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之 比日
第1話 第1部 舞台バレエ「白鳥の湖」第2幕
ステテコが始まった。
なぜ、この場面がこう言うのだろう。白鳥たちがソッテ、アンポアテで次々に出ていく、きれいな場面なのに。
オデットと王子の出会いだけで今日のエネルギーがきれたように倒れた。
そばにいつもついてくれている山村久美の方が余裕なくそわそわしている。
久美とは長い付き合いになった。今ではうちのバレエ団のトップの教師で明子の世話役だ。彼女がバレエ団に入りたてのころ、明子が初めて主役に抜擢された。そう「白鳥の湖」でだ。
当時のいじめは、シューズの中の画鋲。持ち物は窓から捨てられ、衣裳には待ち針。団をやめると親と名乗る者からの電話。など。少女漫画の世界だ。
何年もバレエ団にいるのにソロすらも、もらえない団員に若く才能があり主役になった明子は憂さ晴らしには格好のターゲットだ。ゲネや本番の日には、トウシューズのリボンが切られるのは当たり前で、信頼のできる男性の楽屋に1足だけ隠してもらっていた。
そしてとうとう衣裳を切られた。
オデットは2幕からの登場なので開演前に気づいて良かった。「間に合う」と思った明子だったが縫い始めて驚く、1か所や2か所ではなかった。
廊下を通りかかった、若手の久美を誰にも見られないように自分の楽屋に引っ張りこんだ。誰かにみられれば次は久美もターゲットにされると明子は思った。明子は1人部屋をあてがわれたことに感謝した。
2人で縫い始めると、久美は汗のように涙が溢れて止まらない。
明子は笑いが止まらなくなる。久美の純粋でうぶな姿は微笑ましかった。そして勇気を与えてくれた。久美はぶつぶつ
「こんなことをする人がなんでいるの、・・・」
彼女の手は器用だった。泣きながらも素早く針を動かす。
「まもなく1ベル。」
のスタッフの声でさすがの久美も手を止めて
「ごめんなさい。いきます。」
と出ていこうとする久美に
「誰らも見られないようにきをつけて」
と明子は声をかける。
今もそうだが、開演5分前の1ベルの時に出演者全員舞台の上に集合するのが習わしになっている。
「われわれは何度もこの舞台をやっているが、観るお客様は初めてです。心を込めてしっかりやりとげましょう。」
と団長で明子の夫、
それが縁で久美とは仲良くなり明子が上り詰めると彼女を引っ張り上げた。
今日も明子の傍に久美がいる。
もう身体が動かない特に軸足に使う左足は突っ張ったまま感覚がない。でも時がくれば自然と起き上がれる。大丈夫、今日もできる。明子は舞台袖で横になっていても、そう思っていた。
「私は何度もリハーサルを繰り返し、何十回、何百回と「白鳥の湖」をやってきた。目を瞑っていても舞台に立つことができる。」
明子は舞台袖にある仮設バーに摑まりながら立ち上がった。その時だった音のテンポが速く感じられリズムが乱れた。
「ドラえもんに代わっても同じね。」
と明子はつぶやいた。ドラえもんのように可愛くないのだが、手足が短くまんまる体型の指揮者を団員たちがつけたあだ名だ。
何年か前にチビ骸骨の前田からドラえもんこと山下に代わった。
前任の前田はくせものだった。何人もの女性団員が食いものにされただろう。団員たちは「接待」と呼んでいたが、生易しいものではなかった。それで去っていく子もいた。
去る団員に対して青山は
「このぐらいのことでやめていくなら、最初からくるな。」
だった。接待が気に食わなかったときの公演はたいへんだった。まずは接待の子のソロパートのテンポは踊れたものではなかった。全体はテンポが速く少しでも短く終わろうとする。やつも狸で、客には音楽として聴けるもので実際に合わせた間ではなくなっている。
ダンサーは必死で合わせていくしかない。
結果、音感の悪い踊り手に見えてしまう。
次の「接待」は従うしかなくなる。
当時は前田がバレエの指揮をすべて担っていたところがあり、他にいなかったのだから仕方がなかった。演目によっては楽譜を彼から借りなければならない時代もあった。
その前田が人身事故を起こした。酔っ払い運転で信号無視をし横断中の年配女性を轢いたのだ。
そして逃げた。
女性は足を骨折しただけで済んだのだが逃げたのがいけなかった。
前田は舞台から去ることになる。どれだけのバレリーナが喜んだことだろう。
そして登場したのが山下だ。少しづつバレエの指揮で頭角を現してきていたところにこの事故だ。一気にブレイクすることになる。
今回も1回しかリハーサルに顔をださず、何十万とギャラを持っていく。バレリーナたちは公演のために毎日練習をかさねても、すずめの涙しかギャラをもらえず、チケットノルマーがないと言うだけでありがたがっている。
「こんな指揮者しかいない?」
集中、
「いくよ。いける。」
明子は舞台に走り出て、王子の前に立ちはだかる。立っているだけでも辛い。でもこの場面は、すぐにひっこむ。集中しなければ、このぐらいでだめならば次のアダジオはまったく無理だ。舞台袖にオデットの衣裳を着たスタンバイが見えた。
「絶対に代わるもんか」
あの子には渡さない。私が必死で踊るのを見て笑っているようだ。
出たばかりなのに、もう引っ込みたい。
ポーズで止まっている足が震えている。動きだせば誤魔化せるはずだ。王子の芝居がもどかしい。
「早く動きなさい。若いくせに」
芝居がねっとりとしている。それに合わせて演奏が粘っこい。
「そうよ、早く、やっと絡んでくれた。」
一瞬の場面なのに明子はびっしょりと汗をかき白鳥たちの間をパドブレで下がりながら退場した。
アダジオまでなんとかなる、どうだろう足が小刻みに震えて止まらない。明子はスタンバイのオデットを窺った。山口詩織だ。オームアップに熱が入ってきた。
「いつでもいけますよ。」
と言っているように目を合わせてきた。明子は俯き視線を逸らしてしまう。アンダーの詩織はローザンヌでスカーラシップをとりロイヤルに留学しそのままその国に残っていたが、突然契約をきり、日本に帰ってきた。明子は夫であり団長の青山に詩織の入団をやめてくれるように頼んだ。日本人には珍しいタイプで身長が有り、間接も柔らかく筋肉も強い。レッスンもあまり好きではなく、努力、努力の人ではない。
本音は
「なぜって、彼女は自分より目立つ、若くて踊れる、私はいつでも一番でいたい。」
のに青山は契約を結んでしまう。明子がプリマをしない公演は彼女が主役をはっていてチケットも売れ始めている。
今日、詩織は休みだったが、以前、明子が舞台上で滑り膝の靭帯を痛めその後、すぐに代わりができず、バレエ団の失態をみせてしまった。明子の五十を越えた年齢とそのときの反省もあり、青山は明子にアンダーをつけるようになった。
明子はこのことも気に入らなかった。青山の女なんかに私の舞台は譲らない。夫の青山に愛情を感じていなかったが、舞台には執着がある。今日の舞台はなんとしてもきりぬける。
袖に入ってきて久美は一言もしゃべらない。黙々と明子の足をマツサージしている。
久美の中でとうとうその時が来たとと感じているのだろう。今日で終わりだと。
ワルツが終曲になり、アダジオの前奏が流れ王子が登場しオデットを探し始める。
明子は意外にさっと立ち上がる。久美は少し驚く。明子もこれで終わりと感じ舞台の上で倒れようと覚悟を決めていた。無様に終わらなければやめられない。
明子の赤い靴症候群は重症だ。
今日の王子は誰だっけといまさら思う。名前を思いだそうと明子は登場の音になりサーと舞台中央までいく。足が嘘のように軽く感じられた。足に痛みがない。
身体を折りたたむようにポーズをとる。すると王子がそっと手を差し出し彼女を立たせる。
手からいままでに感じたことのない暖かさパワーが伝わる。
自分が若くなっていく。
ジークフリードが変えてくれる。
違う、ロットバルトだ。
この場面ではいないはずのロットバルトが暖かく見守っている。そして語り始めている。
明子は私だけなのだろうか客席にも聞こえているのだろうか。でもその語りは声ではなく頭に直接伝わっている。
「オデット、なにも心配することはない。」
「なに? どうゆうこと?」
「・・・・」
質問には答えてくれない。
その中でアダジオは順調に進んでいく。
ロットバルトが舞台後で大きく両手を広げ、いや羽根を広げている姿がうかぶ。青山はプロジェクションマッピングのような映像演出を嫌い、ドロップや装置で舞台を飾るのを好んでいる。だから映像を映し出すものはないはずだ。どうして。そんな疑問よりも自分が踊れている喜びの方が勝る。そしてロットバルトの言葉ではない語りは心を支配する。
「白鳥の湖」のストーリーだ。なにを語ってるのバレエに言葉は必要ないのに、どうしてまたそれを受け入れてる。
なぜ、女性たちを白鳥に変えたのか、どうして人目につかないこの場所なのか。古典バレエでは語られない動機だ。自分の寂しい生い立ち。どうして魔法が使えるようになったのか、究極に追い詰められ新しい能力が生まれなければ死んでいた。それは暴力や争いごとだ。誰が人間の男たちだ。だから女性たちを助けるのだ。
助ける?
人目のつかない場所で女性の姿から白鳥に変え争い絶えない人間社会から匿っているのだ。平和になる世の中を待っている。
明子はいつ青山がこの突拍子もないストーリー展開にしたのだろう。新演出だったので六か月も前から振付をはじめていたのに舞台の上で演出が変わっていくなんてありえない。でもアダジオの振付は変わっていない。
そして確信したことは私は若返ったロットバルトの魔法で。
最初のピルエットからアラベスクでわかった客席にも伝わるのが感じられた。いつ足の腱か靭帯がきれて終わるのかを楽しみや心配で観ている視線ではない。テクニックに裏打ちされた表現で魅了している。
明子は喜びで満たされていく。王子に腰を支えられ5番のポーズで後にそり起き上がりながらアラベスクパンシェでプロムナードをしていく。周りの止まっていた白鳥たちがプリエアラベスク・ソッテで動きだす。
プロムナードを終え、よりそいながな二人で歩きだし、ジークフリード王子を見つめたとき、
本倉はリフトまで良く、明子が5番ポジションで踏み込むと大きい身体で深くプリエし下からまるで優しく抱きかかえるように高く上げてくれる。稽古場ではこんなことしてくれなかった。なんど言っても突っ立ちプリエもあさかった。
次の回転がうまくいくように静かに下ろしてくれて流れがスムーズだ。ありえない。練習でできなかったことが本番でできている。
同じことを2セット繰り返したら後に移動する。
移動プレパレーション、プリエアラベスクソッテのときにリフトの変更を本倉に伝えてみる。海外のバレエ団は同じ振付でもリフトの種類が違うのでプレパレーションのときに王子と声を掛け合っている。明子もやってみたくなった。
「グランアチチュードで跳ぶ!」
「OK」
会話は簡潔。
プリエアラベスクソッテから左足で踏み切り右足をドバンに高くあげる。右足のつま先が天井を指すようキープをする。本倉は明子のウエストを両手でもちプリエを深くし、下に潜り込んで両腕が伸び切るまで持ち上げる。一気に上げないと軽い女性でも上がりきらない、そうすると女性の体重がもろにくる。だからこのリフトはタイミングと女性のキープ力がないと頂点にいかずに無様になる。
明子はきれいに頂点までいき、一回転してアラベスクプリエに降りる。
下の本倉がリフトしながら振り向くのだ。上の女性は空中で横に一回転したようになる。
高くてきもちがいい。
これをもうワンセット繰り返し、3セット目のリフトは右足を下に突き刺し左足はアチチュードで持ち上げたまま上手に移動する。
2人の関係は深まり愛を確かめ合う動きになっていく。ピルエットやアラベスク、プロムナードで表現する。ときにまだ迷いオデットは王子から離れたり、また近づいたり。両手を羽根のように王子にたたまれて抱かれたりもする。
最後は右足をクッペで痙攣しているかのように細かくバッチュウを繰り返しフィンガーピルエットで回る。本倉は背が高く手も長いのでフィンガーがやりやすい。
アラセゴンに上げ5番に閉じ後に倒れて起き上がりながらアラベスクパンシェでゆっくりと音楽に合わせていき静止する。
音楽の余韻のあと
静寂。
拍手が鳴っても、明子はパンシェで止まっている。
いつもより長く。いつもというよりこんなに止まってられるのは何年ぶりだろう。
明子は5番に閉じ走って舞台からはける。
拍手、歓声に答えるためふたたび舞台に現れる。
明子はリベランスをしながら感激のあまり涙が溢れそうになるのをこらえる。
「まだ、終わっていない。すぐにヴァリアシオンよ。」
と自分に言い聞かせる。
ほっとし感動するのはまだまだ。
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