雨女の見た青空

RAY

雨女の見た青空


 すりガラスの自動ドアが左右に開く。

 目に飛び込んできたのは、秋晴れを絵に描いたような景色。

 抜けるような青空から柔らかな光が降り注ぎ、爽やかな風が頬を撫でていく。


 五感で感じ取る全てが心地良く思えた。

 心が温かい何かで満たされていくのがわかった。


 目を閉じて一つ深呼吸をすると、秋色の空気が全身に行きわたり目の前の景色に身体が溶け込んでいくような気がした。


「どうかした?」


 フフっと含み笑いをする私・雨海あまみ しずくに、隣りにいる涼笠すずかさ はるが、顔を覗き込むように尋ねる。


「昔のこと思い出しちゃったの。憶えてる? 高一の夏合宿で大雨に降られたときのこと。最終日の耐久レースの途中で」


「もちろん憶えてる。あれは参った」


 私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、涼笠くんは、少年のような笑みを浮かべてウンウンと相槌あいづちを打つ。


「山に囲まれた田舎。辺りは一面の田んぼ。コンビニはおろか民家もなし。そこでバケツをひっくり返したような雨。山の天気は変わりやすいなんて言うけど、その通りだった。五分前には夏の太陽がギラギラしてた」


「二人ともびしょ濡れだったね。でも、合宿所に着いたら雨が降った形跡なんか全くないの。先輩たちに散々冷やかされたよ。『二人で別世界にタイムトリップしてたんじゃないの?』なんてね」


 懐かしさを覚えながら空を見上げると、白いチョークで線を引いたような飛行機雲が伸びていく。エンジンの音が聞こえないのは、見た目以上に高いところを飛んでいるからだろう。


「でも、どうして思い出したんだ? 八年も前のこと」


 涼笠くんがいぶかしそうに尋ねる。

 その質問はもっともだ。今は夏でもなければ、ここは合宿を行った長野でもない。あのときとの共通点を説明しなければ、私の言っていることは理解できないだろう。


 私は、人差し指をあごに当てながら視線を隣に向けた。だったのは、涼笠くんが驚いた顔をするのを期待したから。


「今日も大雨が降るからだよ。五分後にね」


★★


 中学で陸上をやっていた私は、高校入学と同時に陸上部へ入部した。

 公立高校の割に練習がハードだったのは、昭和の時代に高校総体インターハイの常連校だったときの名残り。私立の強豪校の台頭ですっかり影が薄くなったけれど意気込みは当時のまま。毎夏、泊り込みで合宿を行っているのもそのためだ。

 ちなみに、合宿の最終日には「二十キロ耐久レース」を行うのが慣わしで、部員全員がハーフマラソンに近い距離を走る。上位入賞者には賞品が用意され、その結果は一年間部室に張り出される。

 個人的には、賞品はともかく結果の掲示は止めて欲しかった。なぜなら、短距離走選手スプリンターの私は、二十キロを走り切る持久力スタミナを持ち合わせておらず、三年間、部室に不名誉な記録がさらされることは火を見るよりも明らかだったから。ただ、そんな理由でルールが改正されるとも思えず、そのことは自分の胸に仕舞っておくことにした。


「あと五キロって……勘弁してよ。もう限界突破してるし」


 道路脇に設置された、十五キロ地点の目印を尻目に、私は、肩で息をしながら愚痴をこぼす。

 周りには誰もいない。十キロあたりから歩くより少し速いくらいのスピードで走っているため、先輩はおろか同学年の女子にも置いて行かれた。男子はさらにその先を走っている。どの部員も上位進出を目指して真剣に走っているのがわかる。


 私達の合宿地は長野県東部のS市。電車を降りてバスで二時間ほど揺られたところに合宿所がある。標高九百メートルということで、気温が三十度を超えていても湿度が低いため汗はあまり出ない。ただ、一時間以上走り続けるとなれば、熱中症に掛かるリスクは同じ。そこで、レースの参加者は、五百ミリのペットボトル二本を格納できるポーチのついたベルトを腰に巻いている。


 夏の太陽が照り付ける中、歩を緩めてポーチからペットボトルを取り出すと、タオルで汗をぬぐいながら水を喉に流し込んだ。


 雲一つない、真っ青な空を背景に北アルプスの雄大な山々がそびえ立つ。

 目の前には、緑一色の田んぼが広がり、アスファルトが剥げかかった一本道が山に向かって真っすぐに伸びている。視界を遮るものと言えば、田んぼの真ん中に、高さが十メートル以上ある大木が一本あるだけ。昼間だと言うのに人の姿も見当たらず、静寂が辺りを包んでいる。


「まるでゴーストタウンね。日本じゃないみたい」


 荒い呼吸といっしょにそんな言葉が漏れる。

 すると、そんな言葉を否定するかのようにどこからか声が聞こえた。


「お~い! 雨海さ~ん!」


 誰かが私の名前を呼んでいる。驚きを露わにして周りを見回したけれど、声の主と思しき人の姿はどこにも見当たらない。


「ここだよ! ここ! 雨海さんの左手の木の上!」


 再び同じ声が聞こえた。どうやら大木のところに私の知り合いがいるようだ。

 ペットボトルのキャップを素早く締めてポーチに仕舞うと、私は、田んぼの畦道あぜみちを大木の方へと向かった。


「良かった。気づいてくれて。どうなることかと思った」


 大木の中腹――地上から五メートルのあたりで幹が分かれてYの字になったところに、陸上部のTシャツにジャージをまとった男子が座っている。彼は、私と目が合うとホッとしたような表情を浮かべた。


 その顔には見覚えがあった。同じ一年生の陸上部員で名前は 涼笠 陽。クラスが違うためあまり話したことはないけれど、やり投げの選手で、投擲とうてきのとき、グラウンド中に響き渡るような、大きな声を上げていた。


「涼笠くん、そんなところで何やってるの? 登ったら降りられなくなったわけじゃないよね?」


「実は……それに近い」


 私の問い掛けに、涼笠くんは「まいった」と言わんばかりに指先で頬をポリポリと掻く。そして、口をポカンと開けて言葉を失う私に続けた。


「正確に言えば、がいるから降りられない」


 涼笠くんは、少し身体を横にずらして私に何かを見せるような仕草をする。


「あっ……」


 思わず声が漏れた。涼笠くんの横にいる、二匹のトラ猫の姿が目に入ったから。

 二匹とも体長は二、三十センチで表情はまだあどけない。世間一般に言う子猫だ。首にリボンと鈴が付いているところを見ると飼い猫なのだろう。気になったのは、二匹が身体を寄せ合ってひどくおびえた様子を見せていること。


「何かあったの? ネコちゃん、おびえてるみたいだけど」


「――そこにシャベルが落ちてるだろ?」


 私の不安気な言葉をさえぎると、涼笠くんは木の根元を指差す。無造作に転がる、金属製のシャベルが目に入った。


「こいつら、たぶん野良犬に追いかけられて逃げてきたんだ。大きな犬が四頭、木の周りを囲んで吠えてたから。シャベルを振り回して野良犬を追い払ったけど、『もう降りてきても大丈夫だ』って言っても動こうとしなかった。ずっと震えていた。だから、俺が木に昇った。ただ、登ってみたら想像以上に高くてこいつらを抱えて降りられなくなった」


 淡々と話す涼笠くんの横では、相変わらず二匹のトラ猫が小さな身体を震わせている。その様子から死ぬほど怖い思いをしたのが伝わってくる。


 大体の状況は把握できた。ただ、ある疑問を払拭できずにいた。


「涼笠くんがここを通ったのはかなり前だよね? その後、女子が通ったでしょ? 誰も気づかなかったの?」


 いぶかしい表情を見せる私に、涼笠くんは、トラ猫の頭を撫でながら小さく頷く。


「俺は一キロくらい行ったところで引き返してきた。犬の吠える声が聞えて嫌な予感がしたから。武器になるようなものがないか探したら向こうの田んぼにシャベルがあった。いつ女子が通ったのかはよくわからない」


「みんな真剣に走ってて気が付かなかったのかな……。携帯で誰かに連絡すればよかったのに」


「合宿所に置いてきた」


 罰が悪そうな顔をする涼笠くんだったけれど、次の瞬間、その顔に無邪気な笑みが浮かぶ。


「雨海さんがいてくれて本当に助かった。ありがとう」


 涼笠くんは、私に向かってペコリとお辞儀をする。


「ど、どういたしまして」


 思わず目を逸らした私は、条件反射みたいにお辞儀を返す。

 わかったのは、涼笠くんが後先考えないタイプだということ。野良犬に噛まれたら狂犬病にかかるかもしれないし、このまま木の上にいたら熱中症を発症するおそれもある。夜になれば野良犬より質の悪い何かがやって来るかもしれない。私が通り掛らなかったら、この状況をどうやって乗り切るつもりだったのだろう。


 ふうっと大きなため息が漏れた。

 無鉄砲とも取れる、涼笠くんの行動にあきれたものではなく、最悪の状況に陥らなかったことに安堵したもの。そして、弱い者を守ろうとする、彼の優しさに触れてたかぶった気持ちを静めようとしたもの。

 涼笠くんの行動に感化されたのか、私の中で「役に立ちたい」と思う気持ちが強くなっていく。


「とにかくネコちゃんを救出しないとね。涼笠くんも助けてあげるから心配しないで」


「酷いな。俺はガムのおまけか?」


 私の冗談交じりの言葉に、涼笠くんが苦笑いを浮かべる。ただ、すぐに真剣な表情がそれにとって代わる。


「高さは五メートルくらいある。こいつらを手渡すには高過ぎる。でも、放り投げるわけにはいかない。何か策はあるの?」


「こういうのはどう?」


 間髪を容れず、私は、腰のポーチを外して中から二本のペットボトルを取り出す。


「このポーチの中にネコちゃんを入れて、顔を出した状態でファスナーを締めるの。一つに二匹は入らないけれど、私のポーチと涼笠くんのポーチに一匹ずつなら入るよね?」


「でも、こいつら、お互いの身体が離れると暴れ出すんだ。下ろすときもくっつけたままにしないと」


「じゃあ、二つのポーチのベルトを涼笠くんのタオルで縛ればいい。涼笠くんが腹ばいになってポーチをゆっくり下ろすの。私が背伸びをして手を伸ばせば、きっと届くよ。一分ぐらいならネコちゃんも我慢してくれると思うし。でも、ネコちゃんがポーチに入らなかったらNGだから、涼笠くんの役割は重大だよ」


 私の話が終わったとき、涼笠くんの表情が明るくなったのがわかった。


「雨海さん、ナイスアイデア! 俺と違って最高に頭いいじゃん。こいつら、俺が触っても平気だから絶対上手くいくよ。すぐに始めよう。雨海さんのポーチを投げて」


 右手を伸ばす涼笠くんに私はポーチを投げ渡す。それを難なくキャッチした彼は、自分のポーチからペットボトルを取り出す。そして、二つのポーチをタオルで縛り付けた。


「――よしよし、大丈夫だ。怖いことなんかしないから」


 トラ猫をポーチに入れる作業は難航した。ただ、涼笠くんの細心の気遣いのおかげで何とか二匹はポーチに収まった。

 涼笠くんは、小さく息を吐いて額の汗を拭うと、視線を私の方へ向けた。


「こっちは準備OKだ。今からこいつらを下ろす」


「わかった。絶対に受け止めるから」


 涼笠くんの方へ両手を伸ばしながら、私は自分に言い聞かせるように言った。

 すぐに二つのポーチがゆっくりと下りてくる。


 そのとき、予期せぬ出来事が起きた。

 いや、私には予期できたのかもしれない。


 にわかに曇った空から大きな雨の粒が落ちてきた。

 間髪を容れず、閃光が走り、数秒後、静寂を破るような雷鳴がとどろいた。


 ポーチの中のトラ猫が大声で鳴きながら暴れ出す。

 もともと猫は雷が苦手だ。しかも今は精神的に不安定な状態にある。パニックに陥ってもおかしくない。


「こんなときに雨女って……負けない。絶対にやってやる」


 空の底が抜けたような、激しい雨に打たれながら、私は、唇をグッと噛み締めてわなわなと身体を震わせた。


 昔から雨女だった。降って欲しくないときに限って大雨が降った。

 入学式、遠足、運動会、修学旅行、卒業式。酷い目に遭ったことを言い出したら切りがない。

 雨海 雫――小さい頃は、自分の苗字と名前のせいだと思った。みんなに迷惑をかけて申し訳ないと思った。自分の名前が嫌いだった。

 でも、あるとき思った。いくら嘆いたって何も変わらないと。これが運命なら抗ってやると。いつか必ず雨女に勝ってやると。


「雨海さん、ネコが暴れてる! 一度引き上げようか!?」


「ダメ! 上げるのはかえって危ないよ! そのままゆっくり下ろして! 私がネコちゃんと話をする!」


 涼笠くんの申し出を断った私は、一つ深呼吸をすると静かに目を閉じる。そして、一言一言を噛み締めるようにトラ猫へ語り掛けた。


「大丈夫だよ。怖くないから。私はキミたちを助けたいの。だから私のところへ来て。私を信じて。お願い」


 風を伴う雨と雷鳴が席巻する中、私は同じ言葉を繰り返した。

 普通に考えれば、動物に人間の言葉が理解できるわけがない。こんな状況では声も届かないかもしれない。ただ、思いは伝わると思った。だから、正直な気持ちを言葉に込めた。


 二十秒が経った頃、鳴き叫んでいたトラ猫の声が聞こえなくなった。

 慌てて目を開けると、視線の先に、私の瞳をジッと見つめる二匹の姿があった。鳴くことも暴れることもなく、ポーチの中でおとなしくしている。


 涙が溢れてきた。私の思いが二匹に届いたのがわかったから。


「涼笠くん、もう少しだよ! もう少しでネコちゃんに手が届く!」


「わかった! 任せとけ!」


 涙を流しながら必死に叫ぶ私に、ずぶ濡れの涼笠くんが力強い声を発する。

 不意に指先に何かが触れた。それは下りてきた二つのポーチ。四つのつぶらな瞳が私に向けられている。


「ありがとう」


 そんな言葉が口をいた。

 涙と雨で顔をぐちゃぐちゃにしながら、私は、二匹を両手でしっかりと抱きしめた。


★★★


「五分後に大雨? この天気でか?」


 私の唐突な一言に、涼笠くんは、空を見上げて怪訝けげんな顔をする。

 してやったりの状況にフフッと笑みがこぼれる。


「私にはわかるの。だって、私は雨女だから。の大雨も私のせいだし」


「それは違うな」


 涼笠くんは、私の言葉を即座に否定する。


「土砂降りは英語で rain cats and dogs 。あのときの原因は、cats ネコdogsイヌがいたからだ。ついでに言うと、あの雨は幸せの雨だった。トラ猫あいつらを助けたときの雫からは、美しさだけじゃなく神々こうごうしさが感じられた」


「す、涼笠くんったら、何言って」


「――それから、涼笠くんは止めてくれ。雫も今日から涼笠なんだから。これで雨女の効力も切れたってことでいいよな?」


 涼笠くんの顔がまともに見られなかった。

 驚かそうと思った私の方が動揺している。


 涼笠 雫――まだしっくりこないけれど、すぐに慣れるだろう。名前に「雫」は残るけれど「笠」がしっかり受け止めてくれそうだし。


「そろそろ行こう。雫が言っていた大雨――ライスシャワーが降る時間だ。新郎新婦が遅れたら洒落にならないだろ?」


「バレてたんだ」


 真っ白なウエディングドレスをまとう私に、タキシード姿の涼笠くんがそっと手を伸ばす。 

 はにかみながら手を取ると、涼笠くんは、白い歯を見せて無邪気に笑った。


 あのときと同じ、真っ青な空が広がる、穏やかな午後だった。



 RAY

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