透明な情緒の訳し方
一初ゆずこ
透明な情緒の訳し方
透明な情緒の訳し方を見失った時、
マンションから遠ざかっていくトラックを手すりに寄り掛かって見送ると、少し肌寒い四月の風が、伸ばしっぱなしの長い髪を巻き上げる。見上げた青空から日差しの温もりを浴びた時、言葉がふわりと頭の中に舞い降りた。
答えを見逃さないうちに、つっかけを脱ぎ捨てて部屋に戻り、開け放した窓の前でスマートフォンを操作する。イヤホンからボサノヴァが流れ始め、チェストに置いていたノートと鉛筆を取った沙弓は座り込み、ロングブラウスとスカートの膝にノートを広げて、さらさらと言葉を書きつけた。
――『The Actor's Last Letter』
役者の、最後の、手紙。何度も熟読した英文の物語の表題に始まり、感情の機微を伝える言葉のメモ書きを、ピアノの旋律に乗せていく。十年続いた恋の果てに、互いに本当の自分を曝け出せずに、別離を迎えた二人の話。
情緒は、透明だ。原書に
一人分の荷物が片づいた二人の部屋は、寒々しかった。日当たりのいいリビングからは本棚の中身がなくなって、冷えた水色の影に沈んでいる。寝室のクロゼットには
ダンボールに
後は、最後の仕事を終わらせるだけだ。
窓を閉めた沙弓は、椅子を引いて座り、テーブルに視線を落とす。
そこに広げているのは、いくつもの手紙と、まっさらな便箋。
沙弓は文芸翻訳で言葉を選ぶ時と同じように、昭仁に送る言葉を考える。
最後の手紙を書き残して、沙弓は今日、この家を出ていく。
*
昭仁から初めて手紙をもらったのは、外国語大学を卒業して四年が経った頃だった。喫茶店で英訳の勉強をしていた沙弓は、席を立った拍子に本を落とした。初めて出せた文芸翻訳の小説で、嬉しさから持ち歩いていた。
それを拾ってくれたのが、隣席にいた昭仁だった。
互いに学生時代から同じ喫茶店を行きつけにしていたが、口を利いたことはなかった。茶髪の昭仁は、軟派な見かけからは思いがけずスーツがよく似合っていて、沙弓に本を手渡すと、ぶっきらぼうに余所見をした。喫茶店のマスターが、「ああ、それ沙弓ちゃんの本じゃないか」と嬉々として暴露したから、沙弓は駆け出しの翻訳家だということを、小声で打ち明ける羽目になった。
初めての手紙は、その出来事から二か月後。
出版社を通じて、沙弓の元に送られてきた。
――『
最後まで読んだ沙弓は、手紙を胸に押し当てて静かに泣いた。文学に心酔し、学びをひたすらに追及する生き方を、誰かに肯定してほしかったわけではなかった。ただ、訳者としての役目を果たせたことが、胸が熱くなるほど嬉しかった。
差出人の
翌日の夕方、喫茶店に出向いた沙弓は、素知らぬふりをしている昭仁へ、手紙を差し出した。
「お返事、書いてきました。読んで下さい」
沙弓たちが初めて同じテーブルに着いたのは、この日だった。
*
一冊目の訳本が世に出てから、沙弓は飛躍的に忙しくなった。
翻訳は勉強の連続で、常に最善の表現を模索する沙弓の元に、手紙の励ましは続いていた。まるで学生の交換日記のように、沙弓たちは手紙を渡し合った。
――『いつも有難うございます。原書に描かれた登場人物の心や、物語を包む空気を大切にして、今後も
沙弓が昭仁に渡した手紙の言葉は、普段の沙弓より少しだけ余所行きで、少しだけ背筋を伸ばしている。演技をしているわけではなかった。手紙は、そこに描き出す「自分」を選べる。文学を心から愛して、言語が変わっても遠い地で誰かに愛される物語を伝えたい気持ちは本物で、祈りにも似た情熱は日増しに強くなっていた。
交際が始まるまでに、時間はかからなかった。喫茶店の常連から、訳者と読者の関係へ、やがて恋人になった沙弓たちの同棲生活が始まった。
沙弓は昼も夜もない仕事で、昭仁は商社の営業職。片方の帰宅時に片方がいないことはざらで、不思議と喫茶店に通っていた時よりも、二人の時間を取りづらかった。そんなすれ違いを埋めるように、昭仁との手紙の習慣は、同じ家に帰るようになってからも続いていた。
――『いってらっしゃい』
――『ただいま』
――『お疲れ様』
――『ありがとう』
目に見えて短くなった言の葉は、便箋ではなくメモ用紙や付箋に綴られ、リビングのテーブルやキッチンの冷蔵庫に散りばめられた。幼い頃に集めていたプラスチックの宝石を一つ一つ拾うように、沙弓たちは思い出の喫茶店で買ったクッキーの缶に、言葉の結晶を積もらせた。
平凡な宝箱に、手紙が増えなくなったのはいつからだろう。部屋には流れた月日に比例して、二人で選んだ家具やインテリアが増えていくのに、いつの間にか失くした
初めて喧嘩をしたのは、同棲して半年が経った頃。頼んだ買い出しを忘れていた。約束を覚えていなかった。小さな諍いばかりなのに、気づけばこの家では言葉が息をしていなかった。
とりわけ大きな喧嘩をしたのは、二週間前の夜。次に翻訳する英文の小説を読んでいた沙弓は、物語にのめり込んでいた。憑かれたようにノートへ言葉を書き留めながら、高揚で胸が高鳴った。
手応えを感じていた。原書が描いた透明な情緒の訳し方を、この手で掴めたような気がした。
現実の声に気づいたのは、腕を強く引かれた時だった。
物語の世界に心を委ねている間、沙弓は昭仁の傍に寄り添えない。
沙弓の生き方は、恋人を孤独にする。
チェストの奥に便箋を見つけた日から、沙弓は次の引っ越し先を探し始めた。
*
初めて弁当を渡した日のお礼に、二人で作ったチキンステーキのローズマリー添えの感想。たまには一緒に出掛けようなんて言い合ったのに、仕事が立て込んで予定が立ち消えた日の謝罪――手紙を一通ずつ辿るごとに、幸せと後悔が蘇る。どこでボタンを掛け違えたのか、今なら見える孤独がある。
皮肉だと思う。手紙をきっかけに文通が始まり、やがて同棲生活を送るうちに、日々のリズムが二人の間にズレを生んで、最後の手紙は
そう心の中で
――『先に帰っていたら、卵を一パック買ってきて下さい』
沙弓の字だ。この事務的なやり取りが最後の手紙だなんて、呆れてしまう。けれどその一つ前のメモ用紙には『牛乳1、豚バラ肉1パック』という昭仁の字もあるのでお互い様だ。これらの付箋以降のものは、互いに読んだ端から捨てていた。
いつからこんなにも所帯じみて、敬意も感謝も言葉にしなくなったのだろう。もっと早く気づけたら、昭仁が傷ついたあの夜に、抱きしめることができただろうか。
今からでも、やり直せるかもしれない。このまま、ここを、出て行かずに。昭仁の帰りを、待っていたら。白い便箋を見下ろすと、『The Actor's Last Letter』で紡ぎ出された言の葉が、不意に胸を締め付けた。透き通るほど美しい言葉を交わし合って、素顔を明かし合った途端に、濁りが二人を別つ物語。言葉の奔流が、沙弓を包んだ。緩やかな高揚と、ささやかな絶望も。
沙弓は便箋の真ん中に、文字を一行だけ書きつけた。
消しゴムを握り、書いたばかりの言葉を消す。その上から、別れの言葉を陳腐でありきたりな言葉に翻訳して、最後の手紙を書き終えた。
――『今までありがとう。さようなら』
手紙から背を向けた沙弓は、鞄にノートを仕舞って、玄関へ向かう。扉を開き、外光の白さに目を細めた。今この瞬間から、沙弓は一人だ。桜の花びらが冷えた頬を掠めていくと、訳者ではなく昭仁の恋人として書き残し、すぐに消し去った一文が、頭の中に舞い戻った。
――『私は、手紙のあなたに恋をしていました』
沙弓たちは、手紙の人間に恋をして、生きた人間として出会い直して、互いを手紙の人間以上に愛せなかった。
もう二度と、誰も愛せないかもしれない。演技をしていたわけではなかったのに、ふっと肩の力が抜けて楽になった。
この情緒も透明なら、いつか沙弓にも訳せる日が来るだろうか。分からなくても、沙弓は明日も、透明な言葉を拾い集めて、言葉に殉じて生きていく。
新しい町に着いたら、髪を切ろう。昭仁と出会う前より短くして、もっと身軽になってみたい。沙弓は春の空気を胸いっぱいに吸い込んで、桜が降る青空の下を歩き始めたのだった。
透明な情緒の訳し方 一初ゆずこ @yuzuko
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