばいい。私の痛みを少しわけてあげるから。ほーら」


 相変わらず表情の抜けた柴崎さんは、赤い唇だけが月光に照らされてぬめぬめと動いて声を出している。腕を上下に振るたびにカタツムリが真っ直ぐ飛び出してきて、そのうちの何匹かは柊木にヒットしていた。当たるたびにがちんと音を立てる。明らかに俺に当たるよりもヒット音が重い。


「その女さえいなければ、石塚くんは前みたいに私だけを見てくれるんでしょ? だったらいなくなればいいのよ。そんな女、いなくなればいいのよ!」


 柴崎さんは両手を振りかぶり、俺に向かって手を突き出した。両方の手のひらの先から、ぱっと見で左右十匹ずつぐらいの大量のカタツムリが射出されて、弾丸のように向かってくる。


「うお、防ぎぎれねーよ! 柊木、ふせろ!」


 背後の柊木に声をかけようと身体をひねると、そこには柊木がすくっと立ち上がっていた。


「なにやってんだ! 柊木! あぶねーから伏せとけって!」

「石塚、どいて!」


 柊木は俺を押しのけて前に出た。


「私が受けてばっかりの受け専だと思ったら大間違いだからね! えーい!」


 気合い一発、手に持ったラケットのようなもので飛んでくるカタツムリをびしびしとはたき落としまくり始めた。素晴らしい勢いと正確な狙い。フォアハンドとバックハンドを織り交ぜながら、手首のスナップの効いた見事なストロークで、みるみるカタツムリを地面に叩き伏せて行く。

 お、こりゃすごい。柴崎さんが無表情に腕振り下ろすたびにカタツムリが数十匹飛んでくるが、柊木の腕の届く範囲内に入ると「せいっ」「さー」「やー」の掛け声とともに振り抜かれるラケットスイングで、ことごとくはたき落とされていった。


「やるじゃねーか、柊木!」

「アリスさんに借りておいて正解だったわね。お休みの日のふとん叩きで鍛えた腕、見せてあげるわ!」

「いや、柊木、せめて中学時代テニス部で鍛えたとか言えよ。布団たたきじゃ、ちょっとダサすぎるぜ」

「しょうもないこと言ってないで。これは『アクマブンナグール』のワイド版、『飛んでくる悪魔をまとめて退治 アクマハタキオトース』だって。弱らせるだけで退治できないのは『アクマブンナグール』と同じ。だから、落ちた悪魔、スプレーで退治しといて!」

「おしっ、まかせとけ!」


 柊木は飛んでくるカタツムリを一つ一つリズミカルに叩き落としている。視線は柴崎さんの手元に固定したままだ。柴崎さんの腕が上下に揺れるたびにカタツムリが石ツブテにように飛んできて、そして柊木のラケットにはたかれては、落下していく。屋上のコンクリート面に落ちたカタツムリが体勢を立て直す前に、俺が手早く悪魔退治スプレーを吹き付けていった。カタツムリが消滅するときの黒煙が、続々と周囲の暗闇に紛れて行く。


「でも、これじゃあ、結局、……ずっと受けてるのと、……一緒ね。……キリが、……ない」


 だんだん柊木の息が上がって、ストロークにキレがなくなってきた。さすがの柊木も常日頃運動してるわけじゃないから、持久力に欠ける。柴崎さんは相変わらず無表情に腕を上下させて、そのたびにカタツムリが飛んでくる。これじゃあ確かにキリがない。いずれ柊木の体力が尽きて終わりだ。

 これは困った。柊木が限界に達してしまったら、俺たちの負けだ。俺はカタツムリが当たっても痛くない。なんとか柊木を守る方法はないのか。最低でも柊木の受けるダメージを俺が肩代わりする手段はないのか。

 俺は地面に落ちたカタツムリに乱雑にスプレーを噴きながら、考える。くそ、このままじゃジリ貧だ。


「私の痛みを、苦しさを、悲しみを、そんなことで受け止められるのかしら? あははは」


 柴崎さんが腕を振り下ろした。柊木がついに受け損なって、カタツムリの弾をモロに食らう。


「い、痛い!」

「柊木! くそ、やめろ! 柴崎さん、やめてくれ!」


 俺はスプレーを放り投げて、再び柊木の前にガード態勢に入った。


「い、石塚、私なら、大丈夫。心配しないで」


 ちくしょう、柊木だけでも、なんとか逃がせないのか!


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